第八話
みんなの家は反対方向にあるので、寂しいけれど私は、今日も一人で帰らないといけない。昔みたいに居残るという選択肢もあるけど、あいにく麻里ちゃんたちには、それぞれの習い事や塾があり、家でしたいことがある。独りで居残るというのも、また虚しいものだから。
少し離れているけど教室は同じ階にあるし、家の方向も下校時刻も変わっていないのだから、たまたま鉢合わせてもおかしくないが、あれから茜と会ったことは一度もない。「わざと避けている」にしても、少し完璧すぎるなと思う。私が目にした瞬間、透明になっているみたいだ。
踏むのにも少し罪悪感があった真っ白い道は、雪の降らない日が続いたから、もう見る影もなく、残したかき氷を零したみたいになっている。いつの日か茜と口論したお寺の前を通り過ぎ、茜と決別したあの日に立ち寄った公園の前を通り過ぎ、茜と「落ち葉合戦」をした公園の前を通り過ぎ、少しの寂しさも感じなくなった交差点を通り過ぎて、私はやっと、自由になった。
物置のような犬小屋の中で、健気に番犬をしている濁ったクリーム色の大型犬が、私に向かっていつものように吠える。その声を聞いて私は、目覚まし時計に叩き起こされた朝のように、「もう家に着くんだな」と思った。定年を迎えて、第二の人生を送っている老夫婦たちが集う、この閑静な住宅街の一角。周囲の景色によく馴染む、「やっつけで造りました」という雑なデザインのアパートが、私の家だ。
「ただいまー」
いないことはわかっているけど、万が一の時のため、一応言うことにしている。「ただいまを言い忘れてはいけない」なんていう教えは聖護会にないけど、あの女ならどんなに関係のないことでも、無理やりこじつけてきそうだ。
「おかえりなさい」
そして今日は、そんな予防線が初めて役立った日となった。
あまりにも久しぶりだったので、私はオバケの声でも聞いたかのようにビクッとした。あの女に最後に出迎えられたのは、確か四年生の初め、もう二年前のことだ。
「お仕事、早く終わったの?」
手袋をジャンパーのポケットにしまったり、靴を脱いだりしている間も、こちらを見つめる視線が、ずっと離れなかったので、いたたまれなくなって話しかけた。
「そうね」
着古した白いセーターに、出涸らしの茶葉みたいな色のカーディガンを羽織ったあの女は、無表情のまま即答する。
「そっか」
自分から仕事の話を振ったくせに、「お疲れ様」と労う気にもなれなかった。あの女の仕事は、聖護会の勧誘員。スズメの涙ほどの給料と引き換えに、色々な家庭に勧誘に行き、せっせこと負の連鎖を作る仕事だから。
「着替えたら、教会にお祈りに行くわよ」
「ああ、うん」
反射的に溜息をつきたくなったが、いつものように夕食と尋問を終えた夜に行く方が、寒くて辛いなと思い直した。
自家用車はあるけど、「忠誠心を示すため」ということで、今日も私は、家から教会まで約三キロの道のりをこうして歩かされる。「健康のため」と自分に言い聞かせているけど、面白くもないし自分のためにもならないことに、体力と時間を浪費するのは、正直言って苦痛だ。
楽しそうに談笑している小学生たちが、俯いて淡々と歩いている私の横を通り過ぎる。彼らの零す笑い声の一つ一つは、普段よりも繊細になっている私の心を、容赦なく突き刺していく。彼らは私の事情なんて知らないと、ちゃんとわかっているはずなのに、「バカなやつだ」と自分が笑われているみたいで。
できる限り速く歩いて教会に着いても、また苦痛な時間が待っているだけ。毎日のこの時間、私は決まって、重い十字架を背負わされ、茨の冠を被らされて処刑地まで歩かされたキリストと同じ気分になる。
単調な住宅街の風景に嫌気が差してきた頃、何を思ったのか私は、隣を歩くあの女の横顔を観察してみた。目が切れ長の二重なのも、髪がサラサラしたロングヘアなのも、概ね茜が評価した私の容姿と同じ。些細な違いはもちろんあるけど、大きな違いと言えば一つだけ、身長だ。私が背の順で前から二番目くらいなのに対し、あの女は百七十センチ近くあるのではないだろうか。
(お父さん、背が低い人だったのかな)
頭の中にポッと上がった火が、燃え広がって他に何も考えられなくなる前に、頭を何度も振って消した。このことについては、もう考えない。私はもう、心に決めているんだ。
テレビや小説は禁じられているが、私はマトモな家庭に生まれた人たちと、小学校という狭いコミュニティの中で生きている。だから、こちらが望んでいなくても、「普通の家庭」というものについての情報は、どんどん耳に入ってくる。
日々を重ねて知識を重ねて、「普通の家庭」というものの詳細なイメージを構築した私は、今ではもう、みんなの話を聞いても驚くことはない。が、保育園にも幼稚園にも通ったことがなく、こういうコミュニティに初めて加わった小一の頃は、毎日が驚きの連続だった。
あれは確か、入学してから一週間も経っていない頃の話だったな。私の隣の席になった女の子は、とてもお喋りな子で、大好きな家族の話をよく私にしてきた。そして私は、その中に出てきた知らない単語、「お父さん」の意味を、彼女に訊いたんだ。
「……アハハ、私それ知ってる。ボケってやつでしょ? なんでやねーん!」
ケラケラと笑いながら、私を軽く叩くという彼女の奇行に、私はただただ混乱していた。
「ボケってなに?」
「あー、さてはボケボケ作戦をする気だな。ならこっちは、なんでやねん作戦だー!」
そう言って、彼女はまた、ペチペチと私を叩いてきた。「やめて」と言っても、ふざけてやめる気配がないので、いよいよ腹が立った。仕方がないことだ。あの時の私は、ボケという概念もツッコミという概念も、どちらも知らなかったのだから。
「とにかく早く教えて。お父さんって、なんなの?」
その時、彼女はやっと、私が本気で訊いていることに気づいたらしい。パッと顔から笑みが消えたのと同時に、「家族だよ」という短い答えが、彼女の口から零れた。
「へー、そうなんだ。今まで私、お母さんと私の二人組の名前が、『家族』なんだと思って……」
幼く純粋なだけに、子供は残酷だ。あの時の彼女のモンスターを見るような目を、私は今でも忘れられないでいる。
「ねえお母さん、私のお父さんって、どこにいるの?」
彼女のあの異様な反応にただならぬ何かを感じた私は、胸のざわめきを打ち消すように、家に帰ると早速、あの女にそう訊いた。
「うーん……そうね……」
穏やかな口調で言いながら、表情だけが急速に変わっていった。絵の具を垂らされた水のように、みるみる動揺の色に染まっていくあの女の顔を見ていると、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
「……徒花はね、私が神様にお願いして、特別に創ってもらった子なの。だから、お父さんなんて、いないのよ」
あのセリフも、いま思えば、あの女の口から出た言葉じゃないみたいだな。だって、あまりにも聖護会の教えに反している。「守ってください」とお願いするならまだしも、一個人が直接、「○○してください」なんていうお願いを、神にするなんて。不敬にも程があるのに……あの時のあの女は、そんな当たり前のことすら、わからなくなるほど動揺していたんだ。
「だから……」
立ち眩みで立っていられなくなったように、あの女はこちらに前のめりになって、私の小さな肩を強く掴んだ。
「この話は、二度としないで」
ああ、これはきっと、触れてはいけない謎なんだな。子供ながらに、そう思った。あれ以来、「お父さん」という存在については、何も考えないようにしている。
過去の回想に浸りながら、ひたすら歩き続けていると、いつの間にか着いていた。貨物列車が頻繁に行き来する線路に沿った、ひと気のない通り。傍から見ると、何の変哲もない公民館のように見えるこの建物が、聖護会の教会だ。「仏教のお寺や、キリスト教の教会のように、建物にもう少し雰囲気があれば、こっちも祈る気になるのに」と、いつも思う。
「更科さん、こんにちは。相変わらず熱心で素晴らしいですね」
タイミングを見計らって、あの女と同時に最敬礼をする。こうしてずっと立ったまま、訪れた信者を出迎えているこの男の人は、この教会の教会長だ。これ以上見開いたら、目尻と目頭が切れてしまいそうな、物凄い目力をしているので、昔は少し怖かったけど、今では逆に少し笑いそうになる。
「教会長」と「副教会長」という仕事には基本的に休みがなく、教会に住み込みで働く。眠る時間は、教会の閉まる時間と開く時間に合わせ、夜の十時から朝の五時までの七時間と決まっていて、訪れた信者に向けた聖典の朗読と、受付とを一時間おきに交代して行う。そんな彼らの話を、あの女から初めて聞いた時、私は「立派な人たちなんだね」と言いながら、内心では唖然とした。
「座ってはいけない」という不文律のせいで、整然と並んだまま退屈そうにしている、床と一体化した背もたれの低い長椅子たち。正面の壁にでかでかと飾られた、バラをモチーフにした教会のエンブレム、その前のステージ。
「神は悪魔に向かい、こうお答えになった……」
副教会長の小太りのおばさんは、ステージに立って、アナウンサーのような良い活舌で、延々と聖典を朗読し続けている。信者たちはみな、手元の聖典を見つめながら、とても真剣な顔でおばさんの言葉を復唱する。声の大きさや速さは、こちらの方がずっと揃っているけど、まるで外国語の授業を受けているみたいだった。「リピートアフターミー」の後に、先生の言った英語を復唱するやつ。
「ならば私は、お前たちと決別する……」
本当は二人分あれば良いのだが、カルト宗教の聖典ということで値段がバカ高く、うちには聖典が一冊しかない。こうして礼拝は熱心にするけど、聖護会にお金を貢ぐような真似をしないのは、あの女の唯一の美点だと思う。
いつものように人がいない最前列のド真ん中に立ち、忘れた教科書を見せてもらっているかのように、聖典を二人で持って、朗読を始める。いつも通りなら、休憩を全くせずに一時間くらいは、こうして朗読を続けるはずだ。本当に、頭がおかしくなりそう。まあ、まだ喉も弱く、あの女の暴力が怖くて上手く声の加減もできなかった昔は、今よりもっと苦しかったのだけど。
(ここにいる人って、幸せなのかな?)
心を無にして朗読をしている時、唐突だけどそう思った。それは定期的に湧いてくる疑問で、今までなら、そもそも疑問に思ったことすらバカらしく思えてくるくらい、すぐに答えが出た。「何かに縋りついて、自分から不自由になる人生なんて、幸せなわけがないだろう」という答えが。だけど、今回は……。
(まあ、これはこれで、幸せなのかもしれないな)
そう思った自分自身にハッとして、声が一瞬だけ止まった。脳裏にちらついていたのは、「茜と一緒にいた頃、私は今よりもネガティブなことを考えていなかった」という事実だった。
認めるのが悔しいけど、あの頃の私は、多かれ少なかれ確実に、茜に依存していたのだと思う。手持ち無沙汰になった時、ふと考えるのは全て茜のことで、苦しい時も「明日も茜と遊ぶための試練なんだ」と思えば、耐えることができたから。
「茜の友達をやめたい」と、思い始めてからの期間だってそうだ。面と向かって彼女に、「もう絶対に嫌だから、友達をやめる」と宣言すれば、それで解決したことじゃないか。茜は、なんだかんだ言って賢いから、「逆上する」なんていうバカな真似はしないだろうし。
私の生きる目的は、あの落ち葉合戦の日に、なくなったわけじゃない。「茜と遊ぶため」から、「茜との関係を清算するため」に変わっただけだ。彼女に対し何度も思った「嫌い」は確かに嘘じゃないけど、私は結局、日々の苦痛に耐える目的を、失いたくなかっただけなのかもしれない。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
「うん」
予想通りの約一時間の朗読を終え、「やっと終わった」と心の中でガッツポーズをしながら、後ろを振り向いた時。私は、ある人の姿を目撃してしまった。
「クソジジイ! ここには来るなって言ってるだろ!」
私たちの四列後ろで朗読をしていた白髪頭のおじいさんの腕を、強引に引っ張っている男の子。声変わり前なのに低い声、マッキーで描いたみたいな濃い眉――冴島君だった。
「お母さん、早く帰ろう」
このクソ女のことだ。このまま冴島君に見つかり、仕方がなく聖護会の信者であることがバレたとしても、絶対に何か暴力を振るってくる。
「そうね」
動揺が顔に出ていないかヒヤヒヤしながら、早歩きで去って行く。振り返ることは絶対にしないが、聞き耳は立てて冴島君たちの会話を盗み聞く。
「うるさいぞ
「その勝手で、ばあちゃんをどれだけ泣かせてるか、わかってんのかクソ野郎! お前が家族の金を勝手に使うせいで、俺だって小遣いが足りなくて困ってるし。一体、この頭のおかしいカルト宗教に、どれだけ貢げば気が済むんだ!」
「ふざけるな、何がカルト宗教だ! お前たちみたいな悪魔の手下がな、最終戦争で業火に焼かれて……うん? おい、恭平、どうしたんだ?」
「いやいや、なんか悲しくなってきてさ。なあ、じいちゃん。父さんも母さんも仕事でいなくて、家に帰ったら、ばあちゃんが家の前で体育座りして泣いてて、『あの人、また教会に行ったみたいなの。恭平、連れ戻してくれないかい?』って……あんたに、俺の気持ちがわかるのか?」
早歩きしていたつもりが、途中から、ゆっくりとした歩みになっていた。おじいさんの悪態をつく声と、冴島君の怒声と、止めにかかる周囲の信者たちの声が、グチャグチャに混ざり合って、そこからはもう何も聞こえなかった。
自分でも最低だと思う。私はその時、茜と一緒にいる時にも経験したことがないくらい、強く強く冴島君に惹かれていた。
逆巻く。崩れ落ちて、ほぐれる てゆ @teyu1234
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