ep2-9

 日本選手権、第七戦。ラストシリーズを勝ち抜いたラ・リーグ王者の東京スワンズとレ・リーグ王者のリングス神戸は、連日熱い戦いを繰り広げていた。

 最終戦までもつれ込んだ試合もいよいよ大詰め。九回表、東京スワンズの攻撃。ツーアウト一塁、一点ビハインドと後がない状況で打席に立つのは、四番の日下部だ。一発が出れば逆転。ヒットや四球で繋げば、ラストシリーズから絶好調をキープする要に回る。

 バッテリーがタイムを取り、内野陣がマウンドに集まった。スタンドからは、絶え間ない歓声が聞こえてくる。

 ベンチ裏で、美澄は音のないモニターを見上げた。画面越しに伝わってくる緊張感に手のひらが汗ばむ。ネクストバッターズサークルからバッターボックスを見つめる背中は、俺に回せと叫んでいるようにも見えた。

 


 甲子園球場が歓喜に包まれた。激闘の末、四万七千人のファンが見守る中で二年ぶりの日本一に返り咲いたリングス神戸の選手たちが、グラウンドの中央で監督を胴上げしている。

 最終回の攻撃で、東京スワンズは要まで打席を回すことができなかった。相手の守護神の気迫が四番のスイングを上回り、ファーストのミットに白球が収まった瞬間、要は悔しそうに天を仰いだ。最終スコアは三対四。ツーランとタイムリー。三点とも、要の打点だった。

 しばらくは球場全体を巻き込んだお祭り騒ぎが続くだろう。大歓声に居場所を奪われたスワンズの選手たちが続々とロッカールームに引き上げてくる中、最後まで攻守の要としてチームを引っ張っていた先輩捕手だけが戻ってこなかった。選手たちに聞いても知らないと言うし、一体どうしたのだろうか。

 どこかを痛めたか、急に体調を悪くして動けなくなったのかもしれない。心配になって捜索を開始したが、廊下はもちろん、シャワールームにもトイレにも姿は見当たらなかった。残るはベンチだけだ。他にいなければここだと分かってはいたが、本当にいるのだろうか。半信半疑で覗き見た美澄の目に映ったのは、勝者の胴上げを目に焼き付ける広い背中だった。

 要さん、汗が冷えますよ。もう戻りましょう。声をかけようと息を吸い、肩を叩こうと持ち上げた左手が、行き先を失くして宙をさまよった。茫然と立ち尽くす要のこぶしが、悔しさに震えていたから。

 美澄から見た要は、相手チームを含め、今日グラウンドに立っていた選手の誰よりも活躍していた。それでも、勝てなければ無かったことになる。どれだけいいピッチングができた試合でも、負けたら意味がないのと同じだ。

 少しの間、彼を一人にするべきだと思った。美澄は何も見ていない。だから、知らない。それが最適解だった。

 要の心は今、美澄が唯一踏み込めない場所にいる。手を伸ばしても、触れられない。





「ごめんな美澄。お待たせ」

「いえ。お疲れさまでした」

「ん。よーし、ホテル戻るかぁ」


 ベンチでたしかに滲んでいた悔しさは、彼がロッカールームから出てきた時にはもう微塵も感じ取れなかった。温厚で、ヘラヘラしていて、それでも憧れずにはいられなかった、いつも通りの間宮要がそこにいた。


「すごい試合でしたね」

「そーだな。でも、四点は取られすぎた。ピッチャーに悪いことしたよ。もっと組み立てようはあった」


 口調が軽いから、事情を知らない人から見たら日本一を決める戦いで敗れた直後だなんて思わないだろう。悔しい、悲しい、痛い、しんどい。そういった心に影を落とす感情を、要は誰よりも上手く隠せる。


「荷物、持ちます」

「いや、今日はいいや。もうこの先試合ないし」

「でも」

「持たせてよ。今日くらいは。な?」


 ぬっと伸びてきた大きな手が、ぽんぽんと頭を撫でた。まだ試合の熱が残っている手のひらに、美澄はきゅっと眉を寄せた。悔しくないはずがないのだ。たった一人、ベンチに残ってこぶしを震わせているような人が。


「要さん」

「ん?」

「あの、ピッチャーだった俺からの意見なんですが」

「うん」

「相手にツーランを打たれたあの球、逆球でしたよね」

「……なに、慰めてくれてんの?」

「はい。慰めてます」

「あはは、そんな落ち込んでるように見えた? 情ねーなぁ、俺」


 むしろ逆だ。全然落ち込んでいるように見えないから心配なのだ。誰よりも責任感の強い要が、平気そうに振る舞うから。ベンチであんな背中を見なかったら、美澄だって気づけなかった。

 通用口のドアを開けると、そこにはたくさんの人がいた。東京スワンズの応援ユニフォームを纏った大勢のファンがベルトパーテーションの向こう側に並び、姿を見せた要に温かい拍手の雨を降らせる。お疲れさま。ナイスプレー。聞こえてくる労いの言葉に、要は一瞬だけ戸惑いの色を見せたが、すぐに背すじを伸ばして立ち止まった。美澄は数歩下がり、その後ろ姿を見守る。


「皆さんの温かい応援に、日本一という結果で応えられず申し訳ありませんでした。来シーズンこそ、日本一を奪還できるよう励んでいきます。本当にありがとうございました!」


 深く頭を下げた要に、拍手が一層大きくなった。顔を上げる。一年間背負い続けてきた重圧から、ほんの少しだけ解放された瞬間だった。


「さ、行こっか」

「はい」


 ふにゃりと目元をゆるめて再び歩き出した要の半歩後ろを行く。拍手は止まない。自分に向けてではないと分かっているのに、誇らしい気持ちになる。世界中に、要のことを自慢してまわりたい。カッコよくて、努力家で、ヒーローで、みんなに愛され応援される先輩捕手を、世界中の人に知ってほしかった。






「いやー、惜しかったなぁ」

「ああ、すごい試合だった」


 見送りのファンの列が途切れる、少し前のことだ。人混みの後方で会話するおじさん二人組の声が、やけに鮮明に聞こえてきた。


「間宮はすごい選手なんだけどな。負けたのに全然悔しそうじゃないのがなぁ」

「あー、分かる。若いからかぁ? ハングリー精神が足りないというか、なんというか」


 あの、聞こえてますけど。視線を送ってみたが、会話に夢中で要が近くを通りかかっていることにも気づいてなさそうだ。美澄にも届いているのだから、きっと要にも聞こえてしまっているだろう。

 抱えた悔しさも、秘めているハングリー精神の強さも、本人にしか分からない。一つだけ言える確かなことは、要は負けて落ち込んでいるってことだ。常人にはコントロールできないような激情を強い精神力で押さえつけ、悟られないように強がって、ようやくまっすぐ立てているのに。敗戦が心に響いていないと勝手に決めつけられるのが、美澄はどうしようもなく悔しかった。東京スワンズが日本一を逃したことよりも、ずっとずっと悔しかった。

 要はすごい選手だし、性格上、飄々としているように見えるかもしれないけれど、負けて何も思わないわけじゃない。ハングリー精神が足りない人が、こんな大舞台で活躍できるわけがない。今すぐ駆け寄って口をふさいで訂正して復唱させてやりたかったが、そんな騒ぎを起こしたら美澄の首が飛ぶだろう。ああもう、もどかしい。


「あれ、美澄?」

「っ、すみません」


 いつの間にか、前を歩く背中との距離があいてしまっていた。足を止めて振り返った要に呼ばれ、スピードを上げる。隣に並ぶと、じっと目を覗き込んできた。少しカサついた指先が、頬に触れる。


「んな泣きそうな顔、しなくていいよ」

「……でも」

「ありがとな。でも大丈夫。ああいうこと言われるのは慣れてるから」

「っ」


 ほら、やっぱり聞こえていた。下唇を噛み締め、息を飲む。


「キャッチャーは気取られちゃいけないんだから。上手く隠せてんなら光栄だろ。お前が分かってくれるだけでいい。俺はそれ以上の贅沢なんて望まないよ」


 いつもより低く、甘やかな声音が鼓膜を震わせると、じわりと視界が滲んだ。悔しい。スワンズの敗戦も、要を分かってもらえないことも、全部。


「……うぅ~……」

「え、美澄、うそ」

「くやしいぃ……」


 涙のフィルターでぐにゃぐにゃに歪んだ要が、ああもう泣くなってぇ、と情けない声をあげた。

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