ep3-3

 三日目の室内練習場は、昨日より賑やかだった。ノースロー調整と宣言してほぼ一日走りに行ってしまった真尋が今日はいるのもあるが、報道陣の数も増えた。


「なんか、人多くない?」

「真尋がラ・リーグ最多勝取ったからじゃね?」

「要さんのキャリアハイっしょ。ベストナインにプラチナグローブ賞」

「いやー、それほどでも」 

「謙遜しなよ。いや、すごいんだけどさ」


 背中を合わせてストレッチをしながら、日本の未来を担うバッテリーはテンポの良い会話を繰り広げる。言っている内容のレベルが高い。最多勝にベストナイン。プロの世界で、だ。一般人の美澄からしてみれば、見上げすぎてひっくり返りそうな高さである。

 ただのキャッチボールも、球団の顔とも言える二人が行なうことで付加価値がつく。一球一球丁寧に、ゆったりとしたフォームから繰り出されるボールには伸びとキレがあって、圧倒された。

 一度休憩を挟んで、ブルペンへ移動する。ボールケースを抱えて出口を目指すと、報道陣も美澄の後に続いた。


「みんな、あんまり期待しないでよね。オフシーズンだから全然球速出ないし。指先の感覚重視で、二十球で切り上げる」

「出力は七割未満な。力むなよ、真尋ぉ」

「ん。じゃ、まずはストレートから」


 シーズン中はほとんど披露しないワインドアップから、大きく踏み出した左足に体重をのせて腕を振る。美澄とは比べるのも失礼なくらいの強烈なバックスピンがかかったボールがゾーン低めいっぱいに決まり、気持ちのいい捕球音が響き渡る。見守っていたメディア関係者たちから拍手が起きた。


「ナイスボール!」

「ん」


 構えた場所から少しも動かさなかったコントロールのよさを、要が強めの返球で称えた。


「見たか、ミット全く動かさなかったぞ」

「さすがは常勝スワンズの若きエース」

「この時期なのに、余裕で百四十後半は出てるだろ。来シーズンも期待できるな、こりゃ」

「間宮要や丹羽夕晴もすごいけど、若槻真尋もやっぱり天才だ。ラ・リーグの王者はスワンズで決まりだな」

「……?」


 要は高めにミットを構えて次のボールを待っている。聞こえてくる声は、真尋への称賛ばかりだ。そんな中で美澄は一人、首を傾げる。嫉妬でも羨望でもない。何かがおかしい。

 次の一球はセットポジションからのストレートだった。指先を離れたボールは要求された場所に吸い込まれていく。ドパァン、と腹に響く爽快な音がした。


「仕上がってんなぁ、真尋ぉ」

「ん。来年こそは日本一だから」

「まあ、日本選手権でもお前は負けなしだったもんな。心配してねーよ。次、スライダーいくか」

「っ、ちょっと待って!」


 要が構えるよりも早く、今まで静観していた美澄が突然声をあげた。要や真尋だけでなく、ブルペンにいたメディア関係者全員の視線が集まる。


「……なに? 急に」


 真尋の表情から温度が消える。投球練習を遮られたのだ、無理もない。が、引くつもりはなかった。

 エースの鋭い視線や声に怯むことなく、美澄は傾斜のあるマウンドへ向かった。ぴんと張り詰めた空気が肌を刺す。静まり返った空間に、美澄の足音が大きく響いた。


「肘、おかしいよね」

「っ」


 確証はなかった。けれど、胸騒ぎがしたのだ。

 身体の横に下ろされていた右手を一瞥してから、気の強い双眸を見つめた。逸らすものか。


「見せて」

「……は?」

「要さん、少し中断でお願いします」

「どした?」


 美澄は真尋の左腕を引いて、壁際に設置されたベンチ座らせる。同時に、要が神妙な面持ちで駆け寄ってきた。美澄が練習中に口を出したことなどないし、相性の良し悪しで言えば悪いほうの真尋に声をかけて中断させたのだ。

 警戒の色を最前面に押し出した瞳が美澄を睨めあげた。美澄はそれを意に介さず、そっと真尋の右手に触れたが、拒絶されて身体の後ろに隠されてしまう。


「ね、ホント、何?」

「肘を庇ってるように見えたから。今回の合同自主トレのトレーナーとして、このまま見過ごすわけにはいかない」

「……は? 真尋。お前」


 要の驚きと困惑に満ちた眼差しから逃れるように、真尋はふいっと顔をそむけた。図星か。視線の高さを合わせようとしゃがむと、自然と見上げる形になる。

 視界の隅で、要がメディア関係者を全員ブルペンの外へ出すのが見えた。完全に三人だけの空間になってから、真尋がぽそりと呟く。


「…………大げさだって」

「真尋くん」

「……」

「痛みが出てからじゃ遅いんだ。正直に教えてほしい」

「あんたに何が分かるんだよ」

「君が抱える重圧の大きさは分からないよ。でも、俺みたいになってからじゃ遅いんだ」


 美澄はそう言って、自らが着ていたアンダーシャツの左袖を捲りあげた。


「え、あんた、それ……」


 肘に残る傷跡をその目に映して、真尋が息を飲んだ。消したい記憶だけれど、きっと一生消えない傷だ。こんな思いを、もう誰にもしてほしくない。


「高校二年の冬に覚えた違和感を、そのままにした結果だよ。俺も最初は痛くなかったんだ。でも、違和感は徐々に痛みに変わっていった。お前が抑えれば勝てるって言われたら、痛いですなんて言えなくて……自分が頑張らなくちゃって全部背負った結果、俺の肘は壊れた。高校三年の春にね」

「……っ、そんな」

「だから、真尋くん。君の為にも、チームの為にも、教えてほしい」


 気の強い双眸が、不安と迷いで揺れていた。エースとしてのプライドと覚悟が、弱い部分をさらけ出すのを怖がっている。立場の重さは比べ物にならなくても、美澄だって同じだった。


 静かに言葉を待っていた。真尋は口を開いて何かを言おうとしてはためらい、視線を落とし、やがて、消え入りそうな声で話し始めた。


「……に、日本選手権の時から、おかしくて」

「うん」


 右肘を摩る左手が震えている。


「でも、俺はエースだから……チームを引っ張らなくちゃって思って、言えなかった」


 ピンチの場面だって胸を張っているようなエースのこんなに弱々しい姿を、美澄は初めて目の当たりにした。普段の傍若無人な態度はどこへやら。随分としおらしくなってしまった真尋は、縋るような目を美澄へ向ける。


「でも、痛くないから大丈夫だって思ったのはホントなんだ。それに、来年こそは日本一にならなくちゃいけないのに……こんな所で、立ち止まってなんかいられない」


 我が強く、勝気で、気難しいと言われる若きエースは、一生懸命に、誠実に言葉を探して紡いでいく。要の言うとおりだと思った。強すぎるくらいの責任感も、思いの強さも、あの頃の美澄とよく似ている。


「真尋」

「……はい」

「何で言わねーんだよ。エースだからって、意地張るとこじゃないだろ」

「っ」


 険を帯びた口調が真尋を責めた。あまり聞かない低い声に、真尋は何も言えずにキュッとこぶしを握りしめて要を見上げた。


「壊れてからじゃ、失くしてからじゃ遅いんだよ。戻ってこねーの。エースなんだから、それくらい分かれよ……」


 普段が明るく温厚な人が怒ると、本当に怖いのだ。甘さのない声や眼差しに、真尋の大きな眼がじわりと潤んだ。

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