第十一話
「……冴島君?」
名前を呼んだ声がかすれた。私が真っ先に向かったトイレ、その手前にある待機スペースの丸いソファに、彼は座っていた。
「俺、もう帰らなくちゃ」
乾いた声でそう言い、死んだ魚のような目で、こちらを振り向いた冴島君。かけるべき言葉はたくさんあるはずなのに、喉が潰れてしまったみたいで、上手く声を出せなかった。その時の冴島君の姿はあまりにも衝撃的で、私は今まで、人のこんな姿を見たことがなかったから。
「そうだね、帰ろう。みんな待ってるよ」
あの時のことを思い出す度に、私は立ち上がって、過去の自分に「バカ野郎!」と言ってやりたくなる。だって、あの時の私はちゃんと、わかっていたはずなんだ。冴島君のあのセリフが、そっちの意味じゃないことくらい。それどころか、冴島君がこんな姿になってしまった原因も、ある程度は。
「そういうことじゃないんだよ……」
両手で顔を覆って、冴島君は泣き出してしまった。
「えっ、ど、どうしたの?」
声を掛けたが聞こえていない様子で、その泣き声は止まるところを知らずに段々と大きくなっていく。そして最終的には、えづくような激しい嗚咽になり、前を通りかかった小さい男の子は、大切そうにペロペロ舐めていたソフトクリームを、ビックリして落としてしまった。
私もまた困惑して、頭が真っ白になったけど、彼が過呼吸寸前になっていることに気づき、とりあえず背中をさすった。それくらいのことしか、私にはできなかった。
「……じ、じいちゃ、じいちゃんが」
冴島君が真っ赤になった顔を上げ、言葉を口から吹き零れさせたのは、突然のことだった。
「……しっ、死ぬんだ」
その声は、沸騰するお湯のように不安定で、確信を持てないまま言っているようにも、覆らない事実に絶望しているようにも聞こえた。怖いくらいに鮮やかな血色と、噴き出している涙と鼻水とで、グチャグチャになった彼の顔を直視することができず、思わず目を閉じたら、少しの間、時が止まった気がした。脳裏のスクリーンに映っていたのは、あの日教会で見た、冴島君と彼のおじいさんが言い争っている光景だった。
本音を言ってしまえば、ずっと楽しみにしていた今日という日に、こんな深刻な話には関わりたくない。だけど、一度首を突っ込んだのに途中で引き返すのは、茜と出会う以前に、私に声を掛けてきたあの偽善者たちと同じだ。
しばらく黙り込んだ後、私は覚悟を決めて再び顔を上げた。
「死んだじゃなくて、死ぬなの?」
冷静にそう訊くと、冴島君はすぐには答えず、鼻の下の辺りを左手で覆い隠しながら、「ごめんチリ紙」と言って私に向かい右手を仰向けた。「良かった。自分の姿を気にすることができるようになるまで、落ち着いたんだね」と、心の中で声を掛けながら、ポケットティッシュを取り出す。
袋の背面に聖護会の宣伝が入っていたのを引き抜いた、取り出す度に粉が舞うポケットティッシュを、乱雑に三枚ほど取り出して鼻をかむと、冴島君は一度深呼吸をして、ゆっくりと話し始めた。
「……自殺が失敗して、意識不明なんだ」
一分の隙間もなく、固く握りしめられた彼の両手は、リングケースの中の指輪みたいに、グリーンピース色のソファに深く埋まっている。痙攣しているかのようにピクピクと震えるそれを見つめていると、心の奥から何か熱いものが込み上げて来て、私は少し迷った後、それら二つの握りこぶしを手に取った。
「自殺? どうして?」
イメージと現実は案外異なっているもので、私の小さな手の上に載った冴島君の手は、サイズこそ大きいが、思っていたよりも白くしなやかだった。「震えていることを女子に知られるなんて」という意地のせいか、それとも単に安心してくれているのか、私が掴んだ瞬間に、冴島君の手は震えるのをやめ、簡単にほぐれてパーになった。
いざ手を取ったはいいものも、由紀ちゃんの顔が脳裏にちらつき、握ることまではできなかった私は、重なった冴島君の手を、自分の手でハンバーガーのように挟んだ。
「……それはわからない」
すっかり大人しくなっていた冴島君の手は、彼がそう言った瞬間、電気ショックを受けたみたいにピクッと震えた。
「うっ……」
嘘でしょ? そう言おうとした。だけど、みんなに家庭の事情を秘密にしている私が、そんなこと言えるわけがなかった……と説明するのは、少しカマトトぶってるか。確かにそれもあるけど、一番の理由は全く別のことだ。
「じゃあ、俺は一度みんなと合流して、事情を伝えてから帰るよ」
彼の両手がバンズの間をすり抜けるのを、私はいくらでも止めることができた。だけど、やっぱりしなかった。明らかに何かを隠しているとわかる早口でそう言うと、冴島君はすぐに立ち上がった。
「わかった。でも、その前にトイレに行ってくるね」
彼に背を向け、私は早足でトイレの個室に入って行った。冴島君も何とか立ち直った様子だし、懸念していたような大事は回避できた。なのに私は、立ち上がる気力が中々起きず、用を足してからもしばらくの間、便座に跨っていた。
(教会で冴島君とおじいさんとの口論を目にした時に感じた、あの形容し難い心惹かれる感覚の正体は、これだったのか)
そう、そもそもその時の私には、「冴島君の秘密を知りたい」という気持ちがほとんどなかったんだ。それよりもずっと大きく、心の大部分占めていたのは……彼に秘密を抱えたままでいてほしい、私と同じ苦しみを味わっていてほしい、という思いだった。
「それにしても、今日はせっかくの楽しい日なのに、徒花には迷惑をかけちゃったな」
「気にしてないよ」
「だけど、何か恩返しがしたい」
「そこまで言ってくれるなら、そうだな……じゃあ、冴島君の家でゲームをしたい」
「わかった。いつでも大歓迎だよ」
冴島君は笑顔でそう言ってくれたけど、あの約束が果たされることになったのは、結局その翌週の月曜日のことだった。残念ながら、あの日の夜に冴島君のおじいさんは亡くなってしまい、彼はまるまる一週間、学校を休んだから。
*
「――それで、彼のことを好きになったんだ。由紀って子もいるのに、略奪愛だね」
あっ、これ夢だ。一瞬でわかったのに、なぜか起きられなかった。目の前のベンチに座っているのは、真珠色のモコモコしたジャンパーを着た茜。自分の足元に視線を落とすと、トゲトゲしたバラの茎が、ふくらはぎの辺りまで絡まっているのが目に入った。
「そんなんじゃないよ。私の歪んだ仲間意識と、由紀ちゃんの純粋な愛情を一緒にしちゃいけない」
なんとなく薄暗いな、と思って上を見ると、悪魔の目玉みたいな不穏な赤色のバラの花が、空をどこまでも覆っているのが見えた。そこから少し視線を落とし、水平方向をグルッと見渡すと、茜の座っているベンチの他には木も岩も建物もなく、ただ気が遠くなるような地平線が見える。
「へー、ちゃんとわかってるんだ。なのに、変える気は微塵もない、と」
気味が悪い、怖いくらいにリアルな夢だ。話している最中に、時折、前髪を手で梳く癖も再現しているなんて。
「……最低だね」
茜がそう呟いた瞬間、脚に絡まっているバラの茎が少しだけ伸びた。その時に私は、これから自分が辿り着くであろう結末を、なんとなく悟った。
「あのさ、サラちゃんにとって、冴島君は大切な人?」
「そうだね」
答える時、迷いのようなものは不思議と生じなかった。現実の私ではありえないくらい、あの夢の中の私は堂々としていたんだ。
「……ほら、やっぱり最低だ」
ため息をついた後、茜は再度そう言った。すると、バラの茎はまた少し伸び、太ももに届いて、そのトゲは遂にジーパンを貫通した。真っ赤な血がタラーッと流れて、ジーパンにシミを作った。幸い、恐怖や痛みは少しも感じなかった。
「自分に似た苦しみを抱えているところが好き。ならさ、冴島君が『それ』から解放されて幸せになったら、サラちゃんは彼のことどう思うの?」
心の核を素手で触られたような気分だった。これから夢の中の私が言うであろう答えを聞きたくなくて、耳を塞ごうとしたが、あいにくここでの私には実体がない。
「心の底から嫉妬するよ」
私は結局、夢の中の私が澄んだ声でそう言ったのを、咥える指もなく聞いた。これまで一度も考えたことがなかった問いに対する答えだけど、口に出してみると、「確かに本当だ」という実感が湧いた。
「……そっか」
そう呟いて不意に立ち上がった茜は、ゴミを見るような目で私を見下した。
「幸せを願えないような相手を、よく『大切な人だ』なんて呼べるよね。本当に、本当に本当に本当に」
そして、茜は私に背を向けた。冷たい怒りに満ちた声だった。
時の流れをせき止めるダムが決壊してしまったように、足元のバラが急速に成長していく。太ももから腰へ、腰から胸へ、胸から顔へ。それは止まるところを知らない。あまりにも濃いバラの臭いに、吐きそうになった。
「……最低」
私の方を振り向き、最後に吐き捨てるように言った茜。どことなく涙声に聞こえたが、その時の茜が実際にどんな顔をしていたかは、バラに視線を遮られてわからなかった。
「あっ、はっ、は、ふー……やっと起きられた」
背中が寝汗でビチョビチョになっていて、気持ち悪かった。夜中に起きていたら最悪だったけど、幸いカーテンからは光が差し込んでいる。枕元のデジタル時計を見ると、アラームをかけた時間の十分前だった。
「時間はちょうどいいんだけどさ……」
ぼやきながら立ち上がり、葉っぱ柄の安物カーテンを開ける。目に入るものは相変わらず、電線に仲良く並んで止まるスズメと、シニアカーを運転するおばあさんと、庭いじりをするおじいさんとエトセトラ。眠気覚ましのはずが、かえって眠くなるような平和な光景だ。
「布団は……このままでいいや」
この家に入る時、誰もいないとわかっているのに「ただいま」と言っていたのと同じだ。「布団は毎日畳みましょう」なんていう教えは聖護会にないけど、あの女なら、全く関係ないことでもこじつけてきそうで怖かったから、今までは毎日必ず畳んでいた。だけど、嘘をつくことを受け入れてからは、わけもなく前より少し強気になって、週に一回くらいしか畳まなくなった。
同じ理由で、朝に顔を洗わなくなったし、あの女が帰って来るまでパジャマで過ごすようになった。こうして私は、自分が面倒くさがり屋だということを、最近になって初めて知った。
「八時発の便で、私は……」
起きてすぐトイレに行くのがルーティンなので、今日も例にならって便座の上、もうすぐ八時なので歌ってみた。休日にも早く起きるようになったのが、前よりも真面目になった唯一の点かもしれない。「小説を読む」という娯楽は、もう数え切れないほど読み返している植物図鑑を見て、ひたすら絵を描くことくらいしか暇潰しがなかった私の休日に、大きな革新をもたらした。
六時前には家を出るあの女が、食卓の上に用意した朝食はもう冷めている。ラップ越しに見える今日のメニューは、昨日の残りの肉じゃがと、これでもかと言うほど大量のモヤシが入った味噌汁と、ラップについた水滴から炊きたてだったことがわかる米だ。聖護会には「人の都合で生物を殖やすのは良くない」という教えがあるから、全体的に量は少ない。「私たちが食べる量を減らしたって、別に何も変わらないよ」といつも思うけど、口には出さない。三皿温めるとなると、レンジのサイズ的に二回に分けなきゃいけないから、温めるのは味噌汁と肉じゃがだけでいいかな。
レンジが鳴るのを待ちながら、バルコニーの物干し竿にかかっている洗濯物を眺める。その最中、私は無意識のうちに、季節外れなクリスマスカラーのパジャマに隠された全身の傷跡を、人差し指で優しく押していた。五年生の二学期からは、まだ一度もあの拷問に遭っていないが、やっぱりまだ痛む。
これさえなければ、「忙しくて子供には構えないけど、家事はしっかり行う母親」で済んだのに。……そう思ったところで、無駄だった。
「味、うっす」
いつの日か、総合の授業で太平洋戦争について習った時に、味付けまで当時と全く同じにした「すいとん」という料理を、食べさせられたことがある。その時みんなは、口を揃えて「味が薄い」と文句を言ったが、私だけは「いつも通りだな」と思っていた。それくらい、あの女の料理は味が薄い。
醤油さしを片手に朝食を終え、サッと歯磨きをすると、私は自室に戻って、敷きっぱなしの布団に寝転びながら、図書室で借りた小説を読み始めた。色々なジャンルに触れようと思い、いま読んでいるのは推理小説だ。難しい漢字がたくさん出てくるけど、ほとんどが聖護会の聖典にも登場する字なので、難なく読めた。
新しいことを知れるから、小説を読むのは楽しい。教えに反することをしている時に感じていた小さな躊躇も、今では完全に消え去った。嘘をつかずに生きていこうと意気込んでいた昔の私は、今ではセミの抜け殻みたいになって、どこかに転がっている。あの頃の私は、それが悪いことだとは毛頭思っていなかったんだ。
ゲームが面白過ぎたのと、冴島君の方から「明日もどう?」と声を掛けてくれたのとで、私は結局、月曜日から土曜日の今日まで六日間連続、冴島君の家に通い続けている。
そして、もちろん隠すつもりもないので、このことは由紀ちゃんも知っている。それどころか、初日の月曜日は初めて四人一緒で帰って、私は由紀ちゃんの目の前で、冴島君と二人で彼の家に入って行った。なんだか面倒なことになる気がしたけど、彼女はそんな私を見て、「恭平の家、広くていいよ。私も何回か泊まらせてもらった」と、どこか勝ち誇った顔で言ったから……それからは、もう爪の先ほども気にしていない。
由紀ちゃんはとても良い子だけど、冴島君に近づく女子全員をライバル視するのは、あまり褒められたことじゃない。だって、心配する必要なんて何もないだろう。二人きりで遊びに行ったこともあって、お泊りも何度かしたことがあって、極めつけには……。
〈あとさ由紀、今日の服、とっても似合ってるよ。ごめんな、恥ずかしくて今まで言えなかった〉
四人でショッピングセンターに行ったあの日、冴島君を見送った時に、こんな言葉をもらっているんだから。
〈私の歪んだ仲間意識と、由紀ちゃんの純粋な愛情を一緒にしちゃいけない〉
〈幸せを願えないような相手を、よく『大切な人だ』なんて呼べるよね〉
起きた瞬間にぼやけてくれる他の夢と違って、あの夢はやけに鮮明なまま、今も記憶に残っている。もう見慣れてしまった冴島君の家への道を淡々と歩きながら、私はその時、初めて自分という人間の汚さに向き合っていた。
そもそも、夢というものは、見ている本人の意識から創られるものだ。あの夢は、「茜の質問に制御の利かなくなった私が答える」という形式を取っていたが、実際はただの自問自答。あそこで語られたことは全て、私が心の奥深くに閉じ込めていた本当の気持ちなんだ。
「彼は大切な友達だ」と胸を張って言いたいのなら、罪悪感を感じずにこの生き方を続けたいのなら、私は変わらないといけない。彼の幸せを心から願えるように。だけど……一体、どうしたらいいんだ? 人の気持ちなんて、自分の意識で制御できるものではないのに。
「おっ、約束した時間通りだな。いらっしゃい」
出迎えてくれた冴島君の笑顔を見た瞬間、不意に気持ちが緩んだ私は、「考えてもどうせ結論は出ないのだから」と、思考を放棄してしまった。
「お邪魔しまーす」
あの頃のことを振り返る度に、私は「すごく窮屈な考え方をしていたな」としみじみ思う。「嘘をつく」という行為を自分の中で認めた後も、私は結局、「正しさ」というものに固執していたのだ。
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