第十五話

 その翌日も、私は台所で早朝から目が覚め、早くから登校した。冴島君は普段から早めに学校に来ているらしいので、「早く会えたら朝のうちに謝ろう」なんて思いつつ、扉を開けた瞬間、

「おはよう!」

 という威勢の良い声が聞こえて来て、思わずビクッとした。

「お、おはよう」

 冴島君だ。いくら早めに学校に来ていると言っても、ここまで早くに来ているとは、予想できなかったな。

「なんだか眠れなくて、すげー早く来ちゃった。ランドセルを置いたら、ちょっと一緒に来てくれないか? 話をしたいんだ」

 昨日のように、腹を立てている様子でもない。かと言って、茜のような豹変の兆候も見られない。完璧にいつもの冴島君なのが、少し気味悪かった。

「……わ、わかった」

 私が返事をすると、彼はすぐに立ち上がって扉の近くに移動した。私はランドセルを自分の机の上に置き、早々にそこに向かおうとしたが、「その前に教科書とかを机の中に入れないと」と思って、すぐ踵を返した。

 いつもなら雑に突っ込むだけなのに、今日に限って教科書やノートの背表紙の向きを揃えたり、丸くなった鉛筆を削ったりしないと気が済まない。一刻も早く彼に謝りたい。そんな思いの熱は、実際に彼と対面した瞬間、冷めてしまったらしい。

「……待たせてごめんね。じゃあ、行こうか」

 だけど私は、もう止まれないのだ。

「うん」

 キビキビと歩き出した彼の背中を追いかけ、私はゆっくりとした歩みで、隣の空き教室に入った。


「……昨日の放課後のことは、昨日のうちに麻里から全部聞いたよ」

 何か問題を起こした子と、その子に説教をする先生以外は使わない部屋なのに、なぜか私たちの教室と同じく、ズラーッと並んでいる席。ドアの小窓から誰かに目撃されると面倒なので、廊下側の真ん中の机二つを向かい合わせにくっつけ、私たちは話し合っていた。

「その……ありがとな」

 恭しく頭を下げた冴島君に、私もつられてお辞儀をした。そして同時に顔を上げ、不意に目が合った時に、私はその意味を初めて理解して、思わず溜め息をつきそうになった。

「ありがとうって……何に対して?」

 念のため確認する。

「もちろん、俺の秘密を麻里にバラしてくれたことだよ。徒花が話してくれなかったら、俺はこの先もずっと、約束を破ったままだったと思うから」

 すると、やっぱり思っていた通りの答えが返って来た。まるで、お天道様の下にいるカタツムリになった気分だ。ハッキリしていないのは気持ち悪くて、思わず訊いてしまったけど、こんな気持ちになるなら、黙って頷いていれば良かったな。

「……だけどさ、おじいさんが死んでしまったのは別として、それ以外の秘密ができた原因は私なんだよ?」

 爪半月がやけに小さい自分の爪を眺めながら、私は訊いた。この嫌な気持ちがトリガーになって、私の心の中では、冷めていた「早く冴島君に謝りたい」という思いが再燃していた。

「そうだな。そのことについては、もちろん今も怒ってる」

 変わらない口調でスラッと答えられたので、私は驚いて顔を上げ、彼の表情を窺った。本当にまだ怒っているのなら、彼はどうして、こんなにも穏やかな表情をしているのだろう?

「……でもな、俺だって同じくらい酷いことをしたんだから、お互い様なんだよ。今日はさ、ケンカをするために来たんじゃなくて、お互いの失敗を清算するために来たんだ」

 いつになく慎重に言葉を選び、冴島君は、これ以上ないくらい真剣な表情で言った。自分を責める気持ちはもう上限に達し、私は彼の人格の素晴らしさに心から感嘆した。そして同時に、「この調子だと、ちゃんと許してくれそうだな」と、少し安心していた。

「……実は俺、気づいてたんだ」

 そして少しの沈黙の後、彼は再び重々しく口を開いた。その形の良い太い眉毛は、眉間のシワに引っ張られて歪んでいる。私は足の裏をピチッと床につけ、背筋を伸ばして彼と向き合った。

 しかし、彼は唇を固く結んで斜め下を向いたまま、しばらく経っても続きを話さなかった。だから私は、彼の肩をトンと叩いて、

「何に?」

 と訊いた。すると彼は、私の方に向かって唐突に手を伸ばし、私のヒートテックの高い襟をグイッと下げた。「胸を触られるのでは?」なんて反射的に思ったけど、もちろんそんなはずはなく、彼のゾッとした顔を見た時に、私は遅れてその真意に気がついた。私は昨日、お母さんに首を絞められていたのだ。

「……やっぱり。体育の時間に、赤いのがチラッと見えたんだよな」

 頭をグチャグチャに掻き回して言うと、彼は続けて「聖護会の信者なのは、お母さんだけか? お父さんもなのか?」と訊いてきた。私はすぐに、「お母さんだけ。お父さんはそもそもいない」と答えた。世界で一番悲しい会話だな、と心の底から思った。 

「……振り返ってみれば、サインはたくさんあったよな。夏のクソ暑い日でも長袖長ズボンだったし、プールの授業もずっと欠席だったし、その頬の痕だってそうだし、そもそも土曜日の夜だって……あんなの、本当のことを言っている顔じゃなかった」

 シワが浮き出るくらい強く目を閉じ、彼は俯いた。私は黙り込んだまま、そんな彼の姿を見つめていた。

「……一昨日の夜も、本当は徒花の手を取って逃げるべきだったんだ。だけど、あの時の俺は怒りに操られていて、それができなかった。本当にごめん」

 ゆっくりと目を開け、続いて顔を上げ、こちらをじっと見つめた後に、頭を深々と下げて謝ってきた冴島君。

「そんな謝らなくていいよ。私、少しも怒ってないから」

 本当は今の今まで、「どうして軽い指摘すらしてくれなかったの?」と恨めしく思っていたのに、話を簡単に終わらせるため、そんな嘘までついてしまった。

「……私の方こそ、謝らないといけないよ。実は私ね、冴島君がおじいさんと教会で口論しているところを、前に目撃したの」

 本当にこれで最後なんだ。そう思うと、切り出すまでは少し時間が掛かった。だけど、それからは自分でも驚くほどスラスラと言葉が出てきた。


「……本当にごめんなさい」鼻頭が押されて痛くなるくらい頭を下げ、私は謝った。

「顔を上げて。徒花の気持ちは、ちゃんと伝わったから」

 私が謝っている途中、彼はニコリともせず真剣な表情を保っていて、正直少し怖かったが、幸いその声はとても穏やかだった。

「許してくれるの?」肩をポンと叩かれたが、まだ顔は上げずに念のため訊く。

「もちろん」

 まるで怪盗か何かのようだけど、私はその答えを聞いた瞬間に、本当は走って立ち去る予定だったんだ。現に、冴島君に対するお別れの言葉を脳内で確認し、椅子を後ろに引くところまでは実行した。だけど……。

「徒花の家の話、もっと詳しく聞かせてくれないか?」

 彼にそう訊かれた瞬間、動きが止まってしまった。

「……わかった」

 お母さんに暴力を振るわれていることは、どうせバレてしまったんだし、「話す必要性がない」と断るのも感じが悪いだろう。そう思って、私は少し迷った後に話し出した。

「だけど、少し漠然とし過ぎていて、話しにくいかな。もう少し詳しく、どういうことが知りたいか教えてくれる?」

「どういうこと? そうだな……まず、受けている虐待について聞かせてほしい。そもそも、いつから始まったものなんだ?」

 机の上で手を組み、彼は再び真剣な表情に戻った。

「聖護会の教えに従うことを強制されたのは、物心ついた時からだけど、暴力を振るわれるようになったのは、一年生の夏から」

 事実をただ伝えているだけ、別に嬉しくも悲しくもないのに、気を緩めたら泣き出してしまいそうだった。この不思議な感覚は、茜と友達になったあの日の動揺に、どこか似ている。

「……具体的には、どんなことをされるんだ?」

「普通の時は、長袖長ズボンでしっかり隠れる範囲を、殴られたり蹴られたりする。そして酷い時は、背中や脚を鞭で打たれたり、二の腕を切りつけられたり、お腹に熱湯をかけられたりするね」

 ここで感情的になるのは、同情して欲しいと思っているみたいで嫌だ。私は唇を真っ直ぐに結んで、必死に涙をこらえていた。

「あの聖典は俺も読んだけど、難し過ぎてよくわからなかったんだ。聖護会って、具体的に何をしたらダメなんだ?」

「えーと、まず牛みたいな角のある動物を……」

 この調子だと、本当に洗いざらい訊かれそうだ。「かなり困難な戦いになるぞ」と覚悟して、私は至って冷静に説明を続けた。


「……なるほど、よくわかったよ。ありがとう」

 なんとか一滴の涙も零さずに、全てを伝え終えることができた。そして彼は、質問をやめると下を向いて、どうにも得心が行かないといった表情で、何かを考え始めた。

「……うん、やっぱりそうだ。さっきは大罪を犯したみたいな顔で謝ってたけどさ、冷静になって考えてみたら、徒花は別に何も悪くないよ」

 おもむろに顔を上げると、彼は出し抜けにそんなことを言った。私のことを気遣っている様子でもない、彼の率直な感想であろうその言葉に、私は思わず「えっ?」と素っ頓狂な声を漏らした。

「いや確かにさ、やったこと自体はちゃんと悪いよ。『えっ、そこで裏切るの?』って、俺も傷ついたし。だけどさ、俺が徒花と同じ立場だったら、もっと酷いことをしてたんじゃないかな。徒花が俺に対して言ったようなことに、『実は俺のお母さん、聖護会の幹部なんだ』っていう嘘を追加して、ついでに殺させるとかさ」

 算数の時間に、「こんな解き方も思いつきました」と発表しているみたいだった。彼には失礼だけど、私はそんな彼の純粋な顔を、何度見したかわからない。

「つまり、徒花があんなことをしちゃったのはさ、徒花自身の人間性のせいじゃなくて、最悪な家庭環境のせいだよ」

 そんな彼の言葉に覆い被せるみたく、反論しようとした。

「いや……」

 だけど、その後に続く言葉は、私の頭の中に一つも浮かんで来なかった。沈黙の時間が経過するのに比例して、「その通りなのかもしれない」という気持ちが、段々と大きくなっていく。彼に許しをもらった後も、まだしつこく残っていた罪悪感が完璧に消え去り、私の心は浮足立っていた。

「一昨日の夜に教会で会った時、とっさに嘘をついたのもさ、お母さんの暴力が怖くてだろ? ならさ、それをどうにかすればいいだけじゃん」

 だけど、その言葉を聞いた瞬間に、そんな束の間の幸福は露と消えた。本当に今更だけど、そこまで来てやっと、私は気がついたんだ。「お母さんに対する恐怖を克服しない限り、私は永遠に変われないのだ」と。


「……どうにかって?」

 平静を保とうと必死で努力した。「冴島君は何も悪くない、彼に当たるなんて論外だ」と。

「先生に相談するのが一番良いと思うよ」

 相変わらずの真剣な顔が、下手な演技みたいに安っぽく見えてしまい、私は自分の唇を噛んだ。

「相談したら、どうなるの?」

 あー、ダメだ。こんな鼻にかかった声じゃ、冴島君をバカにしているみたいじゃないか。

「詳しいことは俺にもわからないけど、そういう専門の大人たちが、保護してくれるんじゃないかな?」

 たとえ語り手が文豪だとしても、実際にその景色を見るのと、人から話を聞かされるのとでは、受ける感動は大きく違う。それと同じで、人の「狂気」というものもまた、言葉だけでは伝え切れないものなのだ。だから、冴島君がこんな提案をしてくるのも、決しておかしな話ではない。なのに……。


「……甘いよ。甘い甘い甘い甘い、なんにもわかってない!」

 行き場のない怒りが爆発して、気がついた時にはもう、机の天板の上に体を乗り出して、冴島君の胸倉を掴んでいた。彼は困惑する様子でもなく、ただ真っ直ぐに、そうやって取り乱してしまった私を見つめている。

「いい? そんなことをしてしまったら、『あの女』にとって私は、娘じゃなくて聖護会の評判に泥を塗った悪魔の手下。殺されるよ、確実に。たとえ、その専門の大人とやらを皆殺しにしても、自分が死刑を食らうことになってもね」

 徐々に視界がぼやけていく。涙だった。

「じゃ、じゃあ、寝込みを襲って復讐するのは……」

 自らの胸倉を鷲掴みにしている私の両手を、彼は強く握りしめた。「方法は絶対にあるから」と私を励ますみたいに。要らない優しさだ。私は自らの手に自然と籠もっていた異常なほどの力を、今度は彼の手を押しのけるために使い始めた。

「そんなことをしても、あの女は反省なんかしない。それに、息の根を止めない限り、確実にやり返される。捨てるものなんて最初から何もないけど……それでも私は、あの女を殺せない。親子の情なんかじゃなく、恐怖で体が竦むから」

 そこまで言うと、彼はピタリと黙り込んでしまった。頑丈な手錠みたいに私の手を押さえつけていた両手が、寿命を迎えた花びらのように、はらりと落ちる。

「……私はね、冴島君や由紀ちゃんや麻里ちゃんみたいな、『大切な人』と一緒にいる時が、一番幸せなの。『私は大切な人との時間のために生きてるんだ』って思って、ここまで生きてきたの。なのにさ、こうしてみんなを傷つけてしまう私には、そんな生き方をする資格なんてない。だから、もうおしまい」

 体中の力が抜けた。心が空っぽになった。乗り出した体を元に戻した私は、何も言わずにただ天井を仰いだ。頬をしつこく流れ続ける生温かい汁は不快だったけど、私は何も手を施さなかった。その感覚を感じていないと、いつの間にか魂が抜けて行ってしまいそうで、怖かったから。


 涙がやっと止まった頃、「朝読書」という取り組みの開始を告げるチャイムが鳴った。もうこんな時間か、といい加減に覚悟を決めて、私は静かに立ち上がった。

 「もう何も考えたくないから」という理由で、私はお母さんの言いなりになって生きることを決めた。だけど今日、そんな自分を客観視してみてわかったんだ。「そもそも私には、こんな生き方しかできないのだ」と。


 重い足取りで、扉のすぐ近くまで歩いて行く。扉の小窓をふと覗くと、さっきまでは静まり返っていた廊下を、談笑しながら歩いて行くクラスメイトの姿が見える。光の加減のせいか、ある時不意に、その窓に薄っすらと自分の顔が映った。

(これが同じ小学五年生なのか)

 つい、そう思ってしまった。また泣き出してしまいそうで目を閉じると、自分でも止めようがないくらい急激に、みんなの幸せな暮らしの空想が頭の中を埋め尽くした。


 家庭内のルールや人としての規範を守っていれば、大抵のことは許されるところ。夏休みや冬休みには、色々な場所に連れて行ってもらえるところ。頑張ったら頑張った分だけ、「偉いね」と褒めてもらえるところ。羨ましいところを挙げていったら、もうキリがない。

 だけど、その中でも群を抜いて、ずっとずっと昔から、心の内側が焦げついてしまうほど渇望しているのは――手放しで喜べるような、無償の愛だった。


 しばらくの間、振り向くことも歩み出すこともせず突っ立っていると、急に手を握られた。だけど、振り返ることはしなかった。朝日に照らされた静寂の中、段々と強くなるその力で、全てがわかったから。 

「……痛い、放して」

 そう言うと、彼は素直に私の手を放した。だけど今度は、私が開けられないように、手を伸ばして扉を押さえた。

「……ダメなままでいいんだよ」

 かすれた声だった。やるせなさと優しさが混ざった、何とも言えない表情だった。

「さっき、俺の胸倉を掴んだことだって、別に謝らなくていい。流石に何でも笑って許せるわけじゃないけど、また今回みたいなことが起きたら、また今日みたいに向かい合って、もっと軽い感じで謝ってくれたら、それで」

 つい絆されてしまいそうだったから、考えてきた別れの言葉を早く言って立ち去ろうと思った。だけど、さっきまで確かに私の脳内にあったはずのそれは、いつの間にか五十音の紙吹雪になっていた。

「……それはできない」

「どうしてなんだ? もしかして、由紀と麻里は嫌がるだろうと思って……」

「違う」

 その瞬間、彼の表情は俄かに不機嫌になった。

「……行き過ぎた気遣いは、失礼にしかならないぞ」

 これまでの彼の言葉を全て拒絶しておきながら、私はその時、「全くその通りだ」と頷きそうになった。そう、頭ではちゃんとわかっているんだ。「みんなが許してくれるのであれば、誰の迷惑にもならないというのなら、正しさや一貫性なんかは度外視して、ただ楽で楽しい道を選んでもいい」と。なのに……。

「わかってるよ。でもね、そういう性格なんだ」

 本当にそうとしか言いようがなかった。人の豹変する様子を過剰に怖がってしまうのと同じで、感覚としてはアレルギーに似ている。だからこそ、余計にタチが悪かった。

「……そうか」

 本当は、もう少し食い下がって欲しかった。だけど、そんなことを言うのはワガママだな。軽く俯きながら、少しの間、麺棒でこねるみたいに唇をモゴモゴと動かすと、冴島君は静かな声でそう呟いた。そして、扉から手を離し、あっけなく引き下がった。


「――周りにどれだけたくさんの人がいても、心の中に誰にも触れることができない暗いものを持っている人は、本当の意味での『孤独』から脱することはできない」

 朝読書が始まったということは、あの時点で既に朝の会開始の十五分前。だけど、その時の私の脳内には、「早く戻らないと」なんていう焦りは欠片もなかった。いま瞬きをした瞬間に、隕石が落ちて来て地球が終わっても構わない。そんな風に思えてしまうほど、その時の私は自暴自棄だった。


「急にどうしたの? 何かの名言?」

「名言というか、俺の教訓。麻里からもう聞かされてるかもしれないけどさ、『姉ちゃんがクラスメイトをいじめて、自殺に追い込んだ』っていう話を聞いてから、俺は毎日、死にたくて仕方なかった。正直言って、姉ちゃんにも早く責任を取って死んで欲しいと思ってたくらいだ。まあ、あの時は俺た……」

「ごめん。もう少し、優しい表情で話して。トラウマが蘇りそうになるから」

 彼の言葉を遮り、思わずそう言ってしまった。

「あっ、わかった。ごめんな」

 こうやって、すぐにやめてくれるから悪く思わないけど、いつも柔らかい笑顔を浮かべている彼の、寒空の下に置き去られた金属みたいなあの表情は、かなり私の心を脅かした。

「ご、ごほん」

 気を取り直す時、こうして咳払いの音を実際に言うのは、由紀ちゃんの癖だと思っていた。冴島君が感化された方なのか、由紀ちゃんが感化された方なのかは不明だけど、付き合いが長いと、こんなところまで似るんだ……と、場違いに少しほっこりした。

「……まあ、あの時は俺たちまだ二年生だったしな、俺の姉ちゃんのいじめや、由紀の姉ちゃんの自殺について噂しているクラスメイトは、一人もいなかったよ。だけど、それでも俺は怯えてた。『人殺しの弟がのうのうと生きていることを知って、快く思う人なんて一人もいない』ってな。そして、そのことを母さんと父さんに打ち明けたら、二人はこう言ったんだ。『恭平は何も悪くないから、気にする必要なんてないよ』って。だけど、俺はまだ納得できなかった。だから、『それでも、どうしても気になるんだ。この気持ちを何とかするには、どうしたらいい?』って訊いたんだよ。そしたらさ……」

 そこまで言うと、彼はふと口元を綻ばせた。

「今度は目くじらを立てて、たった一言、『面倒くさい子だね』って。姉ちゃんは部屋に引き籠もったまま出て来ないし、職場には姉ちゃんの噂が出回っていて、母さんは退職、父さんは転職をしようとしていた頃だったからな。二人とも、心に余裕がなかったんだよ。だけどさ……やっぱりあの時は、『あー、無駄なんだ』って少し絶望しちゃったな」

 笑っているはずなのに、涙を流して嘆いているよりもずっと、悲し気に見えた。

「……俺の母さんと父さんは、本当に良い親だよ。『助けて』と相談したら、いや、たとえ俺が何も言わなかったとしても、二人は表情を見て察して、俺を助けてくれる。どんな悩みや悲しみも、魔法みたいに消し去ってくれるんだ。だからさ、俺にとっては、それが初めてだった。『母さんも父さんも解決してくれない悩み』っていうのを抱えるのは」

 彼がそう話し終えたのと、ほぼ同時だろうか。背後から「おーい」という小さな声が聞こえて来たので、彼の顔を直視できなくなって俯いていた私は、ふと振り向いた。そこにいたのは、まだランドセルを背負ったままの由紀ちゃんだった。彼女は一人で焦った顔をして、左の手首についた架空の腕時計を何度も指さしている。相変わらずの重役出勤の由紀ちゃんに、遅刻の心配をされる日が来るとは思わなかったな。

 だけど私は、彼の話を全て聞き終えるまでは戻れない。仕方がなく手でバツを作って、由紀ちゃんに見せる。それを見て彼女が頷いたのと、チャイムが鳴ったのとは、ほぼ同時だった。


「……長々と話しちゃってごめん。本当はわかってるんだ。俺なんかには、徒花の固い決意を変えることはできないって。だって徒花、二人でゲームしてた時も、すげー頑固だったもんな」

 そう言って、彼は笑った。いつも通りの柔らかい笑顔だった。それを見て私は、やっと夢から覚めたような気分になった。

「チャイムも鳴ったし、もう悪あがきはやめるよ。残りはダイジェストで」

 少し可笑しかった。「無駄だから話すのをやめる」のではなく、「伝えたいことはダイジェストで伝え切る」というのが、いかにも彼らしい。本当に素敵だ。

「……さっき言ったみたいな悩みができてしまって、俺はずっと孤独を感じていた。だけど、そこに由紀が現れてくれた。由紀は俺のその悩みをよく理解してくれて、解決してくれた。そのことを通して、俺は最初に言ったような教訓を得た。徒花のその『自分が正しいと思えないことに対する強い抵抗』っていうのも、あの頃、俺が感じていた恐怖と同じなんじゃないか。俺たちの力で何とかできるなら解決してあげたいけど、こういう心の奥深いところに触れて、それを変えるには、『友達』という存在でも足りない。家族くらい親密な人か、俺にとっての由紀みたいな理解者じゃなきゃ役に立たない。後者と出会えるかは完璧に運次第だから、前者の『優しい家族』を手に入れるため、俺の家で隠れて暮らさないか?」

 そんなことを彼はペラペラと早口で話した。それからしばらくの間、私たちは黙り込んでお互いの顔を見つめ合った。


「……これで、面接は最後ですね。『一緒に暮らそう』という私の誘いに対する、あなたの答えは何ですか?」

 ある時不意に、冴島君は体育の時の「気をつけ」みたく姿勢を正して、にこやかな表情でおどけてみせた。明確な終わりの雰囲気が、どこからともなく湧き出て私たちを覆う。

「はい、お断りいたします」

 私も笑いながら、そう答えた。最後くらい泣かないように。そう思って、これまでの人生で一番目元の筋肉を酷使した時の最後に、私はまた涙をこらえた。


「……昨日の放課後、麻里に向かって別れの言葉を言ったらしいな。だけど、俺と由紀には、それ言うのやめてくれ。『気持ちの整理がついたら、いつでも戻って来ていいよ』っていうのが、俺たちみんなの気持ちだ」

 彼は泣いていた。

「わかったよ、ありがとう。あと最後に……遅れた言い訳は『腹痛でトイレに行ってました』にしようね」

 私は笑うことしかできなかった。

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