第七話

 茜の性格は、昔の魅力が掻き消されるほどに、どんどん悪化していき、もはや暴君のようになった。私は最初、そんな彼女にただ辟易し、恐怖していたが、五年生に上がった頃には、もう諦めがついた。茜は変わってしまったんだ、と。

 かつて茜と一緒にいる時間は、手を取り合って踊る楽しいダンスタイムだったが、今は違う。手首を持ち手のように掴まれて、体をコマみたいに回されて、現在の私は、「リード」という名目で、茜に支配されているだけだ。心はもう完全に離れているけど、茜がこのダンスに飽きてくれるまで、私は離れられない。

 だけど……こんな日々のタイムリミットも、あと二か月で訪れる。短い冬休みが明け、今は一月の中旬。そう、茜の卒業だ。どうせまた一年経てば、再会することになるが、とりあえず一年は離れられる。


 別れに喜びを感じるような関係になるなんて、出会った時は思ってもいなかったのに……なんて考えると、悲しくなってくるから、過去は振り返らないでいよう。とにかく、あともう少しだ。あともう少しで、私は。


「サラちゃんはさ、私といて楽しい?」

 道端のポストの横に仲良く並んでいる、小さな雪だるまの三人家族を見ながら、茜が訊く。それは、茜が私の心をもてあそぶため、月に一度のペースで必ずしてくる質問だ。

「楽しくないと言ったら嘘になるけど、それ以上に怖い。だから、早く友達をやめたいよ」

 どうやって答えても、茜は私の気持ちなど汲み取ってくれないので、直球で答えることにしている。

「そっか……」

 一年でずいぶん女性らしくなった胸の前で、手袋に包まれた手をこすりながら、茜は思案している。どうせ今だって、「どうしたら私の敵意を削ぎ落せるか?」と考えているのだろう。この問いに私が否定的に答えると、茜は必ず、甘言を尽くして私の心をなびかせようとする。

「……じゃあ、本当に友達やめようか。どうせ中学校での最初の一年は、サラちゃんなしで過ごすことになるんだし、私にとっても新しい友達を作る良い機会だ」

「……えっ?」

 急展開に頭が真っ白になって、思わず訊き返した。

「やっぱり寂しい?」

 茜は平然とした様子で私を茶化した。だけど、「首を横に振る」という些細な動作すらできないくらい、心から喜んでいる私を見ると、俄かに機嫌を損ねた。

「……でも、そうやって喜んでいられるのも、今のうちだから。少ししたら、どうせ寂しくなって泣きついてくるよ」

 予想外の反応に、ただ単に後悔しているような口調なのに、なぜだろうか? 「あなたは私がいなきゃダメなのよ」というような、茜の不敵な自信を感じるのは。

 だけど、もうどうせ、後戻りはできないんだ。今は単純にこの状況を喜ぼう。そう思った私は、こちらを見つめる茜に、私は勝ち誇った笑みを返した。それが、この一年で一番素直に笑えた瞬間だった。

「私は本気で言ってるんだけどね。まあ、もういいや」

 かわいいと愛でていた罪なき雪だるまの家族を、蚊でも潰すかのように足で薙ぎ払うと、茜は背を向けて立ち去った。

「ああ、これで終わったんだ」

 彼女を見送った後、小声でそう呟いてみた。すると、一気に実感が湧いてきて、私は嬉しいを通り越してドッと疲れ、ベンチのある近くの公園まで、フラフラと歩いて行った。

「うわっ、痛っ」

 公園の名前が彫られた小さな石碑の横を通り、さて着いたと思った時、薄く積もった雪の下に潜んでいた氷に転ばされた。

「……あっ」

 右手を上げ、掴んだのに感触がなく、見上げた時にやっと気づいた。なんだか負けた気分だ。一瞬ではあったけど、こんなにも早く、茜の言っていた通りの気持ちになるなんて。

 再び転ばないように、細心の注意を払って立ち上がり、それからも神経を尖らせてベンチまで向かった。こうして小さな損失に気づくことは、これからも、きっとまだまだあるのだろう。

 だけど、どうってことないさ。だってこれからは、話を少し適当に聞いただけで怒ったり、人の悪口を人前で大声で言ったり、私が何をしていようがお構いなしで自分の都合を振りかざす、あの傍若無人な茜と、もう関わらなくていいのだから。


 茜の友達を無理やりやらされていた月日は、全く無意味なものだったわけじゃない。あの期間のお陰で、私が「友達」という存在に求めるハードルは、だいぶ下がった。私が惨めさを感じるような、自慢話をしてきてもいい。ただ安心して隣にいられる人だったら、それで。

 そんな風に思って、私は新しい友達を作る努力を始めた。近くの席の子に積極的に話しかける。私にもついて行ける話題で盛り上がっているグループを見つけたら、さりげなく会話に交ざる。日直の子が黒板を消し忘れていたら、代わりに消してあげる。当番の男子がサボっていて、給食準備が人手不足になっていたら、手伝ってあげる。会話もユーモアを織り交ぜて面白く、いつも笑顔で相槌を打って。

 そうやって、できることは全てして、私には確かに、「友達」と呼べる人が三人だけできた。


 約一か月半という短い期間で距離を縮め、私の心に触れる一歩手前まで近づくと、細長い尾だけを残して引き返し、見えなくなってしまった彗星。それが彼らだった。


「……でさ、コロサーガの第九話、観た?」

 街のスポーツクラブでサッカーをしている冴島さえじま君、図工でいつもクラスで一番のクオリティの作品を作る由紀ゆきちゃん、そして私たちが集まっているこのテーブルの主の麻里まりちゃん。あれからの昼休みを、私は主にこの三人と過ごしていた。

「観た観た! まさかナカジマ先輩が裏切り者だったとはね」

 麻里ちゃんが振った話題に、身を乗り出して反応する由紀ちゃん。この二人は、幼稚園に通っていた頃から仲良しだったらしく、外見は違うけど、好みなどは双子かと思うほど似ている。

「はっ、俺まだ観てないんだけど。ネタバレすんなよ」

 冴島君が、けっこう本気のトーンで言う。

「えー、好きだったら普通、リアタイで観るでしょ」

 すると、由紀ちゃんが口を尖らせて言い返した。相手が他の子だったら、きっと冷や汗をかいて謝っていたのだろうけど、冴島君には、こうしてぞんざいな態度を取る。彼は気づいていないけど、由紀ちゃんのこれは、俗に言う「照れ隠し」ってやつだ。麻里ちゃんの話によると、由紀ちゃんは、三年生の頃から冴島君のことが好きらしい。

「あれ深夜アニメだろ? 俺は、お前みたいに夜中まで起きてる不良じゃないんだよ」

 彼らと一緒にいると、私は時々、別世界に迷い込んでしまったような気持ちになる。話していることのほとんどが、私にはついて行けないアニメやアイドルの話題だということも、もちろんそうだけど、小学三年生で人を恋愛的に好きになるとか、正直、最初に聞いた時は信じられなかった。人という生き物は、結婚できる年齢になってから初めて、「恋愛的な好き」を抱くものだと思っていたから。

 二人はその後も、「だって木曜日はサッカーないでしょ」とか、「ピアノ教室あるのに起きてるお前の方がおかしい」とか、お互いを知っているからこそできる、他愛もない言い合いをしていた。私は、そんな様子を麻里ちゃんと眺めながら、「お似合いだねえ」と話し合っていた。

「……ほら、もういい加減ストップ。私も徒花ちゃんも暇だから」

 続くイチャイチャに、そろそろ胃もたれしてきた頃、麻里ちゃんが二人を止めた。

「えっ、あー、ごめん」

 我に返った由紀ちゃんは、バツが悪そうに頭をかいた。

「そ、そういえば、徒花ってアニメの話題になった時、急に食いつきが悪くなるよな」

 同じく顔を赤くした冴島君が、少し早口で話題を変えた。

「あー、それなんだけどね……」

 その話題になるなら、ずっとイチャイチャを眺めている方がマシだった。だけど、そんな思いは隠し、返答を考える。

「私自身は興味あるんだけどさ、親が厳しくて観せてくれないんだよね」

 そう答えると、三人は一斉にギョッとした。それに共鳴するように、私の胃はキリキリと痛み始めた。

「英才教育ってやつ?」

 その細い目を更に細めて、麻里ちゃんが訊く。

「それとは少し違うんだけど……」

 できるだけ嘘をつかないように生きる。その誓いを律儀に守って、私は曖昧に濁した。いま思えば、あの時に「うん」と答えていれば、話はこじれなかったかもしれない。

「じゃあ、どんな理由なんだ?」

 前のめりになって訊いた冴島君の真剣な眼差しに、私の腹痛は増大した。

「嫌だなあ、そんな真剣な顔しないでよ。アニメはみんなの話を聞いてるだけで楽しいし、私は特に気にしてないからさ」

 いつも以上に笑って気丈さをアピールしたが、逆効果だった。生まれて初めてプールに入ったあの日、「もう大丈夫です」と笑って答えたのに、浜田先生に逆に心配されて、「大人って面倒だ」と思ったことを不意に思い出した。

「そうは言っても、今の徒花、大丈夫じゃない顔をしてるぞ」

 向かい合っている冴島君はもちろん、少し視線を逸らし、右を向いた先の麻里ちゃんも、左を向いた先の由紀ちゃんも、みな一様に真剣で頼もしい顔をしている。

 昔の私は、「みんななんて所詮、温室育ちの幼稚な子供だ」と、心のどこかでクラスメイトを下に見ていた。だけど、そんな考えは全くの間違いだったらしい。どんな環境で育ったかなんて、大して関係ない。みんなはもう、こんな顔ができるほどに、立派な大人なんだ。

「……みんな、私のために真剣になってくれて、ありがとうね。だけど、この家庭の事情は、言っちゃダメなことになってるんだ。だから、これ以上は踏み込まないでほしい」

 友達作りを始める前から、私の家庭の事情については、絶対に触れられるだろうと予想できていた。そして今日、どう対処するべきか思いつかないまま、その時を迎えてしまって、とても焦っていたのだけど、もう安心だ。本人のお願いなんだ、ここまで大人になったみんななら、ちゃんと聞き分けて引き下がってくれる。

「……わかった。じゃあ、徒花の好きな花の話でもするか。順番に知っている花の名前を言って、思いつかなくなったら負けな。まず、パンジー」

 冴島君の優しさに、胸がじんわりと温かくなった。こんなゲームをしたって面白くないのだろうけど、みんなは冴島君の提案に従って、次々と自分の知っている花の名前を言っていく。何周もしていく中で、ガザニア、ヒマワリ、ホウセンカと好きな花の名前を答えながら、私は顔の筋肉が緩むのを止められず、ずっとニヤニヤしていた。

 最初は、彼らに抱く友情よりも、茜の隣以外で幸せになっている私を、茜に見せつけてやりたい気持ちの方が大きかった。だけど今は、そんな雑念なんて消えている。この人たちと、ずっと友達でいられますように。ただひたすらに、そう願っていた。


 お姉さんが花屋に勤めているらしい麻里ちゃんとの一騎打ちに、もう少しで勝てそうだったけど、あいにく時間が来てしまった。授業はあと少しで始まるけど、由紀ちゃんは私の前の席なので、まだ一緒に話していた。

「あっ、そういえばさ、有名な花なのに、みんな『バラ』って言ってなかったね」

 別に悪いことをしたわけではないけど、少しギクッとした。その「バラ」という二文字は、あのゲームをスタートした時、私の頭に真っ先に浮かんだ名前の一つだったから。

「けっこう好きな花なのにな、なんか悔しい。ところでさ、徒花ちゃんは知ってる? バラには人工的に創られた青色のものがあって、その花言葉は『奇跡』なんだよ。素敵じゃない?」

 少しうっとりした声で言うものだから、強張っていた私の表情も少し綻んだ。そういえば由紀ちゃんは、星座とか占いとか、そういうロマンチックなものが大好きだもんな。

「そうなんだ、知らなかった。素敵だね」

「あとさ、ノーマルな赤いバラも、花言葉が素敵なの。徒花ちゃん、なんだか知ってる?」

「うん。本数や色の濃淡で違いがあるらしいけど、基本的には『情熱』とか『あなたを愛します』だよ」

 言っているうちに口の中が苦くなっていき、せっかく綻んだ表情がまた強張った。バラについてニコニコして語る由紀ちゃんを見ていると、少しずつ心の中で大きくなっていく「それ」に、私は最初、気づかないふりをしていたが、もう限界が来たようだ。

「その通り、流石だね。徒花ちゃんは……」

 由紀ちゃんの言葉を遮るようにチャイムが鳴り、安心した。チャイムの鳴るタイミングが遅ければ、由紀ちゃんはきっと、あの後に続く言葉を、「徒花ちゃんは、バラって好き?」という質問を言い切っていた。

「起立! よろしくお願いします!」

 今日の日直、真壁まかべ君の凛々しい声が教室中に響き渡る。四年生の頃の担任だったドングリ先生との対比が、もはや美しいほど背が高い、杉村すぎむら先生もとい「屋久杉先生」に浅く頭を下げる。

(好きなわけないじゃないか)

 手入れがよく行き届いたロングヘアを、気だるげにいじっている由紀ちゃんの背中を、じっと見つめながら、心の中で吐き捨てる。そもそも私は、さっきのゲームでも名前を挙げなかったように、あれを「花」だと認識していなかった。

 子供にとっての鬼やオバケと同じ。私にとって、聖護会の象徴であるバラは、ただの恐怖の対象なんだ。

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