ep2-5

 メレンゲをたてて作ったふわしゅわホットケーキにパウダーシュガーを振りかけ、たっぷりのメープルシロップをかけてバターものせた。トロリととろけて、甘い芳香が辺りを満たす。我ながらいい出来だ。カフェで出てきそうな完成度に、頬がゆるんだ。


「要先輩、お待たせしました」


 リビングでそわそわしながら待っていた要の元へ持っていく。平皿に盛り付けられた念願のホットケーキに、要の目がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、光を当てられた宝石みたいに輝き出す。その幼い表情は、つい数時間前に執念のサヨナラタイムリーを放った男前と同一人物だとは思えない。


「これ、食べていいの……?」

「ええ、もちろん。冷めないうちにパクッといっちゃってください」


 キッチンへ戻り、自分の分を焼きながら要に言った。

 要は雪をかぶったキツネ色にそおっとナイフを入れ、追いメープルをつけてひと口頬張る。美味しいですか? と聞かなくても、言葉にならない感激の声が答えだった。


「やべー。マジで打ててよかった……」

「喜んでもらえて何よりです」

「美澄はどうすんの? 甘いの好きじゃないよな?」

「俺はしょっぱいバージョンです。ベーコンと半熟卵」


 今しがた焼き上がった生地の上に、別のフライパンで焼いていたベーコンエッグをのせる。皿に盛りつけリビングへ向かうと、要の視線が痛かった。


「……美澄ぃ」

「はーい?」

「そっちも食べたい……」


 甘えたな声色。美澄は得意げに眉を上げた。


「そう言うと思って、先輩の分も作りました」

「さっすが美澄!」


 ホットケーキ一つでここまで喜んでもらえるなんて、本当に作りがいがある。





 順番に入浴を済ませ、いつも通りマッサージを終え、ソファに並んでニュースを眺める。笠井アナウンサーのハキハキとしたタイトルコールで始まったスポーツコーナーが野球の話題に差し掛かるより早く、隣から寝息が聞こえてきた。起きている時はコロコロと目まぐるしく変わる表情は、目を閉じていると随分と幼く見える。

 一点もやれない緊迫した展開でのリードに、一点ビハインドの九回裏ツーアウトで回ってきた打席。プロの世界は美澄の想像を遥かに超えるプレッシャーばかりだろうが、今日は素人目に見ても盛りだくさんだった。さすがの要もヘトヘトだったのだろう。ソファで寝てしまうだなんて珍しい。

 ぐらりと身体が傾いて、肩にもたれかかってきた。脱力した筋肉質の身体はずしりと重く、温かい。髪が首すじをくすぐる。


「要先輩、寝るなら寝室行ってください。身体痛めますよー……せんぱーい」


 何度か肩を揺らしたり叩いたりしてみたが、目を覚ます気配はなかった。変な体勢は身体に悪いが、かといって寝室まで運んであげられる体格も筋力もない。どうしようかと悩んだ末、頭を支えてそおっと膝まで誘導し――いわゆる「ひざ枕」の体勢で落ち着いた。

 頭の重みが心地いい。サラサラとした髪の感触を少しの間楽しんで、触れるだけのキスを落とす。頬や鼻先にされたことがあるのだ。髪くらいは許してほしい。


「……好きです、先輩」


 自覚してからというもの、日を追うごとに恋心の輪郭が鮮明になっていく。このまま成長を続けたら、いつか破裂して溢れてしまいそうだ。

 自分は、どうしたいのだろう。想いを伝えて、両想いになりたい? なれたらいいとは思うけれど、最適解かと考えたら違う気がする。今、要の最優先は間違いなく野球だ。要は野球を愛していて、要は野球に愛されている。憧れた人の進む道。邪魔はしたくない。

 ほぼ牛乳のコーヒー牛乳も、美澄のブラックコーヒーも、すっかり冷めてしまった。二つのマグカップは仲良さげによりそい、見下ろした先の整った寝顔は穏やかで、ゆっくりと流れる二人きりの時間は幸せだ。今の関係が心地いい。要もきっと、そう思っているだろう。


――俺の、専属トレーナーになってほしいんだ。


 そう切り出した時の、緊張で強張った顔を思い出す。要が美澄に託そうとしているのは、安易に「はいやります」とは答えられないような大切な役割だ。プロスポーツ選手の専属トレーナー。柔整師や指圧師の資格を持つ人間の中でも、ほんの一部の選ばれた者だけが辿り着ける狭き門。美澄は今、その門戸の前に立っている。それだけでも身に余る光栄だ。

 一人の野球人生を背負う。たった一人だけど、要の全てだ。責任の大きさは果てしない。今までとは比べ物にならないほどに。でも、責任の大きさを盾にして逃げるつもりは毛頭なかった。返事はすぐじゃなくていいと要は言ったが、答えは最初から出ていたのだ。

 俺は、要先輩の力になりたい。

 ひざの上の丸い頭をなるべく揺らさないように、テーブルのマグカップへ手を伸ばす。すっかりぬるくなったコーヒーを啜りながら、美澄は決意した。

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