第二十話
お姉ちゃんとの仲直り、みんなとの作戦会議、お姉ちゃんの家への移動・お姉ちゃんのお母さんへの事情の説明、このアパートまでの移動。そんなこんなでもう、帰りの会が終わってから二時間近くが経つ。
「準備は本当に大丈夫?」見慣れた家の扉の前、隣に立つお姉ちゃんに訊く。
「うん」しっかりと頷いたのを見届けてから、一つ深呼吸をした。
「じゃあ、行くよ」
そして私は、いつもより重く感じられるドアノブを捻り、グッと押し込んだ。それと同時に、お姉ちゃんは後ろを振り向き、作戦通り合図を出した。
「おかえりなさい」
両手を合わせ、あの女は満面の笑みで言った。昨日もそうだったが、相変わらず吐き気のするような笑顔だ。お姉ちゃんが打ち明けてくれた事実と、あの女の不可解な点を合わせて五人全員で考え、あの女がどういう考えで動いているのかは、もう二つの予想に絞れている。後は、どちらが正解かを確かめるだけだ。
「ただいま」
「お邪魔します」
「いらっしゃい、ずっと待っていたわ。どうぞ上がって」
「……ねえ茜ちゃん、お父さんと私の関係については、ちゃんと把握してる?」
「はい」
無駄に三つある食卓の椅子が、初めて活かされる時が来た。私とお姉ちゃんは並んで座り、あの女と向かい合う形になっている。窓から差し込む夕日は、私たちとあの女とを分断するようにテーブルに広がっていた。
「良かった。じゃあ、早速だけど……
悟さん。その名前を口にした瞬間、あの女の表情は、今まで一度も見たことがないほど優しくなった。
「えっ、急にどうしたんですか?」
お姉ちゃんは一瞬、やっぱりという顔をしてから、すぐに怪訝な表情を作った。
「何でもいいの。体の具合とか、お仕事の調子とか、最近ハマっているものとか……本当に何でもいいから、悟さんの話を聞かせて?」
そう言って、お姉ちゃんの手を握ったあの女は、まるで禁断症状に苛まれる中毒者のようだった。そして、「お姉ちゃんを利用して、お父さんに復讐しようとしている」という予想が正解だと思っていた私たちは、虚を突かれた。
――どうやら、私の母・更科唯は、私たちの父・上川悟に、まだ恋をしているらしい。今日、お姉ちゃんをここに呼んだのも、自分からはもう会いに行けない思い人の近況を聞くためだ。
「……と言われましても、色々あるので少し難しいですね。そちらから具体的な質問をしてください」
あの女の手を振り払うと、お姉ちゃんはテーブルの上で手を組んで、不敵に笑いながらそう言った。
「えーと、じゃあ……」
「ただし! あなたが一つ質問をしたら、こちらからも一つ質問をします」
お姉ちゃんの横顔の鋭さを、私はその時、久しぶりに実感した。「心強いよ、お姉ちゃん」と思いながら、私は体を少し傾け、彼女の肩に頬をつけた。
「わかったわ。じゃあ私から……うん。やっぱり、まずは健康状態ね。最近、悟さんの体調はどう?」
「元気です」
笑顔でただ一言、お姉ちゃんはそう答えた。
「そう……安心したわ。美奈子さん、料理の味付けが濃いらしいから、高血圧になっていないか心配で……」
するとあの女は、戦地に行っている我が子の無事を知り、安堵する母親のような姿を見せた。お互いの親の名前は既に確認し合っていたが、美奈子というのは、お姉ちゃんのお母さんの名前だ。憎しみのような他意は特に見られなかったが、こんなオーバーな反応は絶対に……お姉ちゃんの神経を逆撫でする。
「京都出身でもないのに、あれの好みが異常なんですよ。本来、我が家くらいの味付けが普通です」
やはり予想通りだった。お姉ちゃんは青筋を立てながら、何とか大声を出すのは堪えて、冷たい軽蔑の目でそう言った。そしてその瞬間、あの女の表情には確かな殺意が宿った。
「そう……」
「本当に殺されるのではないか?」と私はビクビクしていたが、お姉ちゃんは全くもって堂々としていた。そして実際、あの女はしばらくの間、そのままの表情で黙り込むと、最終的には何とか溜飲を下げ、元の気味悪い笑顔に戻った。
お姉ちゃんの方にチラッと目を遣る。すると、「ほらね」と言わんばかりの誇らしげな表情で、こなれたウインクを返された。そうか。結局のところ、この場の主導権となっているのは「お父さんの情報」で、それを握っているのはお姉ちゃんなのだ。
「……じゃあ、一つ質問をどうぞ。どんなことを訊いてもいいわよ」
あの女がそう言ったのと同時に、玄関から物音が聞こえてきた。ここもまた作戦通り、あの女はお姉ちゃんとの話に熱中していて、それに気づかなかった。
「わかりました。では……どうしてあなたは、聖護会の信者をしているのですか?」
「どうしてって? そんなの決まってるわ、悟さん以外の『生きる目的』が欲しいからよ」
そんなことが実際に起きたら、脳出血で倒れてしまう。だから、これはきっと私の錯覚だけど……その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中からは、パチンと血管が爆ぜる音が聞こえてきた。
「ストップ」
前のめりになった体を、サッと手で制される。
「復讐は後からたっぷり」
耳元で囁かれたその声が、ゾッとするような怒気を孕んでいたので、私はすぐに納得して引き下がった。
「――お仕事の調子は?」
「――順調です」
「――最近ハマっているものは?」
「――ゴルフです」
そんな風に、お姉ちゃんの答えはとても簡潔なものだった。だけどあの女は、まるでご神託を授かったように恭しく、その答えを噛み締めた。
「――二人はどのようにして出会ったのですか?」
「――栄田町にある『ズィーベン』というバーで出会ったわ。あの頃の私は仕事人間だったからね、突然リストラされたショックが大きくて、ほぼ毎夜飲み歩いていたのよ」
「――二人はどのようにして会っていたのですか?」
「――二週に一度ほどのペースで、悟さんの方から、この家に遊びに来てくれたわ。残業だって嘘をついて、夜に二時間くらい滞在してくれることもあれば、有休を取ったことを隠して、朝から普段の終業時刻まで居てくれることもあったわね。……あの頃は、本当に幸せだったわ」
一方、あの女の答えは丁寧だった。もはや、過去を振り返ること自体を楽しんでいるようで、うっとりするような幸せな表情を浮かべている。無論、そこには美奈子さんに対する後ろめたさなんて、微塵も見られない。
鬼畜のような人間であることは変わらない。だけど、今までの私にとっては少なくとも、あの女は「未知の存在」ではなかった。聖護会の教えを妄信し、子供の気持ちすらも考えられなくなったバカな大人。あの女に対する私の認識は、そんなものだった。だけど、今では……「一体なんだ? このバケモノは」としか思えない。私はもう、これを人間だと認識できない。
「唯、バカなことはやめろ!」
徐々に露呈していくあの女の本性に、我慢の限界を迎えそうになっていた時、私たちのお父さんは満を持して登場した。
「お父さん、さっきのラインは嘘だよ」
どちらの予想が正解でもいいように、しっかりと話し合っていたので、これもまた作戦通り。お姉ちゃんは頃合いを見計らって、ここの住所と一緒に、「誘拐されたから助けに来て」というメッセージを送っていたのだ。
「はっ?」
初めて自分の父親と対面するというのに、私は少しも感動できなかった。背が低いのは予想通り。くたびれたスーツを着て、くっきりとした二重で、髪には少しパーマがかかっている。もしかすると、昔は物凄いイケメンだったのかもしれないが、今こうして見てみると、少し顔のいい普通の男の人って感じだ。
「……あなたに迷惑をかけるのは絶対に嫌だと思って、今までずっと、私から会いに行くのは我慢してた。本当に本当に辛かったのよ」
椅子を薙ぎ払うように立ち上がって、感極まったあの女は、お父さんをギュッと抱きしめた。
「ねえ、やっと覚悟が決まったんでしょ? 美奈子さんとの生活を捨てて、私と共に人生を歩んで行く覚悟が。私、本当に嬉しいわ。節約して資金を貯めてきた甲斐があった」
「いやっ、僕は、あの……」あの女の物凄い勢いに、お父さんは困惑していた。
「こうなるのなら、最初から『あのメイク』しておけば良かった。私もだいぶ更けてしまって恥ずかしいから、顔はこのまま見せないわ。だけど、声の方は前より自信があるの。なにせ、あなたと別れてからずっと、ずーっと練習していたからね」
私の理解を一周も二周も突き放し、話はとんとん拍子で進んでいった。あのメイク? 声の練習? もしかして、誰かの真似をしようとしているのか? だとしたら、どうして? 色々な疑問が浮かんで来て、頭はパンク寸前になった。
「悟、一緒に遊ばない?」
一つ深呼吸をした後、あの女はそう言った。地声とはかけ離れている透き通った少女の声に、私は全身の毛が逆立つのを感じた。あんな外道野郎が無垢を装っていること自体も、もちろん気持ち悪い。だけど、この形容し難い気持ち悪さには、それ以上の原因がある気がした。
「……どう?」
一歩後退って、あの女はお父さんの表情を確認した。
「……あっ」
そんな絶望の声を漏らし、お姉ちゃんはすぐ私の目を覆った。だけど残念ながら、私はお姉ちゃんよりも一足先に、「それ」を目撃してしまったのだ。
あの頃の私の「そういうこと」に関する知識は、きっと周りの子よりも少なかった。だけど、私があの時に目撃した「あれ」については、授業でも習っていたので知っていた。
「今のは誰の真似ですか?」
やっとわかった。この気持ち悪さの本当の理由が。
「交通事故で死んでしまった悟さんの初恋の人、恵理子さんの真似よ」
確かに「そういう刺激」はあった。かなりの密着だったし、何よりも二人の身長差のせいで、図らずとも顔があの女の胸に埋まっていた。だけど、それでも最悪じゃないか。好きな人に他人の真似をやらせ……それを見て勃起するなんて。
「……虚しくないんですか?」
そう訊きながら、お姉ちゃんは私の目を覆っていた手を離した。彼女の顔は、もはや青ざめている。
「虚しい? どうして?」
これも、もはや「お父さん」と呼ぶに値しないな。あっという間に葛藤の欠片もなくなって、あの女の腰を抱いている姿を見て、そう思った。
「……あっそ、もういいや。サラちゃん、何か訊きたいことある?」
あり余る嫌悪感や怒りで、感情のブレーカーが落ちてしまったらしい。お姉ちゃんはその時、どこまでも真顔だった。
「じゃあ……」
二人の仲睦まじい様子は、もう巨大なカタツムリの交尾にしか見えない。自分本位で一貫性がなくて、人を傷つけても屁とも思わないで、何もかもが人間として終わっている。あまりにも不快だから、このまま終わらせても良かった。だけど……これから始まる新しい暮らしは、全てを明らかにしてから迎えたかったんだ。
舞い散ったホコリで不快な思いをするかもしれない。だけど、一時の辛抱だ。さて、大掃除をしなければ。
「あんたはさ、私のことを何だと思ってたの?」
「私の所有物」
思い人と一緒にいられる喜びにニコニコしたまま、あの女は少しの迷いもなく、そう答えた。本当に良かったよ、諦めという名のマスクを着けてきて。
「どうしてお父さんじゃなく、お母さんが私を育てることにしたの?」
私は言い淀まずに、次々と質問を続けていった。
「悟さんがそう望んだから」
相変わらず、その眉はピクリとも動かない。
「じゃあ、次はあんた。これを見たら、わかると思うけどさ……」
そうして私は、クソ男の方を向き、服をめくってお腹の火傷を見せた。さて、どんな反応をするか。あの女への質問とは違い、そんな楽しみも少しはあった。まあ、どんな結果であろうと、私がすることは全く変わらないのだが。
「私は小さい頃から、こんな風に虐待され……」
『バチン』
私の説明を遮るように音が鳴り響いた。クソ男が、あの女の頬をビンタしたのだ。
「この馬鹿野郎! 実の娘に、こんな酷いことをして……責任を持って育てろよ。自分の娘だろう?」
クソ男は息を荒げながら、嘘くさい真剣な表情で、あの女を叱りつけた。いやー、これは予想外だったな。そうかそうか、私のために怒ってくれるのか……なんて、思うわけがないだろう。本当にどこまでもクズなんだな。今もこうして顔を合わせているのに、「会いたかったぞ」とか「大きくなったんだな」とか、そんな言葉を一つも口にしない。そんな父親失格の男が、一体何を言っているんだ?
「……ストップストップ。ちょっと、ストップしてもらっていい? あのさ、その前に訊きたいことがあるんだけど……そう言うあんたは、一度でも私を育てる責任を持とうとした?」
私が笑いを堪えながら訊くと、クソ男はバツが悪そうに目を逸らして、
「いや、でも……僕は君の親権を持っていないから……」
と答えた。
「それでも、一度くらいは会いに来たっていいでしょ?」
「でもそれは……美奈子の機嫌が悪くなりそうで、怖かったから」
徐々に弱々しい口調になっていく。
「機嫌が悪くなったら、何だって言うの?」
「もういいでしょ!」
私を止めようと叫ぶあの女。
「良くない! 邪魔したら、ここにお母さんを呼ぶからな!」
それよりも更に大きな声で、あの女を制するお姉ちゃん。まるで地獄絵図だ。
「で、早く答えろよ。妻の機嫌を損ねたら、一体何だって言うんだ!」
私の怒声を最後に、辺りの逆立った空気は鎮まった。すると聞こえて来たのは、クソ男の泣き声だった。気持ち悪い、早く答えろ。そう思いながら、その顔を睨みつけていると、クソ男はやがて口を開いた。
「……僕の料理だけショボくなる。部屋の掃除をしてくれなくなる。そして何より、目が怖くなる」
獰猛なカラスを目前にした、か弱いヒナのような目だった。演技ではなく本当に、その男はそんな目をしていた。
「……はっ?」
怒りを通り越して諦めに、諦めを通り越して今……私の心は殺意に染まろうとしていた。
「逆に君は嫌じゃないの?」
キーッという理性の手綱の断末魔が、体の奥深くから聞こえて来る。
「そりゃあ嫌だよ。だから私は、そもそも不倫なんてしない。不倫したあんたが、百パーセント悪い」
「それはそうだけど……だって、仕方がないじゃん。美奈子よりも唯の方が……恵理子に似ているんだもん」
そう言った時の子供みたいな笑顔で、断末魔が止まりかけたその時、
「お母さん、もういいよ!」
お姉ちゃんの号令で、私はふと我に返った。事の一部始終を聞いてもらうため、万が一、あの女が武力行使に出た時に守ってもらうため、私たちは美奈子さんに、こう頼んだのだ。
――合図を出してから五分後に部屋に入って来て、号令があるまでトイレに籠もっていて、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます