第十六話

「明日からは私も、お母さんを手伝って神の教えを広めるよ」

「……学校は一体どうするの?」

「私、思い直したの。『神の教えに反することばかりを教える学校なんて、別に通わなくてもいいな』って」

「……そう。じゃあ、明日は五時に起きて」

 結局、お母さんの暴力がバレたことは、一言も言わなかった。「お仕置きのことを人に話すな」と言われたことは、実のところ一度もないから。「それを話したら、どうせ聖護会の信者であることもバレるのだから、ダメだろう」と少し考えたらわかるが、それすらもしないことにした。

 お母さんの言いなりになって生きる。それはつまり、お母さんに「ダメだ」と言われていないことは、どれだけしても構わないのだ。


 五時に起き六時前には家を出て、自家用車で教会に到着すると、勧誘員のメンバー全員が揃う八時くらいまで、聖典の朗読を続ける。そして、メンバーでの軽い話し合いを終えると、決められた区域に車で向かう。たとえノルマを達成したとしても、ノルマ以上にパンフレットを渡されているから、六時までは勧誘を行う。最後に教会へ出向き報告、六時半くらいには家に到着し、お母さんが大急ぎで夕食を作って、後はいつも通りだ。そんな生活を土日も休まず毎日。言うまでもないけど、物凄い生活の変化だ。

 勧誘員のメンバー全員が一堂に会するあの話し合いに、初めて出席した時のことは、今でもよく覚えている。勧誘員の人たちは、お母さんを含めると六人で、そのほとんどが中年のおばさんだった。例外として、若い男の人が一人だけいたが、その人はどうやら教会長の息子さんらしい。みんな穏やかな表情をしているはずなのに、どこか得体の知れない闇を感じさせるオーラが、そこには満ちていた。

「お子さんですか?」

 そうやってお母さんに話しかけてきたのは、乾いたウェットティッシュみたいな肌のおばさんだった。

「はい」

 いつもより穏やかな表情をしているけど、お母さんは同じ勧誘員の仲間と話している時でも言葉少なだ。

「何歳?」

 少し屈んで目線を私と水平に合わせると、彼女はそう訊いてきた。その時にはもう、お母さんは彼女との会話への興味を尽かしていて、また話しかけてきた別の人と話していた。

「十一です」

 お母さんはこっちを見ていない。前から気になっていた「お母さん以外の聖護会の信者が、どれだけ神の教えに毒されているのか」を調べるには、これが絶好の機会だと思った。

「まあ、そんな若くから……」

 私は何の躊躇もなく、服をめくってお腹を見せ、ヒートテックの高い襟を下げた。彼女は不意に黙り込み、そこについた傷痕をまじまじと見つめたが、少しすると後ろにいるお母さんの方を振り向いて、

「……本当に、素晴らしいわねえ」

 と、惚れ惚れするように言った。その後、服をすぐ元に戻した私は、諦めと怒りでグチャグチャな気持ちになっていた。手の指全ての腹だけを合わせ、お母さんに羨望の視線を向けている彼女を見ていると、「その手首、切り落としてやりたいな」という思いで、体中がむず痒くなった。


「トイレを済ませて。出発するから」

 そんな思いに駆られた初日から、もう一週間が経つ。

「はい」

 前よりも食欲が減り、寝付きも悪くなった。まあ、生活スタイルが一変したせいだろう。じきに適応する。問題は何もない。


 土日も休まず毎日、八時過ぎから六時まで。メンバーは六人いて、それも同じ家に間を置かず訪れるのはNG。「こんなの絶対に過剰だろう」と最初は思っていたけど、実はそうでもなかった。

 まず私たちの住んでいる舞平県は、四十七都道府県の面積ランキングで二位になるほど広大だが、所在する聖護会の教会は二つだけだ。よって、自分たちの市域だけを担当するのではダメで、もう片方の教会がある県庁所在地の笠友市は南方、この荻浦市は北方という位置関係から、この県の南半分と北半分をそれぞれ担当する。それに加えノルマも厳しいから、これで人手不足なくらいなんだ。


「まずは錦山町から行く」

 楽しそうな水族館や動物園、美しい川や神社。私たちの住んでいる舞平には、本当に色々な場所があるのだと、私は助手席から景色を眺めている間に知った。まあ、私がどれだけ目を輝かせてそれらを眺めたとしても、お母さんが途中で車を止めてくれることは、絶対にないのだけど。


 近くのコンビニに車を止め、私たちは錦山町に降り立った。「町」と言ってもこの場合は荻浦市の一部で、街の中心から東に少し離れた、大部分が住宅街になっている地域だ。


「……あの家に行きましょう」

 そう言って、お母さんが指さしたのは、庭に立派な花壇のある少し古めかしい家だった。

〈ノルマを達成したいなら、闇雲に勧誘して、時間を無駄にしてはいけない。狙うのは貧乏な独身か、伴侶に先立たれたお年寄りよ〉

 初めてこの仕事を手伝った日、お母さんはそんなことを言った。最低だと思うけど、実際、これ以上に効率的な作戦が思いつかないので困ってしまう。


「失礼します」

 インターフォンを押して、お母さんが静かな声で言う。

「……どちら様?」

 しばらくして聞こえて来たのは、おじいさんのしわがれた声だった。インターフォンがある家の二軒に一軒では、宗教勧誘であることを悟られて居留守を使われるから、好調な滑り出しだろう。

「たまたま前を通りかかりました時に、お宅の素敵な花壇が目に入りましたので、少しお話を聞きたいと思ったんです。私もガーデニングが趣味でして」

 よくもまあ、こんなにこやかに嘘をつけるものだ。もはや感心してしまう。

「それでわざわざ訪ねて来るかね。まあ、ちょっとお待ちを」

 訝しんでいるようだけど、同時に少し上機嫌になっていた。少しして出て来たおじいさんは、顔中にシミがあり、「これも昔は真っ黒だったのか」と謎の神秘を感じてしまうほど、完璧な白髪頭だった。

「で、お話って、何を話せばいいんだい?」

 おじいさんの痩せた体では隠し切れず見える、その玄関の中では、大量のゴミ袋が玄関タイルを覆うほど散らばっていた。それに加え、朝だというのに仄暗いのも、また退廃的だ。

「マリーゴールドの冬越え、どうしても失敗してしまうんです。どうすれば上手くできるか、教えてくださいますか?」

 そんなおじいさんの家の中の様子を、チラリと目敏く見てから、お母さんはそんな質問をした。

「えーと、まずはビニールとかで覆ってやるだろ、後は木のクズとかを周りに敷いてやって……」

 おじいさんは楽しそうな表情で話を続け、今回の冬に実際に使ったカバーを持ってきて、その設置方法を教えてくれたり、育てるのが難しいらしい椿の育てるコツを伝授してくれたりした。

 勧誘を成功させるため、最初から嘘ばかりついているお母さんだが、彼のあの話を聞いている時の目の輝きだけは、嘘じゃない気がした。

「……ご主人は、どうしてガーデニングを好きになったんですか?」

 一通りの話を聞き終えた頃、お母さんは不意にそんな質問をした。その瞬間、明るかったおじいさんの表情は、日傘をかけたように暗くなった。

「……妻が花好きだからだな」

 そう言った時の表情の揺れ動きで、私は察した。ふと覗いた玄関の退廃的な様子も、これで納得が行く。

〈狙うのは貧乏な独身か、伴侶に先立たれたお年寄りよ〉

 お母さんの勘は、またもや当たったらしい。

「なるほど、素敵ですね。花壇の手入れも、奥さんと一緒になさるんですか?」

 絶対にわかっているはずなのに、どうしてこんな無知な表情ができるんだろう。こんな怪しげな宗教の勧誘員なんかじゃなく、詐欺師か役者になっていた方が、良い人生を歩めたのではないか?

「……それがな、二か月前に死んだんだ」

 重々しい声で言って、彼は俯いた。それを見て、ニヤリと口角を上げたお母さんの卑劣な姿は、今でも私の脳裏のフィルムに残っている。

「……その辛さ、私にも痛いほどよくわかります。なにせ私も、旦那に先立たれた身ですから。辛いですよね、生きる目的がないのって」

 すぐに神妙な表情を作ると、お母さんは彼の肩を優しく叩き、目線が合うように少し屈んだ。

「……そうだな」

 左手の薬指で今も光っている結婚指輪を、彼は虚ろな目で見つめている。

「……ですけど、同じような境遇の仲間と出会えたことで、私は立ち直ることができました。ご主人は、聖護会って知ってますか?」

「知らん。だが……教えてくれるか?」

「どうぞ、これをお読みください。名刺代わりに、いつも持ち歩いているんです」

 お母さんは肩にかけたトートバッグからパンフレットを取り出し、俄かに興味を示したおじいさんに渡した。

「……って、宗教かい。悪いね、俺は本当のものしか信じたくないんだ」

 そう言って、彼がパンフレットを突き返そうとすると、お母さんは微笑んでこう言った。

「どれだけ馬鹿げた言い分でも、何度も聞いているうちに『本当かもしれない』という気がして来ますよ。本当のことだから信じるのではなく、信じたことが本当になるんです」

 おじいさんと同じく、私はハッとした表情になって、あの女の横顔を見つめた。いくら勧誘のためとはいえ、聖護会の敬虔な信者なら絶対に言わないであろうセリフを、お母さんはまたもや口走ったのだ。

「……わかった。受け取るだけ受け取っておくよ」

 これで六回目くらいだろうか。本当のことだから信じるのではなく、信じたことが本当になる。宗教を信仰することに難色を示す人への最終手段として、彼女はそんな無責任で核心をついた言葉をぶつける。

「そうですか、ありがとうございます。お話、楽しかったです。それではまた教会で」

 勧誘の手伝いを続けていると、段々とその全貌が露わになっていく。昔、お父さんについて訊いた時に返してきた答えもそう。「悪魔の手下を罰する時は厳粛に臨み、決して暴力を振るうこと自体を楽しんではいけない」と聖典に書かれているのに、あの月曜日の夜に透けて見えた、あの貪欲な目の輝きもそう。振り返れば、違和感を覚える箇所はいくつかあった。


「……話を切り上げるタイミングを見失ったわね。これだけの時間をかけて、たった一枚だなんて。次のターゲット、早く見つけましょう」

 実のところ私は、母である更科唯という人間のほんの一部しか、まだ知らないのではないか? そう考えると、最初の一瞬だけは知的好奇心の方が勝ったが、すぐに平穏を望む気持ちの方が優勢になった。


 錦山町での勧誘が終わると、次は真っ直ぐ南下して行って、「そんな感じ」がする家へ手当たり次第に勧誘しに行った。そして、夕方頃には私の家がある天川町に戻って来た。

「お母さん、どうしたの?」

 今日はいつもより調子が悪かった。今日中に配らないといけないパンフレットは、まだ六枚も残っている。二人でコンビニのトイレを借りてから車内に戻り、「さあ、最後にこの辺りの勧誘を始めよう。ノルマ達成するぞ!」というところだったが、お母さんは中々、車を発進させようとしなかった。

「ねえお母さん、何をそんなに見つめ……」

「うるさい!」

 急に怒鳴られて、体が竦んだ。詐欺師や役者の次は、ひよこ鑑定士にもなれるのではないかと思えてくるほど、物凄い集中力だ。だから私は、仕方なく黙り込んで、お母さんが熱心に視線を注ぐ先を一緒に眺めた。


 ――それは、この車が駐車しているコンビニの真向かいにあった。あのおじいさんの家の花壇とは、また違った趣のある花壇を備えた、大きな一軒家だった。


「……えっ?」

 私が思わず声を漏らしたのは、そこから出てきた少女の姿に、見覚えがあったからだった。そして、その子がこちらに歩み寄って来るのを察知すると、お母さんは私の肩を上からグイと押しつけて、「伏せて!」と物凄い剣幕で言った。

「……さっきの『えっ?』って声、なに?」

 その子がコンビニに入店した後も、お母さんは姿勢を元に戻そうとしなかった。

「えーと、それは……」

「いいから早く答えて!」

 異常だ、とすぐに思った。だって、あの時のお母さんは、私が聖護会の教えに反した時よりも、ずっと荒々しかったから。

「……あの子、私の友達なの」


「……やった。やあったーっ‼ ねえ徒花、明日、その子を家に連れて来てくれる?」

「えっ、あー、うん」

「よし、よしよしよしっ! じゃあもう、今日は帰っちゃいましょう! 家のお掃除をしなきゃ」

「えっ、でもさっき、『六時までは残り一時間だ』って言って……それにノルマもまだ達成してないし……」

「そんなの、そこら辺の川に捨てればいいだけじゃない。あー、明日が楽しみ!」

 もはや「狂乱」の域に近い。理性を脱ぎ捨て、これ以上ないほどの歓喜に酔っていたお母さん。何かが急速に変わっていく。そんな予感が、ヒシヒシと胸に満ちていった。

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