ep3-5
翌朝、自転車に乗って要と共に室内練習場へ向かうと、ボールを使った練習をしばらく禁じられた真尋が黙々と走っていた。入り口に二人の姿を捉え、足を止める。
「おはよーございマス!」
「おう、おはよー」
「おはよう真尋くん。肘の調子はどう?」
「投げなきゃ何ともないから! 大丈夫!」
昨日の今日だから落ち込んでいないか心配だったが、返ってきた元気な声に安心した。
どれくらい前から走っていたのだろう。前髪が、汗で額やこめかみに張り付いている。
「真尋ぉ。オーバーワークにはならないようにな」
「うん。気をつける」
ピリピリしていた二人の空気も、元に戻ったようだ。
「美澄、俺ウエイトしてくるから」
「あ、俺もドリンク準備するので、一旦そっち行きます」
練習場を出ていく要を追いかける。トレーニング室でウエイトのメニューを再度確認した後、美澄は近くのコンビニへ向かった。
規則正しい足音が響いている。一瞬で球場の主役になってしまう華やかなピッチング。お立ち台でコロコロ変わる表情。よく通る声。それらだけを見たら想像もつかないような地道な練習が、真尋を支えている。
「真尋くん」
「っ……なに?」
入り口からそんなエースの姿を眺めていた美澄は、壁沿いを大きく回って近くへやってきた真尋に声をかけた。集中していたのだろう。今気づいたとでもいうように肩が跳ね、大きな目に警戒の色を浮かべる。
「これ、差し入れ」
差し出したのはエナジーゼリーだ。さっき、コンビニで買ってきた。
「え、どうして」
「ずっと走ってたら、エネルギー使うでしょ? ドリンクのカロリーだけじゃ全然足りないと思って」
「……ありがと、いただきます」
真尋は近くのベンチに座り、ゼリーの飲み口のキャップを左手で捻った。カチカチと音がする。
「無理に今飲まなくてもいいよ?」
「いや、二時間くらい走ってたし、ちょっと休憩。あんたも座りなよ」
ちう、とゼリーを吸いながら、真尋が隣の一人分座れそうな空間を視線で指した。隣に座れということか。促されるまま腰を下ろせば、満足したように頷いた。
相手は年下だというのに、少し緊張してしまう。まだ真尋のことをよく知らないし、真尋も美澄を知らない。二人の周囲に満ちるのは、お互いの腹を探るような張り詰めた空気だ。
「……怒らないの、練習してて」
沈黙を破ったのは真尋だった。イタズラがバレてしまった子どもみたいに唇をとがらせて、バツが悪そうにこちらの様子をうかがっている。接骨院で働いていた時に、言いつけを守らず無茶をした小学生と同じ表情をしていて、可愛らしかった。
「肘に負担をかけなければ大丈夫だよ。ダメそうだったら止めるから」
「そっか、よかった……」
「じっとしていられないよね。あれだけのピッチング技術、練習しないと不安でしょ?」
「まあ……そうだね、うん。不安、なのかな」
「俺もそうだったなぁ……でも、君と比べるのは失礼か。真尋くんは、俺が手を伸ばしても触れられないくらい高い場所で戦ってるから。どれだけの練習を積んで、ここまで辿りついたのかなって。ちょっと想像できないや」
「……美澄さんには、そういう風に見える?」
「え?」
真尋の問いかけの意味が分からず、聞き返す。いつもと変わらず、じっと美澄を見つめる眼差しに、複雑な感情が滲んでいた。
「……俺、昔っから「才能マン」って呼ばれてた。擦り傷以外の怪我も、今まで一度もしたことなくて」
きっと、二人きりでなければ聞こえない大きさの声だった。
「その身体の強さやしなやかさは天性のものだよね。どれだけ気をつけてケアしていても、怪我しやすい体質っていうのは、たしかにある」
「でも、努力してないわけじゃない」
「もちろん、分かってるよ」
「ただ、そう言うのを言葉にするのはかっこ悪いから黙ってた。どうせ、言ったところで信じちゃもらえない。だって俺、生意気だし」
自覚はあったらしい。それでも自分を貫き通せるのは、純粋に眩しかった。
この世界だけじゃない。いつだって、妬み僻みはついて回る。幸い、美澄には間宮要という圧倒的で絶対的な存在がいたから、よそ見をする余裕なんてなかったけれど。
「俺は、真尋くんのマウンド度胸は努力の賜物だと思うよ。努力しないで何でもできるような人が、朝早くから一人で走ったりはしないでしょ?」
「……ねえ、美澄さん」
「なに?」
「俺、不安だよ。この世界、結果が全てだ。今は俺がエースって言われてるかもしれないけど、代わりなんてたくさんいる。練習して、もっと強くならなくちゃいけないのに、投げられない。それがすごく怖いんだ」
吐露してくれたのは、要にさえ打ち明けられなかった不安だった。
「大丈夫。二週間なんてあっという間だし、シーズン開幕にも十分間に合う」
「……うん」
「それに、責任感の強さも、努力も、全部ひっくるめて真尋くんで、スワンズのエースだろ」
真尋は元々大きな目をさらに丸くして美澄を見つめた。びっくりした猫みたいだなぁ、なんて、呑気なことを考える。
「そうやって言ってくれるの、あんたくらいだ。美澄さん」
「え、要さんも分かってくれるでしょ?」
「いや、あの人はそういうの、言葉にしないから分かんない。伝わってんだろ? って感じ!」
「あー……ちょっと分かる。伝わってはいるんだけど、要さんに褒められると本当に嬉しいんだから、ちゃんと言葉にしてほしいというか。マウンドでは言ってくれるのに」
時期は違えど同じキャッチャーの話だ。真尋の顔がパッと輝き出す。
「そうなんだよ! あの人すげーのに、そういうとこ分かってないよなぁ~。でも、あのキャッチングは誰にも真似できないよな!」
「もしかして俺ってすごい……!? って勘違いしちゃうよね」
「分かる! それで「マウンドでは」手放しで褒めてくれるからさぁ……ずるいよなぁ……」
慕う相手の話題で盛り上がれるのが嬉しいのだろう。初めて声をかけられた時のヒリついた空気が嘘のように明るい笑顔が弾けた。美澄はでも、と声をひそめて続ける。
「俺が高一の時にね、一回喧嘩というか……怒られたことあるんだよ」
「え……詳しく」
真尋が顔を寄せてくる。神妙な面持ちを作ろうとしているのは分かったが、期待に上がってしまう口角を抑えきれていない。
「あれは高校一年生の秋……一から十まで新キャプテンで四番の要さんの言う通りにしてた時期があってね。マウンドでも全部任せきりの状態で、お前はそれでいいのかって、ちゃんと気持ちぶつけて来いよって叱られて……」
「叱られて……?」
「俺、要さんに初めて怒られてパニクって泣いて脱走した」
「あはは、何それぇ。あ、俺はオールスターの時、どーしても苦手な捕手と組まされて、サインに首振りまくって困らせたら、ベンチ裏で要さんにめちゃくちゃ怒られた。ちょー怖かった」
「そ、それはなかなかだね……」
「もうしないよ、反省してる!」
ケラケラと弾むような笑い声が、室内練習場に響いていた。黙々と走り続けていた時のわずかな強張りが解けて、すっきりした表情をしている。
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