第五話

「真剣な徒花ちゃんを見てたら、私も何か描きたくなっちゃった。色鉛筆とコピー用紙、貸してくれる?」

 放課後の四年一組の教室は、日中の喧騒が嘘みたいに静かで、私たちの他に残っている人は誰もいない。昼休みに借りた「コートと春風」を読んでいた茜は、急に本を閉じて机に置くと、そんなことを言い出した。

「ああ、うん。いいよ」

 あのラベンダー畑の絵を描き終え、次に何を描くか決めかねていたから、ちょうど良かった。

「やった。じゃあ、何を描こうか……」

 茜は何かヒントを得ようと、目を凝らして教室中を見回した。

「やっぱり……」

 後ろの壁に貼ってある、四月に書いた自己紹介の紙。

 豪快な書道のパフォーマンスをした痕跡のような、大きくて黒い天井のシミ。

 貸出自由だけど、読んでいる人は今まで数人しか見たことがない、教卓の横の棚に並んだ、先生の好きな昔の少女マンガ。

 それら三つの主要な遺跡を巡った後、探検家の視線は戻ってきて、最終的に私の顔に到着した。

「で、何を描くの?」

「……徒花ちゃん」

 単に会話のスタートとして名前を呼ばれた、と思っていたから、その後に続く言葉がなかったことに気づいた時に、やっと私は、茜の言っていることを理解した。

「えっ! もしかして私? 私を描くの?」

 少しニヤニヤしながら、茜は深く頷く。恥ずかしいから嫌だったけど、ウキウキした様子の茜を見ていると、止めるのも憚られた。私は仕方がなく、肩をすぼめて背をピンと伸ばし、くっつけた膝の上に手を置いた。


「徒花ちゃんって、素敵なロングヘアだよね」

 迷いのない筆遣いで、シャッシャと髪を描きながら、茜が言う。

「あ、ありがとう」

 あの女とお揃いの髪型が嫌で、「ショートヘアにしたい」と言ったことがあるが、「徒花にはロングヘアが一番似合うわ」と断られた。せめてもの抵抗で、一つ結びにした時も、「ほどいていた方がいい」と言われた。その結果、今も渋々続けている何の変哲もないロングヘアを、まさか褒められるとは。

「目は切れ長の二重だね。かっこいいけど、少し鋭すぎて怖いかも」

 今度は目について、茜はまた、忌憚のない感想を述べた。

「まあ、そうかもね」

 髪を褒められて気を良くしていた私は、最後の言葉で、また元の機嫌に戻った。


 茜はその後も、私の顔の色々なパーツについて、褒めたり少し貶したりしながら、丁寧に絵を描き進めていった。完成したのは、三十分ほど後。その頃にはもう、秋のせっかちな太陽はオレンジ色になっていた。


「よし、完成!」

「本当? どれどれ見せて……おっ、すごい上手!」

 色合いが少し単純なことを除けば、完璧に私だった。「もしかしたら、私よりも上手いのでは?」と、少し負けた気持ちになったくらいだ。

「ふふっ、やった。じゃあ、せっかく上手くできたから、それっぽく名前も書き入れようかな。……あっ、そういえば私、徒花ちゃんの名前の漢字、知らないな」

「ああ、ちょっと待って」

 机の中からノートを取り出して、「更科徒花」の四文字を書き、茜に見せる。

「へー、生徒の徒に、フラワーの花で『徒花』なんだね……はい、どうぞ。この絵はあげるよ」

「ありがとう……って、あれ? これって、私のニックネーム?」

 バストアップの構図で描かれた私の右上辺りには、今にも崩れてしまいそうな丸く薄い字で、「サラちゃん」と書かれていた。

「そうだよ、サラちゃん」

 私の目をじっと見つめて、あえて真顔で言う茜。ニックネームで呼ばれたことなんて、今まで一度もなかったから、少しくすぐったかった。

「じゃ、じゃあ、茜のニックネームも決めなきゃね。名字は上川でしょ? そうだなあ……」

「あっ、先生が来るよ」

 茜が早口で告げる。話題を変えるための嘘かと思ったけど、近づいてくる先生の足音は、耳を澄ますと私にも聴こえた。机の中から算数の教科書とノート、筆箱を取り出して、いつもの態勢を取ったところで、先生が入室した。

「かっこの中を先に計算するから、この答えは六じゃなくて……」

 開いたページは図形の単元で、そんな計算をする問題は載っていなかったけど、茜はお構いなしで、それっぽい説明を続ける。こうして、「早く帰れ」と怒られないように、「友達の上級生に、居残ってまで勉強を教えてもらっている熱心な子」のふりをするんだ。

「今日もお勉強ですか? 勉強熱心なのは素晴らしいことですが、もう夕方ですから、暗くなる前に帰ってくださいね」

 いつもの丁寧な口調でそう言い、去って行く先生。彼女は、この四年一組の担任で、背が小さく、「楢原ならはら」という苗字だから、陰で「ドングリ先生」と呼ばれている。

「さて、もう帰ろうか」

 案の定、茜のニックネームの件は揉み消されたが、私はあえて掘り返さなかった。

「……うん」

 よく考えると、茜をニックネームで呼ぶことも、それはそれで恥ずかしかったから。


「ねえ徒花ちゃん、見て」

 いつもと同じ帰り道の途中、茜は不意に、前を通りかかった公園を指さした。「野良猫でもいたのかな?」と、私も一緒に視線を向けると、そこに見えたのは、落ち葉をかけ合って遊ぶ、幼稚園児くらいの男の子たちだった。

「私たちもさ、ああやって遊んでみない?」

「……えっ?」

「だから、私もあの子たちみたいに、徒花ちゃんと落ち葉合戦をしたいの」

 言っているセリフとは裏腹に、茜はとても真剣な顔をしていた。

「服が汚れるから嫌だ」

「汚れるって言っても、インクをかけ合うわけじゃないし、イッチョーラを着ているわけでもなく、ジャンパーとジーパンでしょ?」

 イッチョーラの意味はわからなかったが、もっともな反論だということはわかった。まあ、「すごく大切なジャンパーとジーパンなの」と言えば解決するが、あの頃の私には、嘘をつくなんていう選択肢はなかった。

「いや、だけど……」

 今までは、私が学校から帰る時間には、もう既に勧誘の仕事を済ませて、家にいたあの女。だけど今は、こうして何の気兼ねもなく居残っていられるように、夕飯の時間になって、ようやく帰って来るようになった。

 我が家の夕飯は七時、猶予はまだまだある。それに大体、こんな他愛もないじゃれ合いに、何十分も時間を費やさないだろう。時間を理由に反対するのも無理だ。となると……うん、やっぱり隠し事は良くないってことだな。本音を言おう。

「うーん……」

 秋風に冷やされた手を何度もこすりながら、「えーと」とか「そうだなあ」と呟いて、どう答えようか考えていた。その本音というのは、簡潔に言えば、「幼稚園児と同じ遊びをするのは恥ずかしいから嫌だ」なんだけど、そのまま伝えてしまうと、「茜は幼稚だ」と言っているように思われてしまう。どうにかオブラートに包もう。


 しつこく言い続けるとか、少し強引に手を引っ張るとかして、茜がじれったい気持ちを表現してくれたら、私だって、「仕方がないなあ」と笑って折れた。折れることができた。だけど、実際の茜は、ずっと沈黙を貫いて、真顔のまま私を見つめている。それどころか、その目の黒さは、時間経過に比例して濃くなっていく。

 豹変した茜を知っている私は、適当なオブラートに包んだ本音で、彼女の逆鱗に触れてしまうのを恐れた。だけど同時に、生まれつきの頑固が最悪な形で発動していて、変なところで意地になり、自分から「やっぱり遊ぶ」と言うのも嫌だった。

 かくして、長すぎる無意味な時間が経った頃。適当な思案の言葉で濁したまま、中々答えようとしない。そんな私の煮え切らない態度が気に食わなかったのか、茜はついに、しびれを切らした。

「早く」

 その言葉で、 そのたった三音で、私の頭は真っ白になり、全身の筋肉は硬直した。茜のあの声は、一瞬にして、あの女に植えつけられた私のトラウマを呼び起こした。「おねだり」や「怒鳴り声」なんていう可愛らしいものじゃない。あれは紛れもなく、自らに従わない下等の者に対しての「命令」だった。


「……う、うん」

 茜に連れられて、公園の中に入っていく。私はもはや呆然として、この季節にはまだ少し早い、雪の結晶の模様がついた茜の可愛らしい手袋を見つめていた。

 その時、茜が強く掴んでいたのは、私の手でもなく、ジャンパーの袖でもなく、剥き出しになっていた手首だった。

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