第十九話

「みなさん、お腹は大丈夫ですか?」

 放課後、四人で麻里ちゃんの席に集っていると、屋久杉先生に話しかけられた。

『はい、大丈夫です』

 全員で声を揃えて言う。この前も使ったけど、やっぱり「お腹を壊しました」っていう言い訳は便利だ。

「五時間目は遅れてしまってすみません」

 私がダメ押しで頭を下げると、屋久杉先生はニコリと笑って、その不揃いの歯を覗かせた。

「いやいや、いいんですよ。それにしても、四人同時にお腹を壊してトイレって、こんな偶然あるんですね」

 彼は首を傾げて言ったが、本気で追及する気なんて全くないことを、私たちは既に心得ている。

「いやー……本当にビックリですね」

 こうやって右上を向いて下手にごまかせば、

「ははっ。まあ先生も、小学生の頃はヤンチャでしたから」

 彼は粋な大人なので、満足して帰って行く。

「……で、さっきの話の確認だけど、徒花は作戦会議の前に、まずお姉さんとの話を片づけるんだよな?」

 私たちの話を全て盗み聞きしていた三人は、私自身もまだ実感が湧かない事実を早々に理解して、茜のことを「お姉さん」と呼ぶ。

〈これからは私たちも、『サラちゃん』って呼んだ方がいいかな?〉

 由紀ちゃんはそうやって気遣ってくれたが、実のところ私にとっては、「こんな名前をつける親だった」という事実だけが重要なので、今まで通りに呼んでもらうことにした。

「うん、そうだね。……あっ、噂をしてたら来たよ」

「じゃあ、俺たちは口出しせず見守ってるよ」

 そうしてみんなは、少し後ろの椅子に座って私たちを見守り始めた。なんだか、オーディションを受けている気分だ。

「……なんだか顔色が悪いね」

「大丈夫だよ、罪悪感で苦しんでただけ。さあ、早く話してしまおうか」

 この約二時間のうちに徹夜でもしたかのような顔の茜は、ただ重い実感の籠もった声でそう言った。


「……同じテレビを観て笑い合うことも、娘である私の話をすることも、『ただいま』と『おかえり』を交わし合うこともない。そんな感じで、物心ついた時から冷め切ってるんだよね、私の両親」

 麻里ちゃんの机に軽くお尻を載せて、彼女は語り始めた。その横顔は、何とも言えない憂いを帯びている。

「そうだったんだ」

「……うん。サラちゃんからしたら、『それがどうした?』って感じだよね。実際、私の不幸なんて別に大したものじゃないよ。お父さんは無口で無関心だけど高給取りだし、お母さんは『私のこと大好き!』って感じで甘やかしてくれるし、サラちゃんの家と比べたら……」

 そうやって加熱していく茜を見ていると、何だか心がムズムズしてきて、私は思わず彼女の手を取った。

「別に比べる必要なんてないよ。何をどれだけ辛いと思うかは、人それぞれでしょ?」

 かっこよ、と後ろの三人が声を漏らした。私は少し恥ずかしくなりながらも、茜の目をしっかりと見据え続けた。

「……そういうところだよ。サラちゃんのそういうところが、私には辛かったの」

 そんな私を彼女は真っ直ぐな目で見つめ返していたが、ある時不意にそう言って、張り詰めた糸が弛むみたいに力なく笑った。私はすぐに「どういうこと?」と訊き返そうとしたが、彼女が再び語り始めたのに遮られてしまった。

「あの少し歪な家庭環境は、私にとって自分を守るための武器だった。何か失敗する度、何か気に食わないことが起きる度、私は自分の家庭環境を言い訳にして、逃げ続けてきた。そして、そんなズルい性格だったから、友達なんて当然できるわけなくて、ずっと独りぼっちだったんだけど……小五の春、やっと『友達になれそうな人』を見つけたんだよね」

 友達になれそうな人。その言葉を口にした瞬間、彼女は俯けていた顔をパッと上げた。

「……私はさ、当時から自覚してたんだ。『自分はズルくて弱い人間だ』って。だからあの日、お父さんの不倫について、腹違いの妹の存在について、お母さんに初めて教えられた時は、本当に感動したよ。だってさ……いくら半分血が繋がっていないとはいえ、妹ってお姉ちゃんより弱いじゃん?」

 前のめりな口調でそう言うと、茜はすぐにハッと我に返って、気まずそうに咳払いをした。

「……少なくとも昔の私は、そう思ってたんだよね。名字が更科で、私より一歳下ってことしか教えられなかったから、『いつか会いたいなあ』とか『私と同じ学校に通ってるのかなあ』とか思いながら、特に行動を起こすこともなく、それからも変わらない日々を過ごしてた。そしたらさ、あの暑い夏の日に、長袖長ズボンで花壇を見つめてる女の子を見つけて……声を掛けたら、なんと妹だったんだよ」

 当時の感動をそのまま再現したみたいな表情の茜だが、そこまで言い終えると、口を噤んで窓の外に目を遣ってしまった。そして私は、そんな彼女の気持ちを察して、その続きを代弁してやった。

「……自分で言うのもあれだけど、私は茜よりも辛い境遇にいるのに、茜よりも強い人間だからね。一緒にいると、より劣等感を感じて辛かったんでしょ?」

 我ながら中々の自画自賛だな、と思った。茜は小さく笑って、そんな私に「よくわかってるじゃん」と言った。

「……隠し事をしていたのは、サラちゃんに見下されて嫌われるのが怖かったから。自分の意見が通らなかった時、サラちゃんを脅すような真似をしたのは、そうすればサラちゃんを支配できると気がついたから。人を意のままに操る感覚が心地良かったから。罪悪感を覚えていた頃はまだ良かったけど、あの秋の日からは、そんな自分のことすらも肯定しちゃってさ……本当に私は、最低な人間だよ」

 その表情があまりにも荒んでいたので、私は咄嗟に「そんなことないよ」と言いそうになった。だけどすぐに、「そんなことを言ったら嘘になるな」と気がついたから、口を噤んだ。

「何を言っても許されないことなのはわかってる。サラちゃんの傷を実際に見て罪悪感に駆られて、今さら変わろうと思っても、もう手後れだってことも……わかってるんだけど、言わせて欲しい」

 腰を上げた茜は、私の正面に真っ直ぐ立つと、痛いくらい切実な声でそう言って、

「……今まで、本当にごめんなさい」

 直角に頭を下げた。そして、そんな彼女の姿を見た私は、正直こう思っていた。あと十分くらい、顔を上げないで欲しいな。


 十分もの間、頭を下げ続けていないと許さない。別に、そんなことを思っているわけではない。それどころか私は、「自分を変える大変さ」というものをよく知っているから、私の体の傷を自分から「見せて」と言って、罪悪感という罰を自らに課した彼女を称賛しているんだ。

 私があの時、あんなことを思っていた理由……それは、「顔を上げた彼女に、心からの笑顔で『いいよ』と言ってあげたいから」だった。


「……茜の気持ちはちゃんと伝わったし、時間が経てばきっと許せるんだと思う。だけど、やっぱり今はまだ『いいよ』って言えない。ごめんね」

 あれから約十秒後、ビクビクした様子で顔を上げた茜に向かって、私は自分の素直な気持ちを打ち明けた。正直と優しさは決してイコールじゃないことを、その時の私は既に心得ていたけど、今は、今だけはどうしても、嘘をつきたくなかったんだ。

「……そっか。そうだよね」

 茜はそう言うと、うなだれて一気に脱力した。炎症を防ぐために擦り傷を流水で洗う。あの感覚を何倍も鋭くした痛みに、私は襲われていた。

「……じゃあさ、私のこと殴ってくれない?」

少しの沈黙の後、茜は唐突に口を開いて、そんな提案をした。

「何を言ってるの?」

「だって、ムカつくヤツを殴ったら、スッキリするじゃん。私は早くサラちゃんにスッキリしてもらって、自分のことを許してもらいたいの」

彼女は至って真面目な様子だった。

「でも、暴力は……そもそも、どうしてそんなに急ぐの?」

 私が訊くと、茜は頬をポッと赤らめて、ためらいながらこう言った。

「だって、一秒でも早くサラちゃんのことを抱きしめて、胸を張って『私がお姉ちゃんだよ』って言いたいから」

 火が宿ったように胸が温かくなった。そして、その熱で溶かされた何かが排出されるように、私の目からは熱い涙が零れた。

「……徒花ちゃんは少し真面目過ぎるよ。相手が望んでいるなら、暴力を振るったって別にいいんじゃない?」

 そう言い出したのは、由紀ちゃんだった。

「で、でも……怖いの」

 私に暴力を振るう時、あの女の目の奥に宿る貪欲な輝きは、今も私の脳裏にこびりついている。

〈『誰かの苦しむ姿を見たい』っていう気持ちは、多かれ少なかれ、きっとみんなの心にもあるよ〉

 この言葉を初めて聞いた時には、「そんなことない」と心の中で強く反発していたが、冷静になった今では「本当にその通りだ」と思う。だって私は、雨上がりのコンクリートでのたうち回るミミズを眺めている時、ヤンチャなクラスメイトが先生に怒られるのを眺めている時、確かに「愉快だな」と思ってしまう。

 何の因縁もない相手が勝手に苦しんでいるのを見るだけで、あんな気持ちになるのなら、強く恨んでいる相手を自分の手で傷つけるなんて、怖くてできたものじゃない。あの女と同じところまで堕ちるくらいなら、自殺を選ぶ方がマシだ。


「……あのさ、徒花ちゃんって臆病だよね」

「えっ?」

 悶々としたまま立ち尽くしている私を、由紀ちゃんは不意に後ろから抱きしめた。

「初めて恭平の家に行った二年生のあの日、私は恭平のことを心から許すために、みぞおちを三発くらい殴ったよ」

 どこか自慢げな軽い口調だった。少しのタイムラグの後、「えっ、どういうこと?」と冴島君に尋ねる茜の声が聞こえて来た。

「えっ、本当に?」首を捻って表情を窺う。

「うん、本当だよ」すると彼女は、本当に何でもないような顔で、そう答えた。

「でもね、徒花ちゃんの気持ちがわからないわけじゃないよ。暴力なんて振るったら、私はお母さんと同じになるんじゃないか。そう思ってるんでしょ?」

 相手の心の奥底までを見透かすような、聡い眼差しだった。ピタリと言い当てられたことに驚きながら、私は深く頷いた。

「……だけどさ、徒花ちゃんのお母さんが振るう暴力と、これは全くの別物だよ?」

「それは知ってる! 知ってるんだけど……私が怖がっているのは、茜を傷つけて自分が『楽しいな』と思ってしまうことなの」

 由紀ちゃんの体を押しのけて、私は抵抗した。すると彼女は、今度は私の肩を掴んで正面から向き合い、檄を飛ばすようにこう言った。

「楽しくて当たり前なんだよ! だって私も、恭平のみぞおちを殴った時、めっちゃ愉快だったもん! 殴られる前からビクビクしちゃって、大した力も入れてないのにピーピー泣いちゃって、そんなの面白いに決まってるじゃん!」

 あまりにも正直な告白だったので、その場にいた全員が笑い出し、満ちていた真面目な空気は壊れた。

「本当に問題なのは、その楽しさが癖になってしまうこと。だけど、徒花ちゃんはその点、絶対に大丈夫だと思うの。だってさ……」

 そうして由紀ちゃんは、私の顔を両手で挟んだ。気丈な表情がふと崩れて、感極まったように瞳が潤む。

「徒花ちゃんはこの後、暴力を振るうことよりもずっと楽しいことに、たくさん出会っていくんでしょ?」

 由紀ちゃんにつられて泣きそうになりながら、私はその言葉で、やっと覚悟を決めた。


「……両頬に一回ずつビンタして、罵倒する」

「わかった」

 そして茜は、ギュッと目を閉じて、顔を少し前に出した。一呼吸置いた後、私は右手を振りかざし、

『バチン』

 まずは一発、左頬をぶった。

「自分だって隠し事をしていて、そもそも私の秘密だって知っていたくせに、『サラちゃんの秘密主義的なところが大嫌い』なんて、よく言えたよね。私に嫌われたくないと思っているくせに、私が傷つくようなことをするって、チグハグなんだよ。自分勝手に生きたいなら、友達なんて作ろうとするな。友達が欲しいなら、その性格を何とかしろ。とにかく一貫性を持てよ、気持ち悪い」

 そしてその後、私は左手を振りかざし、さっきよりも強い力で、

『バチン』

 右頬をぶった。

「……変わる気はあるんだよね?」

 罵倒の言葉はもう出尽くしていた。

「うん」

 両頬に赤い痕のついた茜は、真っ直ぐな目でそう答えた。この二回のビンタが、実は神秘的な儀式だったみたいに、そこには生まれ変わった彼女がいた。

「……そっか」

 心に染みついた霧が晴れた。私は衝動に任せて両手を広げ、茜の方に倒れ込んだ。


 そして私たちは、あの女に最高の形で復讐する作戦を立て始めた。

「……本当にいいの? 復讐の作戦なら、私とお姉ちゃんだけでも考えられるよ?」

「いいんだよ」

「いや、でも……」

「あー、もう。だから、あんまり人の気持ちばっかり考えちゃダメだよ。徒花ちゃんも恭平と同じタイプなの? やめてよね、そういうの一番ムカつくから」

「徒花、やめておいた方がいいぞ。あいつは怒ると、すぐみぞおちを殴ってくるから」

「えっ、DV癖だ……」

「そんなんじゃない! だってこの馬鹿、『私に余計な心配をさせたくないから』って理由で約束を破って、おじいちゃんのこと黙ってたんだもん。そりゃあ、みぞおちの一つや二つ殴るよ」

「えー……」

「まあまあ、由紀のDV癖の話は置いといて、俺もまだ聖護会のこと許せたわけじゃないから、完璧な復讐作戦を立ててやって、徒花んちのクソババアに八つ当たりしたいんだよな」

 私は死ぬまでお母さんの言いなりなんだ、と思っていたあの頃が、もはや懐かしい。あの女の呪縛を断ち切るためのナイフは今、最高の仲間たちのお陰で、着々と完成に近づいている。

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