ep1-11

 二人で作ったミートソースパスタに舌鼓をうっていると、普段観ていないドラマが始まった。


「変えてもいいですか? これ、観たことなくて」

「ん。いーよ」


 リモコンに手を伸ばす。ランダムにボタンを押していくと、

「青いボタン押してみ?」と要が言った。音量調整の上にある青いボタンのことだ。切り替わった画面に映し出されたのは、今日見たのと同じグラウンド。試合前練習の映像だろうか。明るい声と不規則に繰り返される打撃音が響いて聞こえた。


――本日のテーマは「最近食べて美味しかったもの」です。早速インタビューしていきましょう!


 元気よく切り出したのは、爽やかな笑みを湛える笠井アナウンサーだ。いつも家で視聴しているニュースのスポーツコーナーを担当している人だが、こういった企画は知らない。


「東部テレビの、スワンズ専用チャンネル。地上波ではやってないやつだけど、笠井さんは分かる?」

「分かります。いつも「今日のスーパープレー集」で大興奮してる人ですよね」

「あはは、覚え方に癖あるなぁ。東部テレビと東京スワンズはグループ会社だから、よく特集もされるし取材にもくるんだよ」


 視線を画面へ戻すと、笠井アナが通りかかった選手に本日のテーマについて質問をしていた。お互い慣れているのだろう。選手たちも楽しそうに受け答えをしている。


――あ、間宮選手おはようございます。

――おはざーっす。今日のテーマなんすか?

――最近食べて美味しかったものです。間宮選手は何かありますか?

――そーっすねぇ……色々あって悩むんですけど、一つだけ選ぶならハンバーグオムライス……いや、だし巻きも美味かったんだよなぁ……。


 どちらも自分の作ったやつだなぁ、と美澄はのんきに考えた。アナウンサーにも負けない甘いマスクが眩しい天才捕手は今、美澄の向かいで幸せそうにミートソースパスタを頬張っている。ギャップが凄まじい。


「だし巻き、気に入ってもらえてよかったです」

「母さんが作ってくれたやつとそっくりだったんだよ、味が。あの時、一人ですげー感動してた」


 三切れ中二切れを最後まで残してあったから、あまり好みの味ではなかったのかと思っていた。好みのものは最後まで取っておくタイプか。


「明日の朝も作りますね」

「マジ? やった。楽しみ」


 手を伸ばせば触れられるほうの要が喜んでいるうちに、笑顔輝くみんなのヒーローである要のインタビューが終わったようだ。笠井アナの立つ背後の景色が少し変わった。


――あ、笠井さんだ。はざっす。


 名前のテロップが表示された。若槻真尋。東京スワンズの若きエースだ。マウンドに立つ姿に抱いた気が強そう、という印象は、立ち止まって会釈した画面越しの真尋を見ても変わらなかった。


――若槻選手! おはようございます。インタビューいいですか? 今日のテーマは、最近食べて美味しかったもの、なんですけど……。

――餅! 投げる日は絶対食べるくらい好き。


「こいつ、うちのエースの真尋」


 要は視線を画面に向けたまま言った。


「知ってます。久々に観た試合は彼が先発でしたし、それから何試合も観てますから。スワンズはすごい選手が揃ってますよね」


 試合を観るようになってから東京スワンズに所属する選手について調べてみると、日本代表に選ばれている選手が多くて驚いた。要はもちろん、今テレビで好物の餅について語る真尋もそうだ。


「まぁな。じゃあ、他の選手も分かる?」

「分かります。えっと、今日助けていただいた丹羽夕晴選手がショートで、セカンドが矢野爽選手」

「そ。日本一の二遊間。丹羽さんは昨シーズンの首位打者。あの人は本物の天才だと思う。とりあえずヤバい。で、爽さんは育成出身だけど丹羽さんの守備についていけるからヤバい」

「四番でファーストの日下部麗司選手、ライトが小嶺碧選手」

「麗司さんはうちの不動の四番な。打球の飛距離がとにかくヤバくて、碧は俺と同い年のヤツ。あまり目立たないけど守備もバッティングも堅実で実はヤバい」

「……ふふ、要先輩、ヤバいしか言ってないですよ」

「俺の語彙力に期待しちゃダメだ。でも、みんないい人でさ。うちのチームって、なんて言ったらいいかな……家族みたいなんだよ。俺、一人だから嬉しくて」


 美澄が知る高校生の要よりも、今のチームメイトを語る要は柔らかな表情をしていた。当たり前だ。三年間という高校生活の中で、一学年下の美澄が共にあれたのはたったの一年半程度。プロ入りしてからの六年とは、時間の長さも重みも全然違う。

 手を伸ばせば届くし、まだ抱きしめられた時の温もりが鮮明に残っている。それでも、「家族(チームメイト)」を思い浮かべて穏やかに目を細める要が、遠い。







「何日でも泊まってっていいんだけどなぁ」


 そうもいかないのが社会人である。連休なので今日は休日でも明日は仕事なので、元から今日の試合は観戦せずに帰る予定だった。今は要のドーム出勤に合わせて、最寄り駅まで送ってもらっている最中だ。

 あまりにも寂しそうな声に、美澄は運転席を見た。そうですね、でも仕事なので……としおらしく返すよりも早く、

「でも、そうはいかないよなぁ」と要が呟いた。一人で結論が出たようだ。

 窓から見える空が綺麗だ。のんびりと流れる雲を目で追いかけながら、時間が止まってしまえばいいと思った。そうすれば、要とずっと一緒にいられるのに。近頃はそんな自分の思考回路にも、驚かなくなってきている。


「でも、それは困るか……」

「ん? どした?」

「あ、ひとりごとです。このまま時間が止まったらずっと要先輩と一緒にいられるけど、それだと要先輩が野球できなくて、嫌だなって」


 車は大通りを直進する。前方の信号が赤になり、車が速度を落とした。


「うん? そんなこと考えてたの?」

「だって、楽しかったんですもん」


 美澄だって、できることなら帰りたくないのだ。それなのに、要は目をまんまるにして驚いている。


「なんですか、その顔」

「俺ばっか浮かれてんのかと思ってた。お前が試合観にきてくれて、家にも泊まりにきてくれたから」

「そんなことないです。俺だって浮かれてましたよ。ルンルンでしたけど」

「いや、美澄がルンルンしてるとこ見たことねーよ」

「あまり顔に出ないだけです。ねえ、要先輩。またきてもいいですか?」

「当たり前ですよ。いつでもきてください」

「なぜ、敬語……?」


 信号が奥から順番に青に変わった。要がゆっくりとアクセルを踏み込み、景色が流れ出す。

 あと二つ先の交差点を左折したら、駅はもう目の前だ。もう少し、もう少しだけ。願えば願うほど、一秒が短くなるのは何故だろう。鳴り始めたウインカー音が、この幸せな時間の終わりを告げていた。

 車の大きさを考慮して、一般車昇降場ではなく近くのパーキングエリアで降りることにした。後部座席に置いた荷物を取ろうと手を伸ばす。


「要先輩」

「んー?」

「見すぎです。照れるんですが」

「うん」

「俺の顔なんて見て楽しいです?」

「楽しいよ。なあ、美澄」

「はい?」


 リュックを取って前を向いた刹那、ちゅ、と小さく響いたリップ音。頬に触れた柔らかさに目を見開くと、大きな手のひらが頭を撫でた。髪を指で梳いて、そおっと輪郭をなぞる。それはまるで、宝物に触れるような繊細な手つきだった。はにかむ顔を直視できない。だって、キスをされたのも、そんな撫で方をされたのも、初めてだったから。


「またな」

「っ……今日もテレビで試合観ます、頑張ってください」

「おう。じゃ、気をつけてな」

「要先輩こそ」


 車を降りて、深く一礼する。たった今、美澄の頬にキスをした先輩捕手のSUVのテールランプが見えなくなるまで見送って、その場にへなへなとしゃがみこんだ。

 きっと、要にとっては挨拶代わりで、深い意味なんてないのだろう。だからこそ困ってしまった。


「うわぁ~……」


 胸をきゅーっと締め付けるような切なさに、両手で顔をおおってうつむく。柔らかくて、温かくて、その感触は全然嫌なんかじゃなくて。なんだ、これ。俺は知らない。

 心の底に芽生えた、甘さくてほろ苦い気持ち。どこか憧れにも似たそれは、美澄の知らない感情だった。

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