Episode2「決意の先で」

ep2-1

 帰宅の途につく人々から、勝利の余韻が伝わってくる。駅の方向へ歩く者、一般客用の駐車場へ向かう者。満員のドーム球場から一斉に移動する人々の波に乗っていた美澄は、途中で横道にそれて人の少ない道を歩く。


「こんばんは。お疲れさまです」

「こんばんは、雪平さん。いらしてたんですね。どうぞ」


 関係者用の通用口に立っていた警備員が、美澄の姿を見て相好を崩した。左にずれて道をあけてくれる。ぺこりと会釈して、中に入った。この道を進むと選手のロッカールームやシャワールームがあるが、そこまではいかずに近くにあったベンチの横で足を止めた。

 通用口周辺の通路は関係者専用なので基本的に人通りはないが、追っかけのファンが推し選手の姿をひと目見ようとやってくることがある。外で待つと何かと目立ってしまう。美澄の顔は目を引くのだ。先日、選手ではないのに数人の女性に追いかけられそうになって、名前を聞かれて……あの時は本当に怖かったので詳細は伏せるが、その事件をきっかけに要が美澄の入場証を発行してくれたので、最近は中で待たせてもらえるようになっていた。

 要が球団スタッフに「俺の後輩の雪平美澄。腕のいい、俺専属トレーナー的な?」と誰かとすれ違う度に紹介してくれたので、顔も名前も覚えられたようだ。何度か待たせてもらううちに、美澄も顔を覚えて挨拶や世間話程度はする間柄になった。こんな素性も知れない男によくしてくれるだなんて、要の信頼は相当厚いらしい。

 ここ一ヶ月ほど、休日を使って毎週のように試合を観にいっている。相手チームのホームで試合をする時は遠征になる為会えなかったが、ホームでの試合や同じラ・リーグに所属する埼玉ドルフィンズのホーム試合の際には、直接球場へ足を運んだ。


「美澄、お待たせ~」

「お疲れさまです。ナイスゲームでしたね」

「おう。美澄がきてくれたからな」


 試合中の真剣な表情とは一転したやわらかな雰囲気に、美澄もつられて頬がゆるんだ。その後ろからは、先日迷子の美澄を助けてくれたショートストッパーの丹羽と、丹羽と二遊間を組むセカンドの矢野が歩いてくる。


「丹羽選手、矢野選手、お疲れさまです」

「おー、お疲れ。要、お前美澄くんきてたからあんなに張り切ってたんか」

「えー、いつも通りっすよ」

「いやいや、お前ネクストであんな強振するの、美澄くんきた時くらいだろ。な、爽?」

「ですね」


 話を振られた矢野は、上品な笑みを浮かべて答えた。名前の通り、爽やかな雰囲気が眩しい二番バッターだ。


「要先輩、そんなに張り切ってるんですか?」

「いやいや、いつも通りだって。ちょっとホームラン打ったりしてみよっかなーとは思わなくもないけど」

「張り切ってんじゃねーか」


 丹羽の言葉に、美澄は声をあげて笑った。テレビ中継の際はあまりネクストバッターズサークルが見えないので、美澄には比較のしようがないが、チームメイトがそう言うのだからそうなのだろう。

 外へ出ると、夏の残滓が肌にまとわりついてくる。

 地下駐車場で二人と別れ、車に乗り込んだ。今日は接骨院が休みだったが、明日は通常通り仕事がある。このまま美澄の家に二人で帰り、いつも通り食事をしてマッサージとストレッチの補助をする予定だ。


「このまま美澄ん家な」

「はい。お願いします」

「ちなみに、今日の夕飯はなんですか」

「シチューです」

「嬉しいです」

「ふふ。要先輩は、なんでも喜んで食べてくれますよね」

「そう? 普通じゃね? だって美澄、辛いもんとか苦いもん作らないじゃん」


 車は地下駐車場を出て、地上に出た。運転中の要の横顔を眺め放題だ。鼻が高いなぁ、とか、まつ毛長いなぁ、とか。みんなが憧れる間宮要をひとりじめできるこの時間が、美澄は好きだった。


「な、美澄」

「なんですか?」

「美澄が休みの時さ、いつも観にきてくれるじゃん」

「ええ。毎回、チケットありがとうございます」

「それは全然いいんだけど。試合終わったらこうして一緒に帰ってさ、飯食わせてくれるし、マッサージまでしてくれるじゃん?」

「はい。それがどうかしました……?」


 微かな不安が芽を出した。一緒にいすぎて暑苦しい? この関係に飽きたからもう終わりにしよう? 浮かんできた続きの言葉候補があまりに悲しくて、美澄は目を伏せる。


「休みの日まで仕事してるみたいな感じでさ、美澄は嫌じゃない?」

「嫌じゃないです!」

「おお、食い気味だ。でもほら、マッサージだって疲れるだろ? 休みの日まで当たり前のようにしてもらってて、申し訳ないというか」

「俺がしたくてしてるんです。これ以上そういうこと言うと、怒りますよ」

「ごめん。ありがとな」


 言葉の真意が予想から外れていたことに胸を撫で下ろす。怒りますよ、ではなく怒らせたの思ったのだろう。大きくて温かな手のひらが頭にのせられ、わしゃわしゃと撫でられた。こうすれば美澄の機嫌が上向くと、要は知っている。

 元々美澄は野球が好きだし、常勝と呼ばれる東京スワンズを応援するのは楽しかった。勝てば喜び、負ければ悔しがる。接骨院で働いているだけではなかなか経験できない感情の起伏はいいリフレッシュにもなる。何より、好きな人の近くにいられるのは幸せだった。


「要先輩がうちの接骨院にきてくれてから、毎日が充実してます。お礼を言わなきゃいけないのは俺のほうですよ」


 頭にのせられたままの手を取って、運転席と助手席の間にあるコンソールボックスの上で手の大きさを比べてみる。身長が違う分要のほうが大きいけれど、指の長さは美澄も負けていない。多彩なボールの握り方を試せる、ピッチャーとして最適な手の形だとよく褒めてもらった。

 指を絡めてみる。なんだか嬉しくなってギュッと握れば、すぐ握り返された。


「なに可愛いことしてんの」

「手の大きさ、やっぱり違うなって思って」

「そりゃ身長違うしな。そういや、美澄は指長かったか」

「フォークを投げるのに最適な手です」

「今度キャッチボールする時は変化球も投げてみよーぜ」

「が、頑張ります」

「あはは、んな緊張しなくていいから。気楽にいこ、気楽に」


 夏空の下、河川敷で要とキャッチボールをしたのをきっかけに、少しずつ投げられる距離が伸びてきた。今では正式なマウンドとホームベースの距離である、十八.四四メートルだって余裕で投げられる。この上ない幸せだった。


「来週は連休だよな?」

「そうです」

「じゃ、試合前にキャッチボールしてから行こ」

「いいんですか?」

「ん。もっと頑張れる気がするから」

「……?」


 美澄とのキャッチボールで、どうして要がもっと頑張れるのかは分からなかった。けれど、見上げた端正な横顔が楽しそうだったから、まあいいか。

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