ep1-8
昼食を食べてから一緒に家を出て、要の車で球場へ向かった。
「チケットに書いてあるゲートに行けば入場できるから。中にも座席表あるし、もし分かんなくてもスタッフいっぱいいるから、聞けば大丈夫」
「分かりました」
「あとコレかぶってけ。スワンズの応援してる感出るから」
ぽす、と頭にかぶせられたのは、要が今しがたかぶっていたキャップだった。視界の上のほうに何か文字が見える。一度手に取って確認してみると、キャップのつばの裏側に誰かのサインが書かれていた。
「もしかして、要先輩のサインですか?」
「そう。この辺が間宮で、この辺が要」
「すごい。プロって感じがします」
「はは、プロだからなぁ。それ、美澄にあげるから」
「ありがとうございます。大切にしますね」
「ん」
選手用の地下駐車場で別れ、階段を使って一人で地上へ出る。試合開始までは時間があるにもかかわらずドーム周辺は既に賑やかで、たくさんの人が応援ユニフォームを着ていた。「MAMIYA」の背ネームと要の背番号である二十七を見るたび、何故か誇らしい気持ちになる。
しばらく辺りを散策した後、入場開始時刻まで近くのカフェで時間を潰してから、チケットに記載されたゲートへ向かった。
柱や壁に大きく掲示されている看板には、東京スワンズのレギュラー陣の写真が使われている。もちろんその中には要もいて、精悍な表情で腕を組んでいた。彼のことだ。撮影後に照れてモジモジしていたに違いない。せっかくなので後で要に見せようと何枚か写真に収め、入場列の最後尾に並ぶ。ドーム型球場特有の、内外の気圧差で生まれる風に抗いながら回転扉を抜けた先には、壮大な世界が広がっていた。
「……わぁ、懐かしー」
スワンズドームで試合をした経験はなかったけれど、毎日駆け回っていたグラウンドは、眼下に広がっているダイヤモンドと同じ広さで同じ形。肌で感じる球場の雰囲気は、テレビ越しに見るよりもずっと生々しい。
要が用意してくれた席からは、マウンドやバッターボックスがよく見えた。ダッグアウトの屋根がすぐ目の前にあり、内容までは分からないが、アップ中の選手の声が聞こえてくる。要はティーバッティングの最中で、フォームを確認しながら黙々とバットを振っていた。
試合開始まではあと一時間近くある。木製バット特有の乾いた打撃を聞きながら、キャップを外してサインを眺めていると、あの、と左から声がした。
「……はい?」
顔を上げる。応援ユニフォームを着た知らない女性が、美澄の顔と要のサインを交互に見ていた。美澄と同じく一人で観戦しにきたのか、周囲に同行者らしき人はいない。試合前の高揚感が、丸みを帯びた頬を染めている。
「間宮選手、お好きなんですね」
「あ、えっと、はい。好き、ですね……」
訊ねられたのはライクのほうだと分かっているのに。好き、と言葉にすると、勝手に心拍数が上がった。
「サイン、いいですね。キャンプとか観に行かれたんですか?」
「え、と……そんな感じ、です」
実はさっき、本人からもらったんです。しかもコレ、間宮要が直前までかぶってて――なんて言ったら、大騒ぎになるに違いない。時には必要な嘘もある。
「そうなんですね! 私も行ったんです。丹羽選手が好きで、ユニフォームにもサインしていただいて」
そう言いながら、女性は美澄に背中を向けた。要とは違う形のサインが、背番号六の下に書かれている。丹羽夕晴選手。日本を代表する名ショートストッパーで、キャプテンも務めるチームの顔。要と同じくらい応援ユニフォームを見かける回数が多かった。
試合開始時刻が迫っていた。スタメンが発表され、拍手が沸き起こる。ある程度は下調べをしてきたが、細かな観戦のマナーは正直分からない。周りに合わせて拍手をしてみれば、自分も応援の輪の中に溶け込めた気がした。
打った瞬間、要は確信したようにボールの行方を見上げながらゆっくりと駆け出した。選手も観客も息を飲んで美しい放物線を追いかける。ビジター応援席のレフトスタンドに打球が突き刺さった瞬間、会場が揺れんばかりの大歓声に包まれた。六回裏。お互い一点も許さない緊迫した試合の均衡を破る、今シーズン第二十号ホームラン。
「ほ、ほんとに打った……」
ホームランですか? とプレッシャーをかけるようなことを言ったのは美澄だ。でも、まさか、本当に実現してしまうなんて。まるで、マンガに出てくるヒーローのような話じゃないか。
ダイヤモンドを一周した要がホームに戻ってきた。ベンチ前のフェンスから身を乗り出して声を出していたチームメイトとハイタッチを交わし、スタッフから白い何かを受け取る。スイカより一回り小さいサイズの球団マスコット「はくちょん」のぬいぐるみだった。
ホームランを打った選手が、それを観客席に投げ込むパフォーマンスはテレビでよく見る光景だ。それを手にするチャンスがあるのは、一塁上の席。美澄が今座っている席周辺のファンだけだ。
我こそはとアピールする周囲の人々の中で、目立たぬように大人しく座っていたはずなのに。天才捕手の甘ったるい目は、迷わずに美澄を見つけ出した。
――美澄。
声は、歓声にかき消されて聞こえなかった。それでも、自分の名前を呼んだのだと分かった。
要が投げたぬいぐるみは防護ネットを越え、美澄の真上に落ちてきた。さすが野球選手。コントロールが抜群にいい。手を伸ばしてキャッチする。ちゃんと取りましたよ。視線で伝えると、要は無邪気な笑顔を浮かべて頷いた。
試合はまだ終わりじゃない。既にツーアウトだったこともあり、キャッチャーの要は数人がかりで防具をつけていく。
「おめでとうございます。よかったですね!」
先ほど声をかけてきた丹羽選手ファンの言葉に首肯する。光を集めて輝く瞳に映りこむ美澄は、要に負けないくらい幸せそうだった。
それにしても、はくちょんの見た目はもう少しどうにかならなかったのだろうか。簡単に表現するならば、人型の白鳥。足がやけにリアルだ。ちょっぴり、否、結構気持ち悪いシルエットをしているが、意外と柔らかくて抱き心地がよかった。ぎゅーっと腕の中に閉じ込めてみる。「ヤメテー」と断末魔が聞こえてきそうな見た目になった。だんだん可愛く見えて……はこないな。
グラウンドでは攻守が交代が行われている。チームメイトの手荒い祝福を受けながら守備位置についた要の楽しそうな表情は、昔と少しも変わらない。野球を心から愛して、たくさんのファンに愛される人。グラウンド上での一挙一動から、目が離せない。
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