ep1-12

 ふわふわと落ち着かない心を抱えたまま、電車に乗って帰宅する。鍵を開けて玄関に入れば、静寂が広がっていた。

 二人でいるよりも、一人のほうが静かなのは当たり前。要は元々よく喋るほうだし、美澄も要が相手だと自然と口数が増えた。足音がよく聞こえる。自分の呼吸の音も。寂しさを覚えるのは、仕方のないことだろう。

 美澄はリビングに荷物を置き、寝室へ向かった。クローゼットの折戸を開けて右奥から引っ張り出したのは、合成皮革製のグラブケース。封印したはずのそれを抱えて、大きく息を吐いた。

 球場の空気を肌で感じて、攻守に輝く憧れの人をこの目で見て、胸が熱くなった。そして羨ましくなった。マウンドに立ち、要が構えるミットめがけてボールを投げ込んでいたピッチャーが。ボールがミットに吸い込まれた時に響く、高く乾いた捕球音。要の出す音が世界で一番好きだと改めて思った。

 少しでも明るい場所がいい。リビングの窓ぎわにしゃがみこみ、高校卒業と共に閉じ込めた思い出を取り出した。グローブと、ボール。要との青春が全て詰まったそれらは、美澄の心拍数を上げ、手のひらに嫌な汗を滲ませる。

 あの頃のまま手入れも何もしていないグローブはすっかり色褪せていたが、カビなどは生えていなさそうだった。ボールもボロボロで汚れているけれど、これは美澄の投げすぎによるものだ。そっとグローブを右手にはめ、左手でボールを握る。生命線ともいえるストレートの握り。指先の感覚はまだ鮮明に残っているのに、手が震えて投げられそうもなかった。ボールを握るだけで、だ。情けない。要は逃げじゃないと、頑張った証だと言ってくれたけれど、野球から目を背けたこともみんなの期待を裏切ったことも事実だ。少しでもスポーツをしている学生の力になりたいだなんて、大層な大義名分を掲げてはみたものの、結局は罪滅ぼしなのだ。

 要と、キャッチボールがしたかった。昔みたいに、なんて贅沢は言わない。たった一球だけでもいい。彼のミットへ向けてボールを投げたかった。傷は完全には癒えていない。痛みをともなうと分かっていながらも、野球と向き合う勇気が出てきたのに。ボールを投げるのさえ難しいのは辛かった。

 野球が好きだった――否、野球が好きだ。だから余計に悔しくて、胸が痛い。

 あの夏の空の色も、マウンド上での緊張感も、土の匂いも、ボールの縫い目に触れた指先の感触も全部、美澄の中に残っている。一つも手放すつもりなんてなかった。

 窓越しに夏の日差しを浴びながら、久しぶりにグローブの手入れをした。さすがにもう実践では使えなさそうだけれど、キャッチボールくらいならできるだろう。もちろん、美澄自身がボールを投げられればの話だが。

 視界がオレンジ色に変わって、ふと時計を見上げた。随分と長い時間が経過していたらしい。テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、電源ボタンを押す。夕焼けに似合わない彩度で輝き出したテレビの画面には、昨晩「餅が好き」と語っていた気の強そうなかんばせが映っていた。

 グローブとボールを抱えたまま試合を観た。もちろん要がスタメンマスクをかぶり、投げるのはエースの若槻真尋。スピードも出るが、彼のストロングポイントはコントロールなのだろう。遊び球をほとんど使わず、テンポよく投げてリズムを作る姿が頼もしい。

 要の二試合連続となる本塁打も出て、スワンズは快勝した。ああ、そういえば、昼食を食べていない。夕食を作るのも忘れていた。あまり食欲はなかったけれど軽く何か作ろうと立ち上がりかけて、テレビから聞こえた名前に再び腰をおろした。本塁打で決勝点をあげた要と、完投した真尋のヒーローインタビューが始まった。


――本日のヒーローインタビューは、決勝点をあげた間宮選手と、完投勝利で今シーズン九勝目をあげた若槻選手です。お疲れさまでした。ナイスゲームでしたね。


 熱のこもった大歓声を、お立ち台の二人は嬉しそうに受け止めた。歓声のボリュームが少し落ち着いてから、要にマイクが向けられる。


――ありがとうございました。真尋が頑張って投げてたので、点数を取れてよかったです。

――たしかに、今日もナイスピッチングでしたね、若槻選手。


 続いてマイクを向けられたエースピッチャーは、要にピッタリと肩を寄せてはにかむ。何故だろう。面白くない。


――要さんのリードを信じて投げました。それに、俺の為にホームランまで打ってくれましたし……愛ですね、愛。今日勝てたのは、要さんのおかげです。

――だそうです。間宮選手、いかがでしょう?

――まあ、俺のおかげだと思います。愛……かどうかは知りませんけど。エースにそう言ってもらえるのは嬉しいですね。


 観客席に笑いが起きた。インタビュアーの声もかすかに震えている。二人の距離は近いままだ。


――間宮選手は今シーズン絶好調ですからね。二試合連続ホームラン。お見事でした。

――次の試合も打てるように頑張ります。応援よろしくお願いします。

――若槻選手も、一言お願いします。

――次も要さんが打ってくれると思います。応援、よろしくお願いします!


 真尋の目は、強い照明を跳ね返してキラキラと輝いている。完投の疲れを見せない充実感溢れる表情からは、要を心から慕っているのが伝わってきた。

 たしかに、要は昔からリードだけではなく、投手の気持ちまで上向かせるのが上手なキャッチャーだった。エースと正捕手だから、球団も何かとコンビを組ませて売り出しているし、実際に人気の二人だ。分かってはいたが、今は受けるダメージが大きい。

 せっかく要が楽しい時間をくれたのに。一人で落ち込んで、馬鹿みたいだ。自分を責めるほど思考は泥濘にはまって動けなくなる。どろどろと煮詰まった感情が、腹の底で渦巻いていた。





 夕食を作ろうと思っていた真面目な自分は、奥底に引っ込んでしまった。試合後のニュース番組をぼんやりと眺めていると、残ったいじけ虫がもう寝てしまえと耳もとで囁く。ずっと傍らに置いていたグローブとボールをケースにしまってクローゼットに戻そうと立ち上がりかけ、着信音に動きを止めた。


「要先輩……」


 沈んだ心がふわりとほんの少しだけ浮上した。単純な心のつくりをしていて助かった。憧れには、電話越しだろうと沈んだ声を聞かせたくない。


「はい、雪平です」

『もしもーし、俺っす。今、電話大丈夫?』

「大丈夫ですよ。あとはもう寝るだけなので」

『そっか。な、美澄、試合観た? 俺のホームランに盗塁阻止!』

「観ましたよ。ヒーローインタビューまで全部」

『マジ? 美澄、観てくれたかな~って考えてたら、声聞きたくなっちゃってさぁ』

「そうだったんですね。今日も観に行けばよかったなぁ」

『言ってくれれば、いつでもチケット用意するから』

「毎回は申し訳ないですよ。チケット代、払わせてください」

『ダーメ。カッコつけさせてよ、これくらい』

「カッコつけなくたってカッコいいのに」

『なに、嬉しいこと言ってくれるじゃん』

「……嬉しいですか?」


 ヒーローインタビューで、現相棒に言われた言葉とどっちが嬉しいですか。口から飛び出しそうになった棘だらけの言葉を慌てて飲み込んだ。何てことを言おうとしてたんだ、俺は。


『美澄、なんか元気ない?』

「……え」

『今朝は元気だったよな? 帰ってから、なんかあった?』

「あ、えっと、その……」

『話してみ? 俺、もう家だから、周りに誰もいないし。な?』

「……困りませんか。俺に相談されても」

『全然。俺キャッチャーだから、相談されるとむしろ燃えんのよ』


 態度が悪いとか、ふてくされていると言われても仕方ない返答をしたのに、要の声はどこまでもやさしかった。甘えたくなってしまう。足元へ目を落とし、ぽつりと呟いた。


「今日、家に帰ってから、久しぶりにグローブとボールを出してみたんです」

『おお、いいじゃん。また一歩前進だ』

「でも、ボールを握ってみたら……手が震えて、全然ダメで。情けないですよね、ホント……」


 自嘲が口角を持ち上げる。困らせてしまっただろう。こんな弱い後輩なんて相手にしていられないと、軽蔑されてしまったかもしれない。一度沈んだ気持ちはなかなか上向いてくれずに、悪いほうへと誘われていく。


『情けなくない。つーか、俺嬉しいんだけど』

「嬉しい?」

『お前がまた野球と向き合ってくれることが。慌てなくていいんだよ。ゆっくり、一歩ずつ前に進めればいいじゃん』


 要の言葉は、ささくれた心にすっと染み込んだ。でも、それでいいんだと自らを納得させることはできなかった。


「お、俺は」

『うん』

「要先輩と、キャッチボールがしたいのに……」

『っ』


 勇気を出して振り絞った声は、小さくて掠れていた。電話だからこそ口にできた小さな願い。要が子供みたいに笑ったのが、気配で分かった。


『分かった。次のオフ、グローブ持ってそっち行くから! 俺のオフの翌日って、接骨院休みだよな?』

「休みです」

『朝ちょっとだけ早めに起きて、近くの公園行こーぜ』

「でも俺、投げられないですよ……?」


 ボールを握るのがやっとなのだから。美澄が心苦しそうに声のトーンを落とした。


『大丈夫。投げられても投げられなくても、一緒にキャッチボールしよ』

「投げられないのにキャッチボールとは……」

『それはその時に考える!』

「……ふふ、なんですか、それ」

『お、やっと笑ったな』

「……すみません、ありがとうございます」

『ちょっとは元気出た?』

「出ました。次の休みが楽しみです」


 楽しみと同じくらい、不安はあったけれど。要と一緒なら、大丈夫だと思えた。

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