ep2-7
歓声が、怒声と悲鳴に変わった。ベンチ裏でリュックの中身を整理しながら、モニターで音声のない試合映像を観ていた美澄は、血相を変えて立ち上がる。
ベンチからグラウンドに出て、バッターボックスに駆け寄った。今の打席で死球を受けた要は、プロテクターを外しながらマウンドに厳しい視線を送っていたが、美澄の姿を視認するなり表情をやわらげた。
「あ、美澄だ」
「要さん、どこに当たりましたか」
外されたプロテクターを受け取り、一塁へ向かいながら確認する。左肘の外側を指さす顔に変化はない。
「エルボーガードだったから大丈夫。ちょっと響いてるけど」
「冷やします?」
「いや、大丈夫。アザになるかならないかぐらいじゃね?」
「分かりました。違和感や痛みが続くようなら教えてください」
「りょーかい。ありがとな」
別れ際にぽん、と背中を叩かれた。それが当てられた左腕だったから本当に大丈夫なのだろうが、一応攻守交替の際に冷却したほうがいいだろう。
ベンチに戻ると、東京スワンズの監督である新川が美澄を呼んだ。エルボーガードに当たったこと、現時点ではプレーに支障が出るような痛みはないこと、攻守交替の際に念の為冷却しようと思っていることを伝えてからベンチ裏へ下がる。選手交代の必要はなさそうだが、後から腫れが出ないことを祈るばかりだ。
後続が打ち取られて、塁上の選手がベンチに戻ってきた。数人がかりでキャッチャーの防具をつけていく要の肘に冷却スプレーをかけていると、プレー中特有の張り詰めた空気をほんの少しだけゆるめて目を細めた。
「少し赤くはなってますが、大丈夫そうですね」
「だな。ってか、試合中にお前の声聞けるの、なんかいいなぁ」
「要さん。それ、昨日も言ってましたよね」
「言ったっけ……あ、言ったわ」
レガースの装着を手伝っていた控え選手がくすくす笑っている。東京スワンズは選手同士の仲が良く、雰囲気もいい。間宮要の専属トレーナーとして、試合中もバックヤードに入るのを許されてから知ったことだ。
新しい生活がスタートしたけれど、自宅から通える距離に本拠地であるスワンズドームがある為引越しはせず、試合後にどちらかの家へ二人で帰って食事をするというルーティーンもそのまま続いていたので、今までの生活と変わらない点も多かった。大きく変わったことといえば、遠征で東京を離れても欠かさずケアができるようになったこと、それから、試合を観る場所が観客席ではなくベンチ裏――客人から関係者側の立場になったことだろうか。
キャッチャー用のヘルメットをかぶった要は、バックスクリーンに表示されているスコアボードを見上げた。九回表。三対ゼロ。今日も圧巻のピッチングで相手をたったの三安打に抑えていた真尋が、今シーズン十三個目の勝ち星を自らの投球で決める為、颯爽と飛び出していった。相手はクリーンアップから始まる好打順だが、マウンドに駆けていく背中を見る限り心配はいらないだろう。
「優勝マジック、残り三かぁ。よし、最後まで気ぃ抜かずに守ってくるわ」
「行ってらっしゃい、要さん」
「ん。行ってきます」
差し出されたこぶしに、左手をコツンとぶつける。グラウンドに駆け出す背中は広く、頼もしかった。
常勝の名にふさわしい戦いぶりで順調にマジックを減らした東京スワンズは、危なげなくリーグ優勝を決めた。試合の後に始まった優勝を祝うビールかけのライブ中継を、美澄はひと足先に戻ってきた間宮家のリビングに設置されている八十インチテレビ越しに眺めていた。大きいので、キッチンからでもよく見える。
今夜のメニューはミートドリアにコーンスープにグリーンサラダ。優勝記念のサプライズとして、イチゴのパフェも作る予定だ。
チームキャプテンの丹羽が普段どおりのローテンションで挨拶を終え、宴が始まった。画面を横切る白い泡。見ているだけでも酔っ払いそうだ。
監督の新川は強面でガタイがよく、厳つい見た目をしているが、今日ばかりは無礼講だ。遠慮なく頭からビールをぶっかける選手たちに、見ている美澄のほうがハラハラしてしまう。
選手にインタビューをするアナウンサーももれなくびしょ濡れになる中、憧れを探す。試合中は主役級のオーラを放っていた要は、インタビューを受けるだけ受けて隅っこでビールの雨を避けていた。人にはしっかりかけているところが彼らしい。
サラダとコーンスープが完成し、ちょうどいちごパフェを仕込み終える頃合で、玄関から物音がした。スポンジやムース、ストロベリーソースを仕込んだ器を冷蔵庫に隠し、オーブンにミートドリア入れた。近づいてくる足音は軽やかだ。
「たーいまー」
「おかえりなさい。早かったですね」
「シャワー浴びて速攻帰ってきた。すげーいい匂いする……」
「ドリアに焼き目がついたらすぐ完成なので、座って待っててください」
「ありがとー」
随分と機嫌がいい。優勝当日だから当たり前か。
「要さん、酔ってます?」
「んや、ビール苦くて好きじゃねーから、意地でも口に入らないようにしてた」
スポーツバッグを床に置いた要は、疲れたぁ、と気の抜けた声を出してソファに沈みこんだ。ビールかけ中継を終えてからも東京スワンズ特集を流し続けていた東テレのチャンネルでは、今シーズンのスーパープレー集が始まったところだった。劣勢の場面で見せた、丹羽と要の意表を突くダブルスチール。自分の姿を見た要はむくりと顔を上げ、「俺~」とキッチンの美澄にアピールしてきた。
ビールを飲まなかったこともあり、かなりの空腹だったらしい。熱い熱いと言いながらミートドリアを頬張る顔は幸福感に溢れている。
「これ、俺めっちゃ好き」
「ありがとうございます。要さん、ミートソース好きですよね」
「うん。米にもパスタにも合うなんて、ミートソース神だわ」
「ところで、皆さん真っ赤な顔してましたけど、まっすぐ帰ったんですか?」
「何人かは飯食い行くって言ってたし誘われたけど、断って帰ってきた。美澄の飯のほうが絶対美味いし」
「そうですか?」
「うん。間違いない」
悪い気はしなかった。
「あ、そうだ。帰ってきたら改めて言おうと思ってたんですけど」
「うん」
「リーグ優勝、おめでとうございます」
「ありがと。とりあえず無事にリーグ三連覇ってことでひと安心かな。ま、ラストシリーズに日本選手権って続くから、気は抜けねーんだけど」
ラ・リーグのペナントレース終了時点での上位三チームによるトーナメント戦、ラストシリーズ。それを勝ち抜いて初めて、レ・リーグ王者と日本一をかけて戦う日本選手権への挑戦権を得る。日本一への道はまだまだ遠い。
「さっき、ビールかけのライブ中継見てたんですけど」
「うん」
「要さん、満面の笑みで新川監督の頭にビールそそいでるから、こっちが緊張しました」
「許されてんだから、やらなきゃ損だろ。俺、いっつも怒られてるし」
「新川監督も、現役時代はキャッチャーで強打者でしたもんね」
日本代表にも選ばれていたのを、美澄も覚えていた。打てるキャッチャー。まるで要のような立ち位置の選手だった。
「そ。小学生の頃にテレビで観てた人が監督って、変な感じだよな。野球始めた時からキャッチャーだったから憧れてたけど、あの頃の俺に教えてやりたい。お前、あの人にめちゃくちゃ叱られるから覚悟しとけよって」
「タイプが似てる分、期待されてるんですよ」
「だといいな。ま、あと二回ビールかけのチャンスあるから、次は背中からそそいでやろうと思う」
「あはは、頑張ってください。ちなみに、デザートはいちごパフェです」
「マジ!? やった」
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