ep2-6
終業後、院長の多々良に話があると伝えた時、彼は全てを悟ったような、寂しそうな笑みを浮かべた。いつもはほとんどを担っている片付けを吉村に任せ、事務所へ場所を移す。そして美澄は、要から専属トレーナーになってほしいと打診があったこと、自分自身がぜひ受けたいと思っていることを申し出た。したがって、多々良接骨院を退職したいということも。
「あい分かった。最近の君たちを見て、遅かれ早かれこの話が出ると思っていたよ。でも、美澄くんの人生だ。僕に止める資格はない」
「……すみません」
「美澄くんは、若くてやさしくて腕もいい優秀な人材だ。患者さんからの人気や信頼もあるし、本当は辞めてほしくない……でも僕はね、君たちが高校でバッテリーを組んでた姿を見ているから」
「え……?」
初めて聞いた話だった。多々良の元で働き始めてから一度だって、過去に踏み込まれたことはない。
「テレビ越しでも伝わってくる信頼関係。夏の甲子園の決勝では惜しくも負けてしまったけれど、二人ともいい顔をしていて感動したし、とてもいいバッテリーだと思ったよ」
「なら、俺が、野球を辞めた理由のことは……」
「肘の傷を見ているから、何となくはね。誰だって、聞かれたくないことの一つや二つあるだろう?」
多々良は一度言葉を切って、少しうつむきがちだった美澄の顔を下から覗き込んだ。いつも通りの穏やかな眼差しに、朝から強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
「プロスポーツ選手の専属トレーナー。名誉ある肩書きじゃないか。もっと誇らしげな顔をしていいんだよ」
「でも俺は、多々良先生にも吉村先生にも、言葉では表しきれないくらいお世話になりました。それなのに、俺は」
自分なりに考えて決めた未来なのに、多々良接骨院を踏み台にしているみたいで今さら足がすくんでいる。
「美澄くん」
「っ、はい」
「君がここを去ったとしても、一度できた繋がりは切れないよ。君と間宮さんだってそうだろう?」
「……はい」
六年の空白を経ても、二人は今共にある。その事実が、多々良の言葉に重みを持たせた。しっかりと頷いた美澄に、多々良は朗笑する。
「君なら大丈夫。立派に間宮さんを支えられると思う。頑張りなさい」
「っ、はい、ありがとうございます……!」
この人の元で働けてよかった。心からそう思う。
多々良接骨院への最終出勤日は、オフだった要が迎えにきてくれた。いつもは来院しない曜日の学生たちも駆けつけてくれ、接骨院の前はすっかり大所帯。なんだか有名人にでもなった気分がして、少し落ち着かない。
「多々良先生、吉村先生。短い間でしたが、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、一生懸命働いてくれてありがとう。いつでも遊びにきていいからね」
「はい!」
「美澄、身体には気をつけてな。人のケアにばっか気ぃ取られて、自分が身体壊したら元も子もないから」
「はい。肝に銘じます、吉村先生」
「頑張れよ」
「ありがとうございます!」
後ろ髪を引かれる思いだったが、飛ぶ鳥は跡を濁さず行くべきだ。門戸に横付けされたSUVの助手席に乗り込むと、要が窓を開けてくれた。学生たちが駆け寄ってくる。
「美澄先生、頑張ってな!」
「うん、ありがとう。みんなも、部活頑張ってね」
「っす!」
「勉強もね」
「……っす」
半分以上の子が目を逸らしたのは気の所為ではないだろう。運転席の要も「耳がいてーわ」と呟いている。
「間宮選手、美澄先生いじめないでくださいね!」
「おう、任せろ。幸せにする」
「あはは、プロポーズみてー!」
車窓に縁取られた景色が、ゆっくりと動き出す。手を振る顔が遠くなり、見えなくなって、窓を閉めた。門出を祝うようなバラードが、控えめに車内を彩っている。
宴の終わりのような物悲しさが、心に薄く膜を張る。喪失感がないと言えば嘘になる。でも、このすき間を埋めてくれる人の隣が、美澄の新たな居場所だ。
「これでもう、後戻りはできないですね」
「……後悔してる?」
「いいえ。ワクワクしてます」
「そっか」
「でも、これからは要先輩の成績が落ちてクビになったら、俺も一緒に路頭に迷うってことになりますね」
美澄はイタズラっぽく口角を上げた。
「うぇ~、縁起でもねーこと言うなし」
「なので頑張ってください。俺も全力で支えます。一蓮托生ですから」
「ああ、大舟に乗ったつもりでいてくれ。世界一のキャッチャーの専属トレーナーにしてやるからな」
昔から有言実行を地で行く男だ。少しも心配はしていない。
「あと、一つ言おうと思ってたことがあって」
「うん」
「……よ、呼び方を、変えようと思うんですけど」
「え?」
「要先輩じゃなくて、要さん。まあ、先輩であることに変わりはないんですが……これからは仕事相手にもなるので、気持ちの問題、です」
あと、要さんと呼んでいる真尋が少し羨ましかったのもある。絶対に口には出さないけれど。
そんなところに拘らなくていいと言われるだろうか。膝の上で親指をすり合わせながら、ちらりと横顔を窺う。街灯の淡い橙が照らし出すかんばせは、早朝の凪いだ海のように穏やかだった。
「分かった。俺も早く慣れるようにするわ」
今日はこのまま要の家に行く予定だった。しばらくは契約等で忙しくなるので、球場により近い要の家に居候させてもらうことになっている。
「要さん」
「なに?」
「呼んだだけです。ふふ、なんかくすぐったいですね」
「……呼ばれるほうもな」
口元がもにょもにょと動いた。珍しい表情だ。耳の先が赤く色づいている。
「要さん、照れてます?」
「……ん」
「じゃあ、早く慣れるようにたくさん呼びますね」
「おー。よろしく頼むわ」
決意の先には、どんな未来が待っているのだろう。
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