第十七話

「やっぱり図書室にいたか」

「おっ、サラちゃん! 明日は私の卒業式だから、会いに来てくれたのかな?」

 昨日の夕方、私たちが目撃した少女、その正体は……茜だった。

「突然なんだけどさ……」

 彼女の向かいに座り、さっそく切り出す。

「うん? どうしたの?」

 私の向かいに座った茜は、肘を立てて組んだ手の上に顎を載せていた。緩やかな角度で降って来る視線は温かく、どこか全てを見通しているような余裕がある。

(振り返ってみれば、茜は私という人間に対し、やけに執着している。今までなんとなく不思議に思っていたその理由は、『いま私の頭の中で渦巻いている謎全ての答えを、彼女が最初から知っていたから』ではないのか?)

 そうやって、一度余計なことを考え始めると、もう止まらなくなってしまって、私は言おうとしていた言葉を見失った。

「……私の家に来てくれない?」

 しばらくして、私がやっと本題を伝えると、彼女の表情は硬くなった。「ピキッ」という音が聞こえて来そうな、一瞬の変化だった。

「ふーん、どうして?」

 お互いに感情の揺れ動きを悟られないよう、あの時の私たちは極めて落ち着いていた。

「茜と仲直りしたいから」

 別に口止めされていたわけではないが、お母さんの名前を出したら、絶対に不審に思われるので、私はあえて嘘をついた。

「でもさ、サラちゃんにはもう私なんて必要ないんじゃない? 私よりもずっと優しい友達が、三人もいるんでしょ?」

 口調は何も変わらなかったが、私には確かに見えた。その目の奥に秘めた嫉妬が、パチパチと火の粉を上げる様が。

「いや……その状況が変わったから、私のところに来たのか。なるほど、その子たちはもうサラちゃんの友達じゃないんだね? サラちゃんは、ゲームのこともアニメのこともよく知らないから、すぐ飽きられちゃったんでしょ。あー、可哀想なサラちゃん。偽善者の優しさに振り回されて、たくさん傷ついて」

 私の頭を撫でながら、茜は言った。「茜と仲直りしたいから」と嘘をつくことまでは事前に決めていたけど、その理由までは考えていなかったから、この状況は私にとって好都合だったんだ。

 弱々しく何度も頷いて、しおらしく「うん、そうなの」と言うだけ。だけど……残念ながらその時の私は、彼女に逆鱗を踏み潰すようなことを言われた後だ。ただでさえ吐き気がするようなそんな嘘、言えるわけがあるだろうか?


「ふざけないで! みんなはそんな酷い人たちじゃない。私がこれまで出会ってきた誰よりも、いや……世界一優しいんだから!」

 彼女の手を振り払い、私は大声を上げた。そして少しすると、図書室にいる人たち全員の視線が自分に注いでいることに気がつき、カーッと恥ずかしくなって俯いた。

「じゃあ、どうして私と仲直りしたいと思ったの?」

 依然として穏やかな口調だが、その目は残酷な輝きを帯び始めていた。早く嘘を考えなければ、と私は焦る。

「えっ? あー、ね、それは……」

「ふっ……ははっ、やっぱり嘘は苦手なんだね」

 笑いながらそう言って、メトロノームみたく周期的に、私の頭をポンポンと優しく叩く茜。「またもや手玉に取られていたのか」という悔しさが湧くのと同時に、私はホッと安心してようやく顔を上げた。

 こういうことは既に何度も経験していて、その度に思っていたのだけど、今日は特にだ。こうして彼女に幼い子供みたく扱われながら、その優しい表情を見つめていると、何だか……「この人が私の本当のお母さんなのでは?」という錯覚に陥る。


「理由なんて別にどうでもいい。お言葉に甘えて、お邪魔させてもらうよ」

 あっさりとそう言って、彼女は再び本を読み始めた。私は少し肩透かしを食らったような気分で、そんな彼女の姿を見つめていた。「なにせ底の知れない人だから、難航する可能性もある」と少し不安に思っていたけど、これは最高の結果だ。

「じゃあ、帰りは茜の教室に迎えに行くね」

「うん、ありがとう」

 口元だけで微笑んだが、ページからは一向に目を離さない。水彩画風に描かれた麦わら帽の少年二人が、手を繋いで走っているイラスト。またまた、いかにもハッピーエンドらしいその小説の表紙を、いつの間にか恨めしく睨んでいる自分がいた。ここまで話が済めば、後は立ち去るか、私も何か本を読むかの二択なのに、どうしても席を立つ気になれないのは、どうしてなんだろう?

「……今日のサラちゃん、なんか変だよ」

「えっ、そうかな? 気のせいじゃない?」

 軽薄に笑ってみせたが、実は図星を突かれていた。

「今だって席を立とうとしないし……さっきもさ、私を見る目が潤んでたよ? 私のこと、もう恨んでないの?」

 そう言って、茜はやっと顔を上げた。その目は子供みたいに輝いて、私が「うん」と答えるのを待ち望んでいた。

「……いいや、恨んでるよ。だって、茜はまだ一言も謝ってないもん、許すはずがない。だけど……不思議と前みたいな嫌な気持ちにはならない。今はただ、私を想ってくれる誰かと一緒にいたい」

 本当は恥ずかしくて言いたくなかった。だけど私には、ここで自分の本心を打ち明けることが、漠然とだが強烈に、とても有意義である気がしていた。

「……どれだけ大切に思っている友達がいても、私はやっぱり、自分の特殊な家庭事情から逃れられない。それが原因で、私はふとした時に、その大切な人たちを傷つけてしまうかもしれない。あの三人は良い子過ぎるからさ、そんな状態で一緒にいると、なんだか罪悪感で苦しくなるんだよ。だけど……」

 ふと言葉に詰まった。まったく、茜の友達をやめた二か月前には、こんなセリフを言うことになる日が来るなんて、思ってもいなかったな。

「……茜と一緒にいる時は、そんな気持ちにならないから楽だな。欠けている者同士、私たちはお似合いなのかもしれないね」

 少し待った。茜の笑い声は聞こえて来ない。どうやら、真面目に受け止めてくれたらしいな。そう思って、私はやっと、赤いギンガムチェックのテーブルクロスから視線を上げた。


「えっ、気持ち悪っ」

 「どうしたの?」と訊く声より先に、そんな罵倒の言葉が口から零れた。茜はその時、若竹のようにしなやかに伸ばした指で口元を覆い、恍惚の表情を浮かべていたのだ。

「……酷いなあ、もう。私はただ、喜んでただけだよ。やっと認めてくれたんだね、『茜と同じで私も欠けている人間なんだ』って」

 「あんたなんかと一緒にするな」という思いも、確かにあったのだと思う。だけど、その時の私は、それを認識することができなかった。

「……やめて、その顔。今すぐに」

 元々どのような感情が描かれていても、どうでもよくなってしまう。限りなく濃くて強烈な吐瀉物の色が、心の中一面に塗りたくられていた。

「へへっ、それはちょっと無理な相談だね。嫌なら力ずくで止めてみて?」

 茜はそう言って、自分の右頬を差し出した。ぶってやろうと咄嗟に手を上げてしまったが、歯を食いしばり、どうにか寸前で止めた。

 暴力を振るわずに、この状況を変えられる方法はないのか? 必死にそう考えた結果、私は一つの案を思いついた。本当にこれで解決できるかはわからないが、何もしないよりはマシだろう。

「……あのね、私が今日茜を誘ったのは、『お母さんにそう言われたから』なの」

 そして私は、ついに口を開いた。


(これだけでは混乱するな。私のお母さんが茜について知った経緯を伝えないと。えーと……まずは『散歩している時に、たまたま家の前を通りかかって』と嘘をついて……)

 焦りながら脳を働かせた。だけど、その少し後、茜の漏らした声につられて顔を上げた瞬間に、私は全く真っ白な状態になってしまった。


「――えっ?」

 この世に存在する全ての絶望を濃縮したような、そんな声だった。まるで言葉を失ってしまったように、彼女はひたすら、輝きを失った目で私を見つめ続けていた。

「……いや、いやいや。違う。違うんだ」

 かと思うと、彼女は本当に唐突に、「脳みそが液体になってしまうんじゃないか?」と心配になるくらい激しく、首を横に振り始めた。その額には幾筋もの汗が流れていた。

「この馬鹿野郎!」

 バチン。茜は何の躊躇もなく、ありったけの力を込めて自分の頬をぶった。とても正気とは思えない。だって私は、その音を聞いた瞬間に、鞭で打たれている時のことを思い出し、反射的に体を竦めたのだから。

「自分が危ない綱を渡っているということは、最初からわかってたじゃないか。きっかけ一つで、このベールはいとも簡単に剥がれると。なのに、どうして……いつから私は……こうなる未来を、頭から追い出していたんだ?」

 その話を聞いて、私は確信した。やはり彼女は、最初から知っていたんだ。私の母、更科唯と、自らの関係について。


「……さて、聞かせてもらおうか。茜が今まで隠していたことを、洗いざらい全て」


 今では遠い遠い昔のように思える、茜と落ち葉合戦をしたあの秋の日。茜は確かに、私に向かってこう言った。

〈サラちゃんのそういう秘密主義的なところ、大嫌いだから〉

 その思いが正当なものだと思ったから、私は今まで、茜の豹変でどれだけ嫌な思いをしても、彼女に変化を求めなかった。

〈私はさ、サラちゃんが『嫌いだ』って言ったところを、変えようとは思わないよ。だから、サラちゃんにも『私のために変わって』なんて言わない。……ねえ、サラちゃん。私の言いたいこと、わかるよね?〉

 彼女が嫌だと言ったところを、私は変えられない。なのに、私が嫌だと思っているところを、彼女に「変えて」とお願いするのはアンフェアだ。あの後に彼女が続けた言葉の通り、私はそう思っていた。

 だけど、そもそも茜には、「サラちゃんの秘密主義的なところが大嫌い」と言う資格などなかったんだ。そんなの、ただのワガママだったんだ。バカみたい。バカみたいじゃないか。「茜だって私に隠し事をしているのだ」と見抜けていたら、私はただ我慢するだけじゃなく、その都度ためらわずに、茜に文句を言うことができた。説得することができた。そうしたら、茜も今頃は改心して……いや、それは都合の良い夢か。

〈私はただ、喜んでただけだよ。やっと認めてくれたんだね、『茜と同じで私も欠けている人間なんだ』って〉

 茜に自分自身を変える気が少しでもあるなら、こんなセリフなど吐くはずがないよな。


「えー、なんか気乗りしないなあ」

 ヘラヘラと笑いながら、茜は回答を渋った。

「…………」

 その顔を見つめていると、段々と心の芯の部分が冷えていって、顔中の筋肉が強張っていった。

「そんな怖い顔して、どうしたの?」

「……いや、茜があまりにもクズだから、少しビックリしちゃって」

 聞いた瞬間に自分でもハッとしたほど、そう言った私の声は冷たかった。

「へへっ……やれやれ、バレちゃったか」

 茶目っ気のある笑顔だったが、その唇は微かに震えていた。私はそんな彼女を、「どうしたのだろう?」と少し不思議な気持ちで見つめた。

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