ep2-4
シーズンも後半に差し掛かり、東京スワンズの優勝マジックは順調に数を減らしていた。この日美澄が観戦した試合の先発は、志麻朔太郎投手。要と同い年の二十四歳で、多彩な変化球を武器に先発ローテーションを支える右腕だ。
一点ビハインドのまま試合が進み、幾度か訪れたチャンスを掴みきれないまま九回の裏の攻撃が始まった。打順は一番から。一人でも塁に出られれば、今日レフトスタンド上段に突き刺さる本塁打を放っている四番の日下部まで回り、打率が高い五番の要、六番の小嶺へと続く。
一番の中堅手、大戸翠がフォアボールを選び出塁すれば、応援の熱が一気に高まった。が、二番の矢野がセンターフライに倒れると、スタンドはため息に包まれる。応援が大きい分、落胆も大きい。要が「打てない時が続くとマジで胃が痛い」と言うくらい、心にくるらしい。
三番の丹羽の打席で大戸が盗塁を成功させたが、続く二球目でフォークボールを引っかけてファーストゴロ。ツーアウトと後がなくなったスワンズの次の打者は、今日一発を打っている四番の日下部だ。塁上には俊足の大戸。内野の頭を越えれば同点だ。
試合後に挨拶をする時はとてもやさしい空気をまとっている主砲も、打席に入ったら勝負師の顔になる。絶対に打つという強い意志を滲ませた眼差しが、バックスクリーンに映し出された。
「あー、くそ、やっぱり敬遠だ」
斜め後ろのおじさんが悔しそうな声をあげた。応援の一部がブーイングの声に変わる。相手チームの監督が審判に敬遠を申告したのだ。次のバッターは要だが、いかんせん今日の彼は当たっていなかった。四打数無安打。チャンスの芽をことごとく摘んでいる五番との勝負を選ぶのは、なんら不思議なことではない。
「頑張れ、要先輩~……」
美澄は膝の上で両手を組み、祈るようにバッターボックスを見つめた。要の表情は、観客席から見ても硬く険しい。コイツならば打ち取れると判断されての申告敬遠だ。悔しくないはずがなかった。
一球目は大きく外れてボール。二球目は要らしからぬ大振りでストライク。今すぐ駆け寄って、ほっぺたを全力でむにむにしたい。リラックスです。そのひと言を伝えるために。
ダメかぁ、と誰かが呟いた。ダメじゃない。要なら絶対に打つ。ファンが信じないで、誰が信じるのだ。
二球続けて外れ、その後の二球をファールにした。タイミングが合っていないように思えるが、狙っている球があるのだろうか。
一度タイムを取って打席から離れた要が、顔を上げて大きく息を吐いた。目が合った気がする。大丈夫。絶対打てますと、美澄は大きく頷いてみせた。九回裏、一点ビハインド。ツーアウトランナー一、二塁でフルカウント。さらには今日四打数無安打と、誰から見ても絶対絶命の場面で、要は不敵に笑った。
前方から歩いてきたのは、今日の先発で九回二失点と好投したピッチャーの志麻だった。目が合ったので、ぺこりと頭を下げる。
「あ、要の後輩だ。美澄くん、だっけ?」
「そうです。志麻さん、お疲れさまでした」
「ありがとう。勝ててよかったよ、ホント」
「ナイスピッチングでした」
やさしげな双眸をきゅっと細めた志麻が、美澄の前で足を止めた。要よりも高い場所に目があるが、声や表情がやわらかいので威圧感はない。
「最後、要が打ってくれたおかげで勝ち星が増えたよ。後でご飯奢ってやらないとなぁ」
九回裏ツーアウト、ランナー一、二塁。スリーボールツーストライクと追い込まれた要はその後、値千金のサヨナラ二点タイムリーを放った。心理戦が得意なキャッチャーなのに、普段は子どもみたいな喜び方をする要が、悔しさを押し殺しグッと喜びを噛み締める姿に、美澄の涙腺は崩壊寸前だった。
「どうだった? 先輩のサヨナラタイムリーは」
「カッコよかったです。日下部選手が敬遠されて、すごく悔しそうな顔を見た後だったので、余計に」
「だな。アイツのあんなに悔しそうな顔、初めて見たかも」
「ずっと敬遠される側でしたからね、高校の時から」
「あー、そういやアイツ、甲子園準優勝チームのキャッチャーで四番か」
「あと、キャプテンでした」
「詰め込んでんなぁ……要なら大丈夫そうだけど。ところでさ、高校の頃ってどんなキャッチャーだったの?」
この手の質問は大好きだった。美澄は胸を張って生き生きと答える。
「最高のキャッチャーです。なんと言っても捕球音が世界一だと思ってますし、構えた時にビタッと止まってくれるのも的が大きく見えて投げやすいし、どんなピンチの場面でも絶対後逸しないで止めてくれて……調子が上がらない時でも、実は俺今日めちゃくちゃ調子いいんじゃ? って勘違いさせてくれるというか」
「あはは、スーパーマンじゃん」
「スーパーマン、ですね」
今も昔も。美澄にとって、要はそういう存在だ。歩みを止めた思い出は、時を経るごとに美しくなる。
「やっぱ、昔からそんな感じだったんだなぁ。今だって、真尋から崇拝されてるし」
「そうなんですか?」
要をとても慕っているのは雰囲気から伝わってきたが、崇拝レベルとは。
「そ。強火担って感じ」
「つよびたん……?」
小首を傾げた美澄に、志麻はでもな、とお構いなしに続ける。プロで活躍するような投手は、自分の世界を突き進みがちだ。
「そんなスーパーマン要、俺にはマウンドでも容赦ねーんだよ。同級生だからかなぁ」
「え、想像つかないです」
「例えば、さっきのフォーク落ち方甘くね? とか、今のコース、俺なら場外ホームランだわ、とか。朔ちゃん緊張してんのー? とか。今日言われたのは「五点までは計算済みだから」だって。アイツ、すげー煽ってくんの。あわやゼロ点ゲームだったのにな」
想像以上の煽り方で驚いたが、志麻の性格には合っているのだろう。楽しそうに笑っているし、実際に成績を残している。
「美澄くん、後で要に言っといて。朔太郎に、もう少しやさしくしろーって」
要が支度を終えて美澄の元へ歩いてきたのは、志麻と別れてすぐのことだった。サヨナラタイムリーを打った喜びと、あの場面で四番を敬遠されて勝負を選ばれた悔しさが入り混じる複雑な表情をしていた。
「要先輩、お疲れさまでした!」
「おー、ホント疲れた……」
駆け寄って荷物を持とうと手を伸ばす。いつもは断られるが、今日は持たせてくれた。憧れの人の大切な仕事道具が入ったスポーツバッグの重みに感激しながら、地下駐車場への道を要より半歩先に行く。さすがにもう迷子にはならない。
「俺、要先輩が打った瞬間、感動して泣きそうになりましたよ」
「俺は麗司さんが敬遠された時に泣きそうになった……今日全然当たってなかったし、仕方ねーんだけど。うわ、俺舐められてるって思ってさ」
「それでも、最後に打つのが要先輩のすごいところですから。終わりよければ全てよしということで。今日の夕飯は何がいいですか? サヨナラ賞です。何でも受け付けますよ」
「……ホットケーキ。メープルシロップいっぱいかけたい」
思わずかわいいと言いかけて、分かりましたと言い直した。
車に乗り、帰路を行く。まだまだ車通りの多い夜の大通り。いつも要が好んでかけている洋楽が、二人きりの空間に満ちている。今は喜びより悔しさが勝っているのだろうか。ちらりと盗み見た横顔は、いつもより強張って見えた。
「……ほんと、打ててよかったよ」
ぽつりとこぼされた言葉は、美澄の返事を求めない類のものだった。言葉尻に滲んだ安堵が、重圧の大きさを物語る。
「打線が援護してやれない状態で、朔が頑張って投げてたからさ。どーしても打ってやりたかった。キャッチャーの俺が決めたかった。全然打ててなかったけど、俺が」
どんな関係性であろうと、要は投手想いの女房役だ。同い年の気安さで遠慮がなかろうと、心の中ではいつだって投手の為を考えている。
今の言葉を志麻が聞いたら、どんな反応をするだろう。想像しただけで口角が上がった。
「さっき、志麻選手に挨拶しました。ナイスピッチングでしたって」
「ああ、帰んの早かったもんな。何か言ってなかった? アイツ」
「やさしくしろーって言ってました」
「やっぱり? 今日なんて俺、朔が取られる五点は計算済みだとか言っちゃったよ。二点で抑えてても負け投手にしちまいそうだったのに」
「笑ってましたよ、それ」
「はは、笑って許してくれんだ。やさしいからなぁ、朔は」
横顔が赤信号に染まる。車が完全に動きを止めると、要は左を見た。夜と同じ色をした瞳が、まじろぎもせずに美澄を捉える。敬遠がよほどこたえて落ち込んでいるのかと思ったのだが。よく見てみれば、緊張の面持ちと表現するほうがしっくりきた。
「なあ、美澄」
「はい」
何か大切なことを言おうとしていると、空気で察した。背すじを伸ばし、美澄もまっすぐに要を見る。
「あのさ……俺の、専属トレーナーになってほしいんだ」
「え……?」
一瞬だけ、世界が時を止めた。信号が青に変わって、思い出したように動き出す。要は前を見てブレーキから足を離し、アクセルに足をのせた。
「専属トレーナーとして、俺と契約してほしい。もちろん、今までみたいにどっちかの家で一緒に飯食いたいし、給料とは別に食費も出す。給与額も、今美澄がもらってるよりも上げられる。遠征費は俺持ちで、球団から補助も出るから心配いらない。今の仕事との折り合いもあるだろうから、今すぐじゃなくていい。来シーズンからでも構わないから、考えてみてほしい」
「……どうして、このタイミングで?」
喜びと戸惑いが一緒くたになって美澄を包み込んだ。今までの関係だって施術はしてあげられたし、遠征先には球団のマッサージトレーナーが同行している。ちゃんと冷静でいられたことに安堵して、訊ねた。
「今日の最後の打席で、これ打てたら言おうって思ってたんだよ。言いたいなら打つしかねーぞって。専属になってほしいなっていうのは、ずっと前から考えてたんだ。とにかく、今すぐにとは言わない。答えが出たら、聞かせてくれ」
「分かりました。ひとつ、いいですか?」
「なんでしょうか」
「なんだか、プロポーズみたいだなぁって思って」
「……ま、そう受け取ってもらってもいいけど」
「え?」
「いや、何でもねー」
不意打ちでは聞き取れないくらい小さな声で何かを呟いた要は、へらりと笑ってオーディオの音量を上げてしまった。先ほどまでの硬さが嘘のような上機嫌な横顔で、ホットケーキの唄(作詞作曲・間宮要)を口ずさみ始める。少し……いや、かなり下手っぴだ。そうだ、歌はこの人の唯一の弱点だった。甲子園で歌った校歌。隣から聞こえた歌声の衝撃は、多分チームメイト、それも近くにいた一部の人間しか分からないだろう。
要の歌声に対抗するような洋楽のベース音が、ズシンズシンと腹の底に響いている。
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