ep2-11
おそらく、ささやかな乾杯をしてから三十分も経っていない。隣に座って三パーセントの低アルコールチューハイを飲んでいた先輩捕手は、すっかり赤い顔をしてテーブルに頬杖をついていた。ジュースみたいなものじゃないのか。そう思う美澄は酒には強いほうだった。
先ほど電源を落としたタブレットは、再び日本選手権最終戦の映像を流している。酒の肴にするには随分と苦すぎると思うし、実際、要の目も据わっている。
「……美澄」
「はい?」
「勝てなかった」
「……はい。残念でしたね。でも、いい試合でしたよ」
「俺、大事な試合は、負けてばっかりだなぁ。甲子園の決勝も、負けたじゃん」
「……」
「ごめんなぁ、お前が頑張って投げてくれたのに、勝たせてやれなかった。四番なのに打てなかった」
「それは、俺だってクリーンアップを打ってたんだし、点を取られたなら自分で取り返すべきだったんです。要さんだけの所為じゃない」
「んー……でも、ほんと、ダメなキャプテンだったから……」
「ダメなんかじゃないですよ。俺、要さんにすごく憧れてたんですから」
どうしよう。すごく酔っている。こんなに下戸だったとは思わなかった。いつにも増してふわふわと甘ったるい口調が並べるのは、いつもは頑丈な「理想の間宮要」のベールに隠れている、ネガティブな胸の内だった。
「なあ、美澄」
「はい」
深い色をした虹彩が、ゆらゆらと揺れている。今日は元々話を聞くつもりで部屋まで訪れ、盃を交わしたのだ。一つも取りこぼすものかと目を合わせた。
「うちの母さんな、女手一つで俺のこと育てて、高校まで好きなように野球させてくれたんだ」
私立で寮生活。特待生制度があるにせよ、費用はかかる。
「プロで活躍して、一日でも早く母さんに楽させてやりたかった。ドラフトでスワンズにくじ引いてもらって、さあこれから恩返しだって思ってたら、死んじゃってさ。これからどうしたらいいのか、本当に分からなくなった。葬式ん時に気の毒がってくる親戚の人たち、会ったこともないんだよ。俺が小さい頃に父さんが死んで、母さんが一人で頑張ってたのに、誰も手ぇ差し伸べてくれなかった。それを幼心にも理解してたから、母さんが死んで悲しむよりも「プロ野球選手の間宮要」ばかり見てくる大人たちに囲まれて、俺、だーれも信じられなくなった」
色濃く濡れるまつ毛が、瞬きのたびに震える。要は美澄から視線を外すと、自嘲の笑みを口の端に浮かべて、流れ続ける試合映像をその目に映した。
つらかったですね? 頑張りましたね? 浮かんできた自分の言葉の軽薄さに腹が立つ。全てをアルコールと共に飲み込んだ。
「後悔しかしてないんだ。でも、後悔しても独りぼっちだから。ああ、もし母さんが生きてても、恩返しできてないかも。大切なところで、いつも勝ちきれないんだもんな」
「そんなことないです。お母さんも、今の要さんの活躍を見て喜んでると思いますよ」
「でも、今日だって俺のリードで負けた。逆球だろうが結果論だ。俺がリードした試合で打たれて負けた」
「……」
「キャッチャーは楽しいし、生まれ変わってもキャッチャーしかやらないと思うけど、時々重い時がある。みんなが天才だなんだって言ってくれるほど、俺は頼れる選手じゃねーよ……」
要はそう言って、テーブルに伏せてしまった。腕が缶に触れそうだったので、そっと遠ざける。半分も減っていなかった。
想像していたより、ずっとたくさん抱え込んでいたのだ。その全てを胸に押し込めて、要は独りでプロという厳しい世界で戦っていた。
美澄は要に救われた。もう投げるのが怖くないし、変化球だって投げられる。野球が好きだと、隠さずに胸を張って言えるようになった。要は恩人だ。高校の時、右も左も分からなかった美澄を導いてくれた。六年の時を経て再会してからは、暗闇から引っ張りあげて光を教えてくれた。
自分には、何ができるだろう。美澄は悩んだ。カァン、と軽やかな打撃音がタブレットから響いた。決勝点となるツーランを打たれたシーンだ。要は少しだけ顔をあげて、痛そうな顔をする。
美澄はそっと、要の手に己の手を重ねた。何万回とバットを振り、何度もマメを潰して、分厚く硬くなった手を握る。美澄も多少酔いが回っているのか、気恥ずかしさは少しもなかった。
「要さんは、あなた自身が思っているよりもずっとすごい選手ですよ」
「……美澄はやさしいなぁ」
「やさしさで言ってるわけじゃない。本気で思ってるんです。それに、独りぼっちじゃない」
「え……?」
「俺がいますから。要さんのこれからの野球人生を、一番近くで見るんです。一緒に歩んでいくんですよ。だから、独りぼっちになんかさせない」
指を絡めて、ぎゅっと力を込めた。離れてくれと言われるまでは、意地でも離すものかと。
「はは……すげー心強いな」
「でしょう? それにチームメイトだっているじゃないですか。要さんが言ったんですよ、家族みたいだって」
「ん。言ったわ」
「みんながいますから。全部というのは難しいかもしれないですが、背負ってるもの、少しでも分けてください」
「……やっぱりお前はやさしいよ、美澄」
熱を帯び、甘さを含んだ声だった。泣いているのかと思ったが、二つの瞳は潤んでこそいるものの、溢れてはいない。
見つめ合っていた時間は、ほんの数秒だったかもしれないし数分だったかもしれない。視線がぶつかり、複雑に絡み合って、二人はそれが自然の理とでもいうように、引き寄せられた。
唇が重なる。頬や鼻先に触れられた時には分からなかった生々しい柔らかさを脳みそが理解する間もなく、大きな手のひらが後頭部をそっと押さえつけてきた。どうするのが正解か分からずに、要の服をきゅっと掴んでみる。美澄とは対照的に肉厚な唇は、甘ったるくて桃の味がした。
「っ」
口唇を割って咥内に入り込んできた舌が、蕩けそうなほど熱かった。歯列の裏側をなぞられ、口蓋をこしょこしょとくすぐられる。容赦なく襲いかかる快感と苦しさに、美澄はキャパシティを超えてパンクする一歩手前で踏みとどまりながら、必死で自らの舌を絡ませて応えた。嬉しかったのだ。要に求められるのが。
酸素が足りなくてくらくらする。目の前の逞しい胸をトントンと叩いて限界を訴えると、要はすぐに離れていった。はふはふと肩を上下させて酸素を取り込もうとする美澄に対して、現役アスリートは少しも息を乱していない。
酸欠でぼんやりとした思考が元に戻るにつれて、酔いも一緒に醒めていく。やってしまった。見つめ合って、何となくそういう流れになって、勢いでキスをしてしまった。
「す、すみません……」
つい、勢いで。と弁解するのもおかしな気がして、とりあえず頭を下げて謝罪した。美澄はいいのだ。恋心を抱く相手で、キスをしてくれたのはむしろ嬉しかった。でも、要は違うだろうと考えたら血の気が引いた。
謝罪に対する返答はなかったが、顔を上げた先のとろんとした表情に嫌悪の色はなかった。
「美澄、俺さ、ずーっと黙ってたことあって」
「……?」
ぽす、と肩に頭がのせられた。力強い腕に、やさしく引き寄せられる。美澄も返事をするように、背中に腕を回した。
「ゲイなんだよね、俺」
もちろんそれは初めて聞く事実だったが、驚きは少なかった。
「どうりで、女性関係の噂がなかったんですね」
「ん。でも公表はしてないから、女子アナが連絡先交換しようとしてきて困る」
「でも、公表していないことを、どうして俺に?」
「美澄なら、いいかなって思った。人には広めないだろうし、知ったとしても離れていかないと思ったから」
「信用されてるんですね、俺」
「……軽蔑した?」
「いいえ。全くしません」
ずっと燻っていた期待の種が、心の中で芽を出した。憧れの人が進む道の邪魔にならないように、見ないふりをしてきた感情が、もてあますくらいの熱をもって暴れだした。
俺は、この人の心が欲しい。
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