第九話

 あの日の翌日の昼休みも、私たちは普段のように、麻里ちゃんの机に集まってお喋りをしていた。やはり冴島君は、あの場に私がいたことに気づいていなかったようで、私はホッと胸を撫で下ろした。


「六年生になったらクラス替えがあるから、このメンバーで一緒にいられるとは限らないでしょ? だからさ、『最後の思い出に』ってことで、今度の日曜日、みんなで遊びに行かない?」

 そんな由紀ちゃんの提案は、突然だった。

「えっ、別のクラスになっても、昼休みは普通に会え……」

 冷静に意見を述べる麻里ちゃんに、由紀ちゃんは、下手過ぎて辛そうに見えるウインクをした。すると麻里ちゃんは、私には読み取れなかった意図を、長年の友情の力で即座に読み取って、「まあ、いいか。行こう」と答えた。

「恭平は……どう?」

「ああ、うん。行くよ」

「ほんと? やった!」

 あまりにもウブな由紀ちゃんの姿を見て、私はさっきの彼女の意図を遅れて悟った。

「徒花ちゃんは、どう?」

「うーん……どこに行くかによるかな」

 私の答えを聞くと、由紀ちゃんは表情をサッと曇らせた。「私には家庭の事情がある」ということを伝えた日から、みんなは私を、ガラス細工みたく扱うようになった。

「ええと、ショッピングモールに行こうと思ってるんだけど……」

 私の顔色を探るように訊く由紀ちゃん。申し訳ないのは山々だけど、嘘をつくわけにもいかないので、私は正直に答えた。

「ごめん。実は私、自分で自由に使えるお金を、一円も持ってないんだ」

「とてつもなく無駄遣いをした……とかじゃなく?」

「うん。自分の意思でお金を使ったことすら、人生で一度もない」

 由紀ちゃんは愕然としながら、「そっかー、やっぱり徒花ちゃんのパパママ、えげつないねー」と、似合わない軽薄な口調で濁した。

「……いいや、別に一文無しでもいいよ」

 諦めはとうについていて、後はどんな言葉で気まずい空気を払うか、考えていた時。冴島君は、不意にそんなことを言った。

「小遣いなら余ってるから、俺が徒花の代わりに払う。まさか、ブランド品を買いまくろうとしているわけじゃないだろ?」

 冗談交じりに言って、明るい笑みを浮かべてみせた冴島君。「お小遣いが足りなくて困っている」という昨日の彼の言葉が、脳内で再生される。この年で「恋心」というものを抱き、冴島君を好きでいる由紀ちゃん。今までは全く理解できなかったその心理を、私は今この瞬間、やっと理解した。

「じゃ、じゃあ、私もお金出すよ!」

 「私の恭平を取るな」と言わんばかりの勢いで、そう言った由紀ちゃん。

「まあ、徒花には勉強を教えてもらってるからな、私も払うよ」

 案外照れ屋な麻里ちゃんも、少し目線を逸らしながら、そう言ってくれた。物わかりが悪過ぎて、正直教えるのが辛いくらいだったけど、その言葉で、十分すぎるくらい報われた気がした。

「……みんな、ありがとう」

 笑って感謝するつもりだったけど、耐え切れず泣いてしまった。ティッシュで目頭を押さえて止めようとしても、「涙を止めて心配させたくないと思える相手がいる」という事実が嬉しくて、余計に涙が出てくる。由紀ちゃんと麻里ちゃんは、そんな私の頭を優しく撫でながら、日曜日の計画についての話し合いを始めた。

「私、雑貨屋さん行きたいな」

「あとは、ゲームセンターもマストだよね」

「おっ、ゲーセンいいな。この前みたいに、格ゲーでバトルしようぜ」

 ショッピングセンターという名前なのだから、みんなも買い物ばかりするつもりなんだと思っていたけど、案外そんなことなさそうで安心した。だけど同時に、私の胸の中には、一つの懸念が浮かび上がっていた。

(ゲームセンターで遊ぶのって、教えに反するよな)


 ウキウキして話し合っている三人の姿を、しげしげと見つめた。そもそもゲームセンターで遊ぶこと以外にも、ショッピングセンターという「悪魔の手下による文化」が集まっている場所に、私が足を踏み入れること自体、あの女は許さないだろう。

 そういえば、私はまだ、「行く」という結論をハッキリと出していない。引き返すなら今だ。この誘いを断らず、みんなと一緒にショッピングセンターに行って、そのことをあの女に隠せば、私は、自らが目指している人間像、「正しい道を行く正直者」から大きく逸れてしまう。

 どうするべきか。結論を早く出そうと焦ったら、一向に勢いを緩めなかった涙も、面白いくらいピタッと止まった。

〈キーンコーンカーンコーン〉

 スピーカーの質の違いなのか、かつて図書室で聞いていたそれよりも、ずっとシャープな響きになっている予鈴に、タイムアップを知らされる。ここまで来てしまったら、流石にもう「やっぱり行かない」と言うのは無理だ。


 茜の「自分の欲求を満たすためだけに生きる」という生き方に、密かに影響を受けていたこと。

 「些細な嘘をつくだけで掴める幸せを、正直な答えで逃すなんてバカバカしい」と、気づいてしまったこと。

 「友達であるみんなから大切に思われている」という事実が、「理想像である『正しい道を行く正直者』を目指して生きている」という事実に代わり、自己肯定感の源になってくれたこと。

 そういった様々な要因が重なって、あの時の私は、それまで何の疑いもなく追い求めていた「正しさ」に、あまり執着しなくなっていた。が、かと言って、まだ完璧に踏ん切りがついたわけでもなく、今日の五・六時間目の内容は結局、全く頭に入っていない。

 噛んでも噛んでも噛み切れない肉の繊維みたいな躊躇に、首を絞められている。あとはただ、これを断ち切ってくれる何かに出会うだけなんだ。


 結局、校舎を出てからも、私の心にはモヤモヤが渦巻いていた。五時間目の半ばから降り出して、みんなの視線と集中力を奪った雪は、徐々に勢いを増し、今に至る。向かい風が吹いているせいで、容赦なく顔に飛んでくる雪に、イライラしながら歩いた。

「ラー、ラララー」

 黙っていると、また自問自答のループに陥りそうなので、今日の給食の時間に流れた歌を、適当に口ずさんでいた。テンポが速すぎて、歌詞は全く聞き取れなかったから、全てラララで。そうして、かつて小さな雪だるまの家族が住んでいた、静かな通りのポストの前、一か月前の因縁の場所に着いた時の話。

「……歌、上手なんだね」

 唐突に話しかけられ、思わず「うわっ!」という大声が出た。けっこう大きな声で歌っていたから、余計に恥ずかしい。「急に出てくるなよ」と相手に腹を立て、冷静さを失っていた私は、その声の主が誰か、実際に見るまで気づかなかったんだ。

「元気だった? 一か月ぶりだね」

 振り返るために捻った首が、そのまま動かなくなった。


「……どうして?」

 爆発した驚きを密かに処理した後、私は感情の中立を保って、静かな声でそう訊いた。すると彼女は、とぐろを巻くヘビのように厳重に巻かれた、温かそうなチェック柄のマフラーを、手でギュッと引っ張って下げ、こう答えた。

「サラちゃんが寂しい思いをしていないか、心配になったの」

 どこか出会った日のことが思い出される、自然体の笑顔だった。それを目にした私は、一見、可愛らしいだけに見えた「顔を隠しているマフラーを下げる」という行為の意味を、不本意だが悟ってしまった。

「要らない、一人で帰って」

 別に期待なんてしてなかったさ。ただ、「可能性が消えないうちに冷たくするのも、なんか違うな」と思っただけ。さて、これでやっと、このクソ野郎に一泡吹かせられるぞ。……そうやって心の中で呟いて、「これで良かったんだ」と思い込もうとした。

「えー、せっかくだから、少しお喋りしようよ」

 そう言って私の腕を引っ張る茜の手を、思い切り振り払う。

「だから、しつこいって! 残念だけど私には、あんたよりもずっと優しい友達がもう三人もいて、毎日楽しくやってるの。『あなたには私がいないとダメだ』なんて思って、私を見くびらないで!」

 ついに我慢の限界がやって来た。長年掃除していなかったエアコンのように、不健全に汚れた心が、一気に浄化されたような気がした。いま思えば、こうして茜に対し怒りを爆発させたのは、これが初めてだ。

 彼女は私の腕から手を放し、一歩下がってハッとした顔でこちらを見つめている。私は、彼女のそんな姿をたった数秒見ただけで、これまでの因縁にケリをつけられた気になって、早々に背を向けた。

「……かわいい。反抗期かな?」

 突然、後ろから勢いよく抱きつかれた時、とっさに「刺されたか?」と思って息を呑んだ。流石にそんなことはなかったけど、残念ながら彼女は、少し強く当たれば去ってくれるような、甘い人間ではないのだ。

「もう一回、言うね。私は、サラちゃんとお喋りしたいの」

 さっきまでの威勢はどこへやら、私の怒りは一瞬で恐怖に塗り潰された。耳元でそう囁かれた時なんてもう、あまりの恐怖に叫び出したくなったくらいだ。異常なほど心臓の鼓動が速くなって、厚いジャンパーを着ているのに、胸でなく背中で接しているのに、彼女に伝わってしまいそうなくらいだった。

 私を後ろから抱きしめた茜はまず、わざわざ手袋を脱いだ素手で、「いい子いい子」と言わんばかりに私の頭頂部を撫でた。しばらくすると、今度は後頭部。その次に肩。そして……ついには、頸動脈がうるさく脈打っている喉へと、「それ」を這わせた。

 まるで私の反応を楽しむかのように、私の頸動脈を優しくなぞる茜。完全に手玉に取られている。抵抗しようと思っても、体が動かないのだから、もうどうしようもない。

「……酷いこと言ってごめん。じゃ、じゃあ、茜の言う通りお喋りしようか」

 固く結んだ唇を開いて、強張った作り笑いを浮かべて、そう言った。惨めでたまらなくなって唇を噛んだら、冬場で乾燥しているせいか、深く切れてしまい血が出た。

「やった! じゃあ、あの公園に寄ろうか」

 心の底から嬉しそうに言うと、茜は私から離れ、一足先に公園へと向かった。私は、そんな彼女の背中をしげしげと見つめ、点滅している青信号に溜め息を漏らした。走って渡る気には、到底なれない。

「……ぶん殴ってやりたい」

 信号待ちの途中、私は無意識のうちにそう呟いていた。自分でも情けなく思えてくるような、弱々しく震えた声で。自分で発した言葉のはずなのに、何と言ったか理解するまでには、数秒のタイムラグがあった。

「……えっ? いま私、なんて?」

 私だって人間なのだから、嫌な人に冷たく振る舞いたくなるのも、悪口を言いたくなるのも、ある程度は仕方がないと思っていた。だけど同時に、「暴力だけは絶対に振るわない」とも、体中につけられた傷痕を風呂場で目にする度、強く強く思っていたはずだった。……そんな私にとって、それは人生で初めての、「人に暴力を振るいたくなった瞬間」だった。

 性能が全く同じだとしても中古品より新品の方が高く、ファーストキスを二回目以降のキスよりもずっと大切にするように、人は「潔白」というものが好きだ。だから私も、一瞬とはいえ、あれだけ毛嫌いしていた「暴力」を肯定してしまったことに、とても落胆した。が、すぐに思い直して、気がついた時には、かえってポジティブになっていた。

「さて、青だ」

 青に変わった信号を挑むように見据えてから、ゆっくりと、しかし堂々と歩き出した。今回の茜との再会は、案外悪いことばかりではないのかもしれない。そんなことを思い始めていた。

 よく考えたら、今現在の私の一番欲しいものは、「正しい道を踏み外す勇気」なんだ。


 あの鉄っぽい味が気持ち悪くて、一切触れていなかった唇の切れた部分を、思い切ってベロッと舐める。血の味が完全にしなくなるまで、何度も何度も。昼休みに涙を止めるため使い切り、あいにく今は、ティッシュを持っていない。

 そして、ちょうど横断歩道を渡り切った時、私は、口の中に溜まった血と唾の混合液を、積もりたての真っ白な雪に吐き捨てた。


「待ってたよ。さあ、座って」

 行儀よくベンチに座った茜は、自らの右隣をトントンと叩いて、そう言った。

「うん。……あっ、私の座るところ、雪を払ってくれたんだね」

「そうだよ。あと、サラちゃん寒いでしょ。マフラー貸してあげる」

 なんだか遥か昔の記憶の中にいるみたいだった。すっかり忘れていたけど、そういえば茜は、自分の欲求がある時はそれを最優先にするが、それ以外の時は、こうして私のことを想ってくれる優しい子なんだ。

「……ありがとう」

 何かが違ったら、なんてことは、もう考えないことにした。万が一、ほだされて心からの笑顔になってしまったとしても、見られるのは絶対に嫌だなと思って、私は、柔軟剤の良い匂いがするマフラーに口元をうずめた。

「それにしても、なんだか感慨深いなあ。サラちゃんに私以外の友達ができるなんてね。出会った頃は、人嫌いのオーラが溢れてたのに」

 頭に積もった雪を軽く払いながら、そう言った茜を見て、私もつられて自分の頭を触ったが、芯まで冷えた髪の毛に直接触れただけだった。少しして、「ああ、さっき茜に撫でられた時に落ちたんだな」と気がついて、なぜか少し可笑しくなった。

 狭い巣に仲良く収まる卵みたいに、二人して同じマフラーにくるまって、私たちは、お互いの顔を見つめ合っていた。

「まあね、私だって……」

 あんたみたいなワガママ女に付き合ってたから、他がめっちゃマシに見えるんだよ……なんて言ったら、また彼女のスイッチを押してしまうことになる。良い雰囲気のまま、話題を変えよう。

「……少し嘘つきになったから。『嘘も方便』っていうことわざがあるようにさ、やっぱり人付き合いには、ある程度の嘘が必要だよね」

「そうなんだ……ふっ、ははっ」

 神妙な顔で言った私とは対照的に、茜はお腹を抱えて楽しそうに笑った。自らの本気をバカにされたみたいで、一瞬ムッとした。

「……なるほど。少し、ね」

 ひとしきり笑った後、茜は私の目を静かに覗き込んで、何かを確認するような口ぶりでそう言った。

「なんだか、含みのある言い方だね」

 おかしな話だけど、私はその時、内心ワクワクしていた。この丸い瞳の奥で見え隠れしている残酷な輝きは、豹変前に茜が見せるサインだ。

「まあね。だって、サラちゃんはさ、昔から嘘つきだもん」

 私の言葉に一拍置いてから、茜は明るい声でそう言った。その瞬間、辺りの空気が決定的に変わったのを感じた。朗らかに笑っているはずなのに、目だけが鋭い輝きを帯び始めた。

「どういうこと?」

 反射的に鳥肌が立っていたけど、心は恐怖とは無縁の状態だった。むしろ私は、猛獣を飼い慣らすことができたかのような、達成感に浸っていた。「やっぱり茜は、私が期待していた通り、予想外なことを言ってくれたな」と。

 心構え一つで、感じ方はこれほどまでに変わる。新たに知ったその事実は、私に大きな自信をもたらしてくれた。

「……まずさ、サラちゃんの『嘘の定義』ってなに?」

 これから私が言うことは、絶対に間違っていない。そんな自信に満ちた目。この目をしている時の茜の言葉は、どれだけ倫理観が欠如したものでも、なぜか絶大な説得力を持っている。

「えっ、嘘の定義? そりゃあ、『わざと言った本当じゃないこと』だと思ってるけど」

「なるほど。じゃあ、サラちゃんは嘘って嫌い?」

 いつか私たちの学校にやって来たマジシャンを、不意に思い出した。「ザ・マジシャン」といった感じのステレオタイプの格好が、残念なほど似合わなかった小太りの彼も、ショーの一環として、私たちにこういう当たり前な質問をしてきた。

「もちろん」

 こういうのには、素直に答えるのが吉だと知っている。彼らの教えてくれる世界に、すんなりと入って行きたいのなら。

「どうして?」

 難しい質問だなと思ったけど、私は冷静に自分の気持ちに一番近い答えを考えた。

「……だって、嘘をつかれたら、誰だって嫌な気持ちになるから」

 少しの沈黙の後、そう答えた瞬間のことだった。熟練のカウンセラーみたいに落ち着いて、私に色々な質問をしていた茜は、突然、何かに耐えるように唇を固く結んだ。その目の鋭い輝きは、みるみるうちに暗く鈍っていった。

「……そう思ってるならさ、どうして、ずっと秘密にしたままなの?」

 その声の切実な響きに、私はハッとして息を呑んだ。何について言っているのかは、言われなくてもわかった。

 静かな怒りと悲しみが、すりガラスのようになったその目の奥で逆巻いている。パンパンに膨らませた風船のように、少しの刺激で爆発してしまいそうだ。

「サラちゃんは『家庭の事情だ』って言うけどさ、要は親がキチガイってことでしょ? 周りに知られたら不都合な事実があって、それを口外するなって言いつけられてるんでしょ?」

 マフラーをグイッと引っ張りながら、茜は私を淡々と問い詰めた。茜の湿った白い息を鼻先で浴びる度に、私はなんだか、茜の秘めている悲しみを、直に浴びているような気分になった。

 客観的に考えてみたら、私にだってわかる。「友達に大切なことを秘密にされる」というのは、自分が信頼されていないみたいで、確かに嫌なことだろう。だけど、そうだとしても今の茜は、少し異常な様子だった。

「でもさ、そんな命令、守る必要ないじゃん。それともなに? イカれてる親に嘘をつくことすら、悪だって言うの?」

 色々な感情を封じ込めた目の不安定さと、淡泊な口調との対比が、なんだか恐ろしくて、早く何か言おうと必死に考えた。だけど私は、あの落ち葉合戦の日に、「サラちゃんのそういう秘密主義的なところ、大嫌いだから」と言われた時と同じく、またもや言い淀んでしまった。

「…………」

 そんな私を、茜は物も言わず見下ろしている。その静かな威圧感に、私の脳みそは更に空回りしてしまう。同じベンチに座っているはずなのに、こんなに座高が違うとは。この気まずい状況の打開策を見つけることを、もはや諦めてしまった私は、どこか穏やかな気持ちで、「見ないうちに、また背が伸びた気がするな」と、親戚のおばさんのようなことを思っていた。

「……あのさ、サラちゃん」

 そして、そんな沈黙がしばらく続いた後のことだ。

「今さら、『嘘が嫌い』なんて言わないでね。自分では潔白だと思っているかもしれないけど、サラちゃんのその両手は、もう既に泥だらけだから」


 その言葉を聞いた時、心の中で何かがパリンと割れる音がした。そしたら私は、たちまち全部がどうでもよく思えてきて、張り詰めた表情で私の言葉を待つ茜を尻目に、マフラーを取って立ち上がった。


「……ごめんね、なんか熱くなり過ぎちゃった。これが最後の質問、サラちゃんの今の夢ってなに?」

 立ち去ろうとする私の姿を見て焦ったのか、そう訊いた茜の声は酷く震えていた。こういう時、今までの私なら、彼女のことを慰めようと焦ったのだろうが、その時の私の心は、自分でもビックリするほど冷め切っていた。

「『大切な人との時間のために生きる』っていう生き方を、もう一度、正しいと思えるようになること」

 背を向けたままそう答えると、自然と口角が上がって行った。クラスメイトと話をしている時、どうしても感じてしまっていた惨めさに否定され、誰よりも大切な人だと思っていた茜に否定され、思えばここまで長かった。

 今はまだ、少しだけ躊躇している。だけど、次の日曜日にはもう、「みんなとの時間が、私の生きる目的だ」と心から思えているはずだ。

「じゃあ、私はもう行くから。今日はありがとうね」

 結局、最後まで振り向かず、一方的に別れを告げた。その帰り道の景色は、いつもと何も変わらないはずなのに、とても綺麗に見えたのを覚えている。

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