第十八話

「……ここは人が多いから別の場所に行こうか」

 ふと瞬きをする前は確かに、あの憎たらしい笑みを貼りつけていた茜だが、再び目を開けた時には、驚くほど真剣な表情になっていた。

「……そうだね」

 そうして私たちは、図書室を出て、階段の下にある薄暗いスペースに移動した。


「なんか悪いことしてるみたいでドキドキするね」

 私にやけに密着しながら、茜はいたずらっぽく言った。

「いいから、早く話して」

 そして私は、そんな彼女をウンザリした気持ちで押し返した。ここは確かに狭いが、こんなに近づく必要はないだろう。

「……わかったよ」

 興覚めしたような口調で言うと、茜は私から一歩離れて、大きく深呼吸をした。

「……すごくビックリすると思うから、ちゃんと心して聞いてね。中途半端な覚悟で聞いたら、心臓発作で死んじゃうよ」

 ユーモアのある言葉遣いだったけど、その口調は、危険な儀式の説明をしているように厳格だった。

「うん」

 覚悟を決め、私は深く頷いた。

「じゃあ、言うよ……」

 辺りの物音も、自分の心臓の音に掻き消されて聞こえなかった。永遠のような五秒間の後、茜はゆっくりと口を開いて、こう言った。


「――実はサラちゃんは、私の妹なの」

 思考時間はほぼゼロで、反射的に「あっ、ダメだ」と直感した。いつか国語の授業で教わった「平家物語」の一節のように、「どんなことを言われても、絶対に受け入れてやる」なんていう私の覚悟は、もはや風の前のチリだった。

(嘘だろ? そんなはずない。どうせ、また私をからかっているんだ。記憶を辿れ。どこかに絶対、『そんなの間違いだ』っていう証拠が……)

 「あの言葉は嘘じゃない」という直感的な確信に逆らい、私はそんな無駄な思考を続けた。これが仮に本当でも、私は別に不幸になるわけではない。だけど、これをすんなりと認めてしまったら、私の頭は絶対におかしくなってしまう。そんな確信もまたあったから、私は前に進めなかったのだ。


「まあ、正確には腹違いだけどね。サラちゃんは、私のお父さんと不倫相手の子供」

 そうやって、茜はまたもや衝撃的な事実を告げたが、脳みそがショート寸前だった私は、ただうわ言のように「不倫相手?」と訊き返しただけだった。

「そう、不倫相手」

 茜は復唱してくれたが、やはりまだ、ドラゴンやユニコーンみたいな現実味のない言葉に聞こえる。「コートと春風」の中に出てきたのがきっかけで、国語辞典で調べて意味を知った「不倫」という言葉。まさか、こんなところで聞くことになるなんてな。

「……それにしても本当にいい迷惑だよね。死ぬまで愛し続ける覚悟がないなら、結婚なんてしなきゃいいのに」

 吐き捨てるようにそう言った茜の顔を、その裏側で燃える本物の怒りを見て、私はやっと無駄な抵抗をやめた。もっと正確に言うならば、無駄な抵抗を続けられなくなった。頭はもちろん痛くなったが、それでも憂慮していた事態よりはマシで安心した。


「……サラちゃんの心が落ち着くまで、ずっと一緒にいるよ」

 私の耳元でそう囁いて、茜は私を優しく抱きしめた。頭が疲れていたせいもあるだろうが、「抵抗したい」という気持ちは少しも湧いて来なかった。温かいな。心地良いな。ずっとこうしていたいな。ただ純粋に、そして底の見えないほど深く、そう思っていた。

 それにしても、ありえない話だな。さっきまであんなにも茜を軽蔑していた私が、この程度のことで絆されてしまうなんて。一体、どうしてなんだろう? ……って、本当はわかっている。

 人は絶えず呼吸をして生きるが、窒息している時以外は、「酸素が欲しい」なんて思うことはない。それと同じように私は、ずっとずっと無意識のうちに、「優しい家族が欲しい」と思っていたんだ。

「……五時間目の授業も始まっちゃうしさ、サラちゃんの心が落ち着いたら、ダッシュで教室に帰らないといけないね」

 茜がそう言った瞬間、ちょうど私の耳が触れている辺りの奥、彼女の心臓が、俄かに鼓動を速めたのを感じた。そして私は、その時やっと気がついたんだ。「今まで守り通してきた秘密が私にバレることを、茜はかなり怖がっている」と。

「茜の体、温かい」

 こうして彼女の体温を感じていると、少しずつ実感が湧いて来る。「あー、茜は本当に、私のお姉ちゃんなんだな」と。

「そうかな?」

「うん。目を閉じたら、このまま眠っちゃいそう」

 火を通したフライパンの上を滑るバターみたいに、脳みそが幸せで溶けてしまいそうだ。なんだか、全部がどうでもよく思えてきた。

「じゃあ、子守歌でも歌ってあげようか……」


 茜もそんな気持ちなら、別にこのままでも良いのかもしれないな。だって現に、私はいま茜のことを許せているのだから。お互い嫌な思いをしながら茜の汚点を指摘して、わざわざ文句を言う必要なんてないだろう。

 ……なんて考えていると、その思考をシャットダウンするように、不健康な気分が襲い掛かって来た。居ても立っても居られないほど、ソワソワしてきた。そうか、つい忘れてしまっていたな。私はやっぱり、自分でもどうしようもないほどに、自らの思う「正しさ」を追い求めてしまう人間なんだ。


「やっぱりダメだよね」小さくそう呟くと、私は屈んで茜の腕の中から脱出した。

「えっ、急にどうし……」焦る茜の唇に、そっと人差し指を押し当てる。せっかく固めた決意を、崩されてしまわないように。

「素直に言うよ。私は今まで、『友達が欲しい』とか『大切な人との時間が自分の生きる目的だ』とか言っていたけど、無理だと思って妥協しないなら、本当はずっと『優しい家族』が欲しかった。『優しい家族と過ごす幸せな時間』が欲しかった」

 こんなことを言える日が来るなんて、本当に思ってもいなかった。押し込めていた悲しみと、歓喜とがごちゃ混ぜになって、私の声は激情の塊のようになっていた。

「だからね、今もとっても幸せなんだよ? 『茜は私のお姉ちゃんなんだ』って知れて。そのお姉ちゃんに、優しく抱きしめてもらえて。けどね、だからこそ……このフワフワっていう気持ちで、全部がうやむやになったまま、前に進みたくないの」

 冷たい水を浴びせられたように、茜はパッと目を見開いていた。

「……ねえ茜、私が自分のことを『欠けている』と言った時に、すごく喜んでいたのはどうして? ちゃんと教えて欲しい」

 すると、茜は急に怯えた表情になって、猫に追い詰められたネズミみたいに、一歩二歩と後退った。

「……嫌いにならない?」

 そして少しの沈黙の後、茜は蚊の羽音のような微かな声で、そう訊いてきた。両手の人差し指をチョンチョンとつけては離して、泣き出す寸前の潤んだ目で。

「なんて?」

 とても小さい声だったから、もしかしたら聞き間違いかと思って、そう訊き返した。

「だから……それを聞いて、私のこと嫌いにならない?」

 だけど、やっぱり聞き間違いではなく、ズキュンと心臓を射抜かれたような心地がした。胸が苦しいくらいキュッと締めつけられて、私は耐え切れず自分の両肩を押さえて悶えた。チラッと顔を上げて、彼女の姿を見る。

「……も、悶えるな!」

 すると茜は、顔を真っ赤にして私の脇腹をつついてきた。そして私は、そんな彼女の姿を見て「ある確信」を得た。ほんと、もはや怖いくらいだな。彼女のこの可愛らしい仕草は……ぶりっ子しているのではなく、完璧に素だ。

「……ごめんごめん」

「もー、こっちは大真面目なんだからね。……さて集中しよ。気を緩めたら、またさっきみたいになっちゃうから」

 今までも子供っぽい一面を見せることはあったが、まさか本当の素の姿がここまでとは、思ってもいなかったな。


「……でさ、結局さっきの質問の答えは? 私のクズっぷりを知って、私のこと嫌いにならない?」

 正直なところ、少しだけ拍子抜けしていた。茜が今まで隠し事をしていたのは、あんな傍若無人な性格なのは、きっと悪意ゆえではない。ただ純粋に、彼女の心が幼くてワガママだからだ。

「それはわからない。もしかしたら、嫌いになるかもしれない」

 許してあげよう、とも思った。だけど同時に、姉ちゃんのくせに甘えんな、と怒鳴ってやりたい気持ちもあった。だから私は、せめてものイジワルとして、冷たい表情でそう言ってやった。

「……そっか、サラちゃんは本当に誠実な人だね。じゃあ私も、もう逃げないよ」

 すると茜は、発破をかけられたように弱々しい表情をやめ、覚悟の漲った真っ直ぐな眼差しで、そう宣言した。そして、その姿に感動した私は、姿勢を正して彼女の話に耳を傾けようとしたが、

〈キーンコーンカーンコーン〉

 その直後になった予鈴に、肩透かしを食らってしまった。

「中途半端になるから、放課後にしようか。安心してね。私は必ず、サラちゃんの教室に行くから」

 どうしていま鳴るんだよ、とイライラしていた私の肩を叩き、茜は変わらない真剣な表情でそう言った。

「……わかった、待ってるよ」

 まあ、たった五分で片づけていい話でもないしな、と渋々頷いて、私は踵を返した。が、

「……あっ、ちょっと待って。その前にさ、体の傷、見せてくれない?」

 そんな言葉と共に服を引っ張られ、すぐに引き止められた。

「えっ、いいけど……どうして?」

 突然のお願いに困惑しながら訊く。茜は唇を噛みながら、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「……自分の罪の重さを知りたいから」

 ハッとするような切実な口調だった。

「罪の重さ?」

「うん。実は私ね……」

 そうして茜は、自分の両手をギュッと握りしめた。まるで握力の測定をしているみたいに力強く、その白い甲には血管が浮き出ていた。

「……サラちゃんが暴力を振るわれていることは、初めて会ったあの日から知ってたの」

 震える唇をゆっくりと開いて、茜は恐る恐る打ち明けた。

「……本当に?」

 頭が真っ白になって、私は自分でも怖いと思うくらいの冷たい声で、そう訊き返していた。

「うん……炎天下でも長袖長ズボンだったのを見て、アニメやゲームの話はまだしも、世間話もできないってことを聞いて、確信したの。そして、その少し後、『今日の給食の牛丼、ほとんどタマネギだったよね』って話をしたら、『牛肉の入っているものは、家庭の事情で食べられないんだ』って言われたから……」

 茜は怯えるように体を竦めていた。私は何度も深呼吸をして、頭の中で自分を宥める理屈をこねて、沸騰寸前の怒りを何とか抑え込んだ。

「……言われたから、なに?」

「……家のタブレットで調べたの。『宗教 牛肉を食べたらダメ』って。宗教にはよく『○○を食べたらダメ』っていう決まりがあるらしいから、サラちゃんの家もまさかと思ってね。そしたら、案の定見つかった。牛肉を食べたらダメで、日本に信者がたくさんいて、『教えを守らせるためなら、子供への暴力も厭わない』っていう噂がある……聖護会っていうカルト宗教が」

 堪忍袋の緒が限界を迎えようとしていた。唇を開けばきっと、口が穢れるような罵倒の言葉が出て来るので、上を向いて黙っていた。脳みそを揺らす怒りで気が狂う前に、私は躊躇をかなぐり捨てて、トレーナーを脱ぎ捨てた。


「……酷い切り傷。これ、誰にやられたの? お母さん? お父さん?」

 不治の病を宣告されたみたいな青ざめた顔で、彼女は私の二の腕を見つめていた。幸いさっきまで抱いていた怒りは、新たに現れた「隠してきた傷を知ってもらえる喜び」に、ほとんど掻き消されていた。

「お母さんだよ。あと、うちは母子家庭」

「そっか、まだ良い人に出会えてないんだね。……あのさ、聖護会って、どんなことをしたらダメなの?」

 時間がないのでテンポ良く、今度はキャミソールをめくってお腹の傷を見せた。すると茜は、また目をギョッと見開いて、赤く爛れたそこに指先でそっと触れた。

「聖護会の信者以外は、みんな悪魔の手下だっていうのが教えだから、ゲームとかテレビとか小説とか、そういう文化的なものに触れたらダメ……とか、色々あるよ」

「で、万が一、教えを破ったら……」

「お仕置きされて、こうなる」

「お仕置きって、ここまでは異常だよ。だってこれ、酷い火傷だよ? 全体的に見ても綺麗なところの方が少ないし、放って置いたら大変なことになるかもよ?」

 私の肩を掴み、茜は怒りに満ちた表情で言う。だけど、そんなことは私が一番よく理解しているんだ。……「そうだね」と無表情に頷き、今度はズボンを下ろした。

「これは……?」

 私に寄り添おうとする気持ちよりも、誰もが血を見た時に感じるような、ああいう純粋な恐怖の方が、大きくなっている様子だった。

「鞭」

「……そっか。サラちゃんのお母さんは、本当にクソ野郎なんだね。道理で、娘に『徒花』なんて名前をつけるわけだ」

 そのセリフを聞いた瞬間、私の脳内には巨大なハテナマークが出現した。そして同時に、微かな怒りが芽生えた。

「えっ? 今、私の名前のこと馬鹿にした? 『ミカ』や『チカ』が普通にいるんだから、『トカ』も別に変じゃないと思うけど」

「そうだね。漢字が違えば、普通の名前だと思う。……今まで黙っててごめん。本当はずっと前から気づいてて、『サラちゃん』っていうニックネームをつけたのも、それが理由なの」

 茜が真面目な顔でそう言うので、私の混乱は余計に激しくなった。


「――あのねサラちゃん、生徒の『徒』に花壇の『花』と書いても、普通は『トカ』って読まないの。本当の読み方は『アダバナ』で、意味は……咲いても実を結ばずに散る花、なの」

 コンピューターの再起動のように、私は動けなくなった。そして数十秒後、それが終了して心の中がスッキリすると、

「――なるほど」

 たった一言そう言って、足元の服を再び身にまとった。心の中はとても凪いでいて、なんだか心地良かったのを覚えている。

「じゃあ、行こうか」

 茜にそう呼び掛けた瞬間、ドタドタという何人かの大きな足音が、不自然なほど急に聞こえて来た。

『痛っ!』

『由紀、大丈夫か』

 そんな声が聞こえて来たので、もしかしてと思って急いで見に行ったら、やっぱりあの三人だった。


「もしかして、盗み聞きしてた?」

「……ま、まあな」目を逸らして答える麻里ちゃん。

「教室を出たところから、ずっと尾行してました」階段の角にぶつけたのであろう膝を撫でながら、素直に白状した由紀ちゃん。

「あの傷も見たの?」

「うん。ごめんな、勝手に」ペコリと頭を下げた冴島君。

「そっか……」

 目頭が熱くなり、私は呼吸を整えながら目を伏せた。やっぱりみんなは、最高の友達だな。心の底からそう思った。そう思った、次の瞬間だった。


「――殺すよ」

 うたた寝の最中のヨダレみたいに、その言葉は自然と私の口から零れた。その場にいる全員が、異口同音に『えっ?』という素っ頓狂な声を上げた。

「殺すって、誰を?」

 隣に立つ茜が、私に向かってそう問い掛ける。

「誰って? 決まってるでしょ。私の母親、あのクソ女だよ」

 そう答えた瞬間、私はもう感極まってしまった。衝動に任せて階段を駆け上り、踊り場で狂喜乱舞する。

「自由だ! やっと自由になれるんだ! 自由だ、自由だ、自由だ……」

 両手を突き上げ、ピョンピョンと飛び跳ね、変なリズムをつけて「自由だ」と連呼した。今までの臆病な自分が、心底バカらしく思えてくる。結局のところ、あの女への恐怖を決定的に壊したのは、爆発しそうなほどの怒りだった。今なら、ハサミで紙を切るような感覚で、あの女の喉笛を掻き切ってやれそう。そんな危険な全能感が、私を満たしていた。


「……殺しはダメだ」

 そんな私の前に立ち塞がり、厳格な表情で諭してきた冴島君。私は咄嗟に、その肩を「うるさい!」と突き飛ばしたくなったが、グッと抑えた。授業開始のチャイムが鳴ってしまった今も、私を見守ってくれているみんなの優しい姿が、目に入ったから。

「徒花の性格を考えると、人を殺した経験なんて一生のトラウマになるだろうし、殺し終わった後はきっと施設送りになってしまう。そんなの嫌だろう? だから……もっと良い方法を、みんなで探そう」

 あの女に対する恐怖を克服したいと思ったのは、元を辿れば「みんなを傷つけたくないから」だ。なのに、ここで彼の手を振り払って、その気持ちを無下にしたら、本末転倒じゃないか。

「……うん」そう思った私は渋々頷いて、差し伸べてくれた彼の手を取った。私はその後の人生で、あの選択をもう数え切れないほど称賛することになる。

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