同じ痛みを知っている

安藤零

Episode1「リスタート」

ep1-1

「美澄先生、ちわっす!」

「こんにちは、松岡くん」


 玄関から聞こえてきた元気な挨拶に、雪平美澄は穏やかな笑みで応えた。つい一週間ほど前はひょこひょこと右足を引きずっていた小学生の彼は、ずいぶんとしっかりした足取りで奥の施術室へやってくる。慣れた様子でパイプ椅子に腰掛けた松岡の前にしゃがみこむと、包帯が巻かれた右足を膝の上にのせた。


「痛みはどう?」

「もうほとんど痛くない!」


 野球部の部活中、ピッチャーである彼はバントの処理をする際に体勢を崩し、右の足首をぐりっと捻ってしまったらしい。なかなか腫れが引かなかったが、ここ数日でかなり改善したようだ。

 包帯を取り、患部の状態を確認する。腫れはほぼ引いたが、「ほとんど」痛くないということは多少の痛みは残っているのだろう。柔道整復師とあん摩マッサージ指圧師の資格を持つ美澄が、親指でくるぶしの下をぐぐ、と圧迫した。松岡がいてて、とまだまだ幼い顔を歪める。


「うん、順調によくなってきてはいるよ」

「じゃあさ、もう練習再開していい?」

「うーん、もう少し我慢かな」


 痛みが残っているうちは、無理をさせるわけにはいかない。患部を庇うことで別の場所に力が入り、痛めてしまう危険性もある。

 電気治療の為のパッドを足首に巻き付けながら、美澄は野球少年を見上げた。練習を控えて、という言いつけをきちんと守っているのだろう。不服そうに唇を尖らせる坊主頭が可愛らしい。


「松岡くんは右利きだよね?」

「うん」

「右投げのピッチャーにとって、右足は最後に地面を蹴ってボールに力を伝える大切な役割があるんだ。万全の状態まで戻さないと、力がしっかり伝えられない。球速があっても、力やキレのない球は打ちやすい。バッターとして、そういう経験はない?」

「ある。そういうボールは、打ちやすいと思う」


 しっかりと頷いてくれた松岡に、美澄はやさしく続けた。


「じゃあ、これ以上の説明はいらないかな。だから今は我慢だよ。大丈夫、しっかり治せる」

「はぁい」

「電気が終わったら、テーピングしてあげるからね」


 電気を流す機器のタイマーをセットすると、玄関のほうから自動ドアが開く音がした。壁の時計を見上げる。放課後の部活を終えた中学生たちが来院する時間だ。

 多々良接骨院は、おじいちゃん先生で院長の多々良、多々良院長の一番弟子である四十代の吉村、そして昨年入社した美澄の三人で治療を行っている。主に学生、それから高齢者を中心に、地元に根付いた接骨院として日々たくさんの人が訪れていた。

「なぁ、昨日のプロ野球すごかったよな。観た?」

 この地区の小学校や中学校の野球部は強豪が多く、訪れる学生も野球部率が高い。聞こえてくる内容も、おのずと野球に関することが多くなる。部活について。もしくは、テレビで毎日のように放送されているプロ野球について。今日は後者のようだ。


「もちろん観た。すごかったよな、スワンズの三者連続ホームラン!」

「美澄先生は観た?」

「あー……ううん、観てないや」


 まだまだ小さな足へ流れる電気が強すぎないのを確認してから振り返る。夏の太陽でこんがりと日焼けした中学生たちは、一様に信じられないとでも言うような目を美澄へ向けた。


「えー、観てないの? 美澄先生、野球やってたんだろ」

「少しだけだよ。ほら、電気やる人はちゃんと椅子に座って」


 ぱん、と手を打つ。はーい、と野球部らしからぬ、のんびりとした返事が重なった。電気治療組は事務所から出てきた吉村に任せ、美澄は入口付近に立っていたひょろりと背が高い少年を手招く。


「井上くんは、左足マッサージしよっか」

「っす」


 奥のパーテーションで区切られたスペースへ移動し、井上をマッサージベッドに座らせ、先日から違和感があるという左足のスネの外側に触れた。たしかに、左手の指先に張りが伝わってくる。


「ここ、痛くない?」

「少し……痛いです」

「ちょっと張ってるから、よく解しておこう。家に帰ったら、よくアイシングしてね」

「分かりました」


 前脛骨筋の張りは、疲労が主な原因だろう。痛くない程度の力で筋肉に沿ってさすっていると、頭上から声が降ってきた。


「あの、美澄先生」

「なぁに?」


 手は止めずに顔を上げる。年下に舐められやすい美澄にも敬語を欠かさない中学生の真面目そうな眼差しが、美澄を見つめていた。


「俺、甲子園で美澄先生のこと、見たことある気がします」

「人違いじゃない?」

「スワンズで昨日ホームラン打った間宮選手と、バッテリー組んでましたよね?」

「……」


 スワンズとは、東京に本拠地を置くプロ野球チームの「東京スワンズ」のことだ。テレビで野球を観戦しなくともその程度の知識はあるが、美澄は何も答えなかった。


「先生って、すごくイケメンじゃないですか」

「そう?」

「そうっすよ。前から思ってたけど。ハーフですか?」

「いや、クオーター。祖父がヨーロッパの人なんだ」


 スラブ系の祖父の血が濃く出ているのか、その手の質問には慣れていた。色素の薄い髪や虹彩。抜けるように白い肌。高い鼻に薄い唇。幼少期とは違い、周囲の人々とは少し違った特徴を持つ容姿を揶揄されているわけではないと分かっているので、褒め言葉として受け取っている。


「すげー球投げる左ピッチャーで、顔もカッコよくて、よく覚えてます。美澄先生も左利きだし、そのピッチャーの苗字も、たしか雪平だった」


 その目は確信めいていた。美澄は苦笑する。


「イケメンだって言ってくれるのは嬉しいけど……あれはもう、過去の話だよ。もう六年も前だ。井上くんだって、小学生の頃でしょ?」


 大人の六年前と中学生の六年前では、あまりにも大きな差がある。十四歳の彼ならば、当時八歳。小学二年生か三年生だ。


「そうっす。でも、家族みんな野球好きで、テレビで観てました。先生は、プロにならなかったんですか」

「うん、色々あってね……よし、マッサージ完了。あまりやりすぎるとかえって痛める原因になることもあるから、家に帰ったらアイシングメインでマッサージはしないように。明日も様子見ながら、電気治療かマッサージか判断するね」

「はい。ありがとうございます」

「この後は肩の電気治療だね。移動しようか」

「あ、美澄」

「はい?」


 よっこいせ、と立ち上がるのと同時に、電気治療組の相手をしていた院長の一番弟子、吉村に名前を呼ばれた。


「多々良先生が呼んでたぞ」

「分かりました。すみません、井上くんの肩も電気治療でお願いします」

「了解」


 井上の治療を吉村に託し、呼び出しの心当たりが全く無いまま事務所へ戻る。なんだろう。自分が担当した事務処理で、何か不手際でもあっただろうか。手に嫌な汗を滲ませながら向かった事務所――と倉庫を合体させた決して広いとは言えない空間で、院長の多々良があごに手を当てながら、予約表のバインダーを眺めていた。


「失礼します。多々良先生、何かありましたか?」

「ああ、急にごめんね美澄くん」


 年季のこもったオフィスチェアに腰掛ける多々良の背後に立ち、本題であろうバインダーを覗き込む。美澄の欄の明日夜八時に、赤ペンで丸がついていた。


「明日の夜、美澄くんにご指名があって。受けちゃったんだけど大丈夫?」

「大丈夫です。でも珍しいですね。多々良先生指名なら分かるんですが。女性です?」

「いや、男だよ。しかも初診」

「わ、本当に珍しい……」


 多々良は腕利きの柔道整復師として、度々雑誌にも取り上げられる優秀な人だ。そんな彼ではなく、まだまだひよっこの美澄を指名してくるなんて。美澄の整った顔面狙いの常連マダムなら、まだ分かるのだが。


「ちなみに名前は、間宮要さん」

「……え?」


 その名前を聞いた刹那、美澄は呼吸の仕方を忘れた。にわかには信じられず、思わず真顔で聞き返す。


「間宮要さん。同姓同名の可能性もあるけれど、あの東京スワンズの間宮選手だったりして」


 さすがに違うかぁ、とお茶目に笑った多々良に、美澄は真剣な面持ちを崩さなかった。


「いや、多分その間宮要だと思います……あの人、高校の先輩なので。電話、どんな感じの人でした?」

「明るくて、こう、あはは~って感じの声だった」

「間違いなく先輩ですね……」


 その感じは、美澄の知っている先輩捕手に違いない。


「でも、どうして……」


 美澄より一つ年上の要が卒業してから今日まで、彼とは一度も連絡を取っていなかった。だって、嫌われてしまったはずなのだ。美澄が野球から目を背け、逃げたから。それを今さら、どうして。

 不安が湧き水のように込み上げてきて、頭のてっぺんから足のつま先まで覆い尽くしてしまう。治療を受けに来るというのはただの口実で、本当は嫌いな後輩をボコりにくるのかもしれない。多々良先生ごめんなさい。明後日から来られないかも――「おーい、美澄くん?」

「っ、ああ、すみません」

「都合が悪かったら今からでも断るけど……」

「いえ……大丈夫です」


 それでも、断る選択肢はなかった。わざわざ正規の手続きを踏んで予約してきたのだ。こちらも誠意を持って迎えなければ。


「現役のプロ選手だ。騒ぎになっても困るだろうし、奥の個室を使おうか」

「そうですね。施術内容は、明日状態を確認してからにします」

「電気治療機器を使う場合は、診療時間が終わってからにしよう。表は僕と吉村くんで回すから、七時半くらいから準備に入ってもらって」

「分かりました」


 話がまとまって満足したのか、意気揚々と事務所を出ていく小さな背中を見送った後、デスクの上の予約表に書かれた名前をそっと指でなぞってみた。間宮要。六年前の夏、青春の全てを共にした人の名前の隣には、多々良の几帳面な文字で「背中の張り」と書き加えられていた。きっとプロの世界は、美澄には想像も出来ないような重圧の連続なのだろう。だって、主将で四番で扇の要だった高校時代の彼は、怪我のひとつもしたことがなかった。


「……要先輩」


 たとえ嫌われていたとしても、忘れられていたとしても、久しぶりに会えるのを喜んでいる自分がいる。憧れと不安が入り交じって、胸が苦しい。

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