ep3-6

 美澄はふと立ち上がり、練習場の隅に置いたリュックから取り出したファイルを手に戻ってきた。間に挟まっているのは一枚のプリント。昨日、部屋でまとめたトレーニング案を印刷したものだ。


「真尋くん。俺、ノースローでもできるトレーニング案を作ってみたんだ。もしよければ、参考にしてほしいなって」

「え、ありがと。助かる」

「トレーナーとしての仕事だから。気にしないで」

「話も聞いてもらっちゃったしさぁ。なんか、すごく気分が軽くなった気がする」

「そう? それはよかった」

「あんたのお陰だよ。ありがと」

「どういたしまして」


 慣れた相手には、スキンシップが多いタイプなのだろう。ぎゅっとハグをされると、遠くから慌てたような声が聞こえた。視線の端で、要がこっちに駆けてくるのが見える。


「うわ、おい真尋!」

「要さん! ウエイト終わったの?」

「ああ。ついさっきな。つーか何やってんだよ」

「何って、感謝のハグ」

「美澄を困らせんな。離れなさい」

「あっ、ちょっと、なんだよ要さん!」


 あっという間に引き剥がされて、真尋が唇を尖らせた。今度は真尋よりもがっしりとした腕が、美澄を引き寄せ抱きとめる。普段よりも強く感じる汗の香りに、鼓動が速くなった。


「ダーメ。コイツ、俺のだから。つか何の話してたんだよ」

「要さんを怒らせると怖いって話。高校の時、美澄さんのこと泣かせたって話も聞いたよ」

「マジかよ。あれは反省してるって。ごめんな、美澄ぃ」

「いえ、あれは俺も悪かったので……」


 すっかり集中力が切れてしまったので、午前の練習を切り上げ、近くのレストランで昼食をとった。食休みの後、午後は元々ボールを使ってフィールディングの練習をすることになっていたが、投げられない真尋はセカンドベースに立ち、要にボールを打ち出す役目は美澄が担当した。


「ワンアウト、一塁。行きます」

「っよし、こい!」


 コツンとバットに当たったボールが、三塁側へ向かって転がっていく。マスクを外した要は軽快なステップでそれを捌いた。投げたボールは寸分の狂いもなく、二塁で待つ真尋のグローブに収まった。ベースに触れて、高く掲げる。


「アウトー! このスピード感だったら、丹羽さんがダブルプレーにしてくれそう!」

「さすがの強肩……いや、鬼肩ですね」

「あはは、なんだよ鬼肩って。ラーメンみてー」

「次、フライ打ち上げたいところなんですが……室内なので無理ですね」

「お前なら、天井スレスレいけんじゃね?」

「いや、万が一壊したら嫌なのでやりません」

「でも、さすが元四番って感じのバットコントロールだな。ノックの打ちわけもすぐできそう」

「もっと酷いかと思ってたんですけどね。意外と身体が覚えてました」


 天井を見上げながら話していると、真尋が駆け寄ってきた。


「え、美澄さん四番だったの?」

「要さんたちの代では五番だったよ。自分らの代では、他にいなかったから四番だっただけで」

「ホームランバッターというよりは、ヒットメーカー的な感じだったな。キャッチャー的には凡退でいいからベンチで休んどけーって思ってたけど」

「え、要さんそんなこと思ってたんですか」


 初耳だった。頑張って打ってたのに。


「思ってたよ。んなインコースに寄って立つなよ~とか色々。真尋、お前もだかんな」

「ハーイ。気をつけマース。それにしても、美澄さんすげーや。マッサージも上手いし、俺の肘のこと気づいたし、聞き上手だし、ノックもできるなんて。最強トレーナーじゃん」

「いや、そんな特筆すべきことはないよ。できることをやってるだけ」

「俺の専属になってよ美澄さん」

「あはは……」

「だーから、ダメだって」

「要さんのケチー」

「ケチで結構。美澄は俺のですー」


 まるで真尋から遠ざけるように、要は美澄を抱き寄せた。






 日没直後の稜線が、ぼんやりと赤く染まっている。夕焼けと入れ替わるように空を覆い尽くした濃紺に、宵の明星がきらりと輝いた。

 ホテルへは歩いて戻った。自転車を押して歩きながら大きく息を吸い込むと、どこからともなく潮の香りがする気がする。この四日間で行った場所といえば、室内練習場とホテルとレストランと病院だけ。南国の海特有のエメラルドグリーンに興味がないと言ったら嘘になる。明日はオフ日なので、少し足を伸ばして海岸沿いを散歩するのもいいかもしれない。


「要さん、あの」

「ん?」


 隣を歩く要の距離が、やけに近い気がする。真尋は「走って帰る!」と言って一足先に戻って行った。要の言った「スタミナお化け」の正しい理由を今になって知った気がした。


「明日、何するか決まってます?」

「んあー、そうだなぁ……飯食って寝るくらいしか決まってない」

「海を見に行こうと思うんですけど、要さんもどうですか?」

「いいね、俺も行く。真尋も誘って気分転換させよ。んで、昼はソーキそば食いにいこーぜ」

「分かりました。お店、探しておきますね」


 チキチキと自転車のチェーンが回る音が響く。大好きな横顔は、至っていつも通りだ。


――ダーメ。コイツ、俺のだから。


 あまりにも自然に放たれた言葉が、ずっと頭の中に残っている。意味を訊ねてみたかった。半分は期待。半分は願い。恋心ってやつは、我ながらひねくれていてめんどくさくて甘酸っぱい。


「俺さ、そろそろ美澄の飯が恋しいかも」

「早くないですか。まだ一週間以上ありますよ?」

「長ぇ~……まあ、やるしかねーんだけどさぁ……あ、美澄さ、夕食の後部屋くる? 最近ずっと二人部屋みたいなもんだったから、一人じゃ広いんだよ」

「え、いいんですか?」

「うん。美澄がよければ」

「行きます。行きたいです」

「じゃ、夕食終わって部屋戻ったら待ってるから。好きなタイミングでおいで」


 甘ったるい眼差しに、大きな手のひら。自分だけに向けられているのが、どうしようもなく嬉しい。

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