ep1-6

 アラームの音で目が覚める。とじ続けようとするまぶたと戦いながら身体を起こすと、背中がぱきぱきと音を立てた。ソファで寝たから仕方ない。来客時の為に敷布団を買おうと心に決めた。

 ぐっと伸びをしてから立ち上がる。カーテンを開けると、窓の向こうにはどこまでも高い夏の青空が広がっていた。試合日和だと思える程度には、野球と向き合えるようになったのかもしれない。

 寝室のほうから音はしなかった。身体が資本のプロ野球選手をソファで寝かせるわけにはいかないと、半ば無理やり美澄のベッドに押し込んだはいいが、ゆっくり眠れただろうか。

 朝食は何を作ろう。要が甘党だという好み以外は知らない。苦いのと辛いのが苦手。子どもみたいで、ちょっと可愛い。

 今朝は和食の気分だった。魚の特売日に買っておいた鮭の切り身が冷凍庫に眠っている。常備菜のひじき煮に、卵はだし巻きにして、ほうれん草と油揚げで味噌汁を作れば優雅な休日のブレックファースト。料理が趣味でよかった。ああ、一昨日常連さんからいただいたイチゴも添えよう。

 間もなく鮭が焼きあがるというタイミングで、寝室のドアがゆっくりと開いた。くぁ、とあくびをこぼしながらキッチンへやってきた要の頭には、ぴょこんと寝ぐせがついている。


「おはよぉ」

「おはようございます。よく眠れました?」

「ん。家で使ってるマットレスと一緒なのかな。全然気になんなかった」


 その言葉に嘘はなさそうだった。昨日よりも顔色がいい。


「もうすぐ朝ご飯ができるので。座って待っててください」


 ボウルの中で卵をチャカチャカと混ぜながら、視線でリビングを指した。


「ん……でも、箸くらいは用意させて」

「じゃあ、そこの引き出しから二膳、お願いします」

「お願いされたー……」


 ぼんやりとしている要は珍しくて、つい目で追ってしまう。テーブルに箸を並べる動きに合わせて寝ぐせがひょこひょこと跳ねて面白い。

 我ながら上手くできただし巻きをカットし、グリルからこんがり焼けた鮭を取り出した。

「すげーいい匂いする」とすっかり覚醒した様子の要が、リビングで嬉しそうに笑っている。





 楽しい時間ほど、早く過ぎるのは何故だろう。


「あの、もし要先輩が良ければ、なんですけど」

「ん?」


 玄関の上がり框に腰かけ、スニーカーの紐を結ぶ背中に声をかけた。わざわざ手を止め、振り返ってくれる。だから美澄もしゃがみ込んで、同じ視線の高さで続けた。


「接骨院に来た日は、そのまま家でご飯食べて行きます? 今回みたいに泊まってもらっていいので」


 提案は、美澄の希望でもあった。求められたら、応えたくなるのがピッチャーの性だ。正しくは、「元」ピッチャーだけれど。要とバッテリーを組んだ過去は消えない。要の存在が、六年間ずっと心の奥底でフタをして閉じ込めていた感情を呼び起こした。


「いいの?」


 まっすぐな目が美澄を見つめる。頷けば、大きな手のひらが頭にのせられた。そのままわしゃわしゃと撫で回されると、オキシトシンが分泌されるのが自分でも分かった。


「ありがと。次も楽しみにしてる。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。頑張ってくださいね」

「今日、美澄は休みだっけ?」

「そうです。試合、観ますね」

「ん。絶対活躍するから」


 広い背中がドアの向こうに消えても、そこからしばらく動けなかった。






 リーグ三連覇、そして昨シーズンは日本一にもなった常勝軍団は、今年も首位をひた走っていた。


――その中でも注目すべきは、昨日サヨナラタイムリーを放った間宮要。昨シーズンまでは夏になると目に見えて落ちていた打率が、今夏は目に見えて上昇している。日本代表にも選出される天才が、どこまで成績を伸ばせるかが期待されている。


「カッコいいなぁ……」


 新聞に掲載された記事に目を通すと、思わずそんな言葉が口をつく。

 今日は朝からコンビニへ行って、スポーツ新聞を買ってから出勤した。ファンのお手本のような行動だ。ふと我に返って「何してるんだ、俺……」となる時はあるが、要が一面に大きく掲載されている新聞を見かけるとどうしても手が伸びてしまうから仕方ない。ちなみに、全てきちんと保管済みである。

 ピンポーン、とチャイムが鳴り響いた。二十二時の来客は、ただ一人と決まっている。


「わりぃ、遅くなった」

「お疲れさまでした。今日は惜しかったですね」


 接骨院の閉院時間が二十一時だからリアルタイムの視聴は叶わなかったが、結果は先ほどニュースで確認した。ゼロ対一。スワンズの完封負けだ。


「もーマジで悔しい。向こうのライトが超ファインプレーしてさぁ。あれで二点は防がれたし。久しぶりの完封負けとか、ホントへこむわぁ」

「そんな要さんに朗報です」

「うん」

「今日の夕飯はハンバーグオムライスです」

「やった、へこんだ心が一気に元通りだ」


 一秒前とは打って変わって足取りが軽くなった要に、笑いが堪えられなかった。

 遠征が無ければ週に一回、オフの日に施術を受けに来ていたのが、今では週に二回、三回と増えた。今日のようなナイトゲームの日は試合後の移動になる為、到着が夜遅い。そういう時は直接美澄の家まで来てもらい、食事を振る舞いマッサージをしたりストレッチの補助をする。オフの日は今まで通り夜八時に予約を取って、接骨院で施術を行った後二人で美澄の家に帰った。

 はたから見たら尽くしすぎだと言われるかもしれないが、多すぎるくらいの食費を(いらないと言っているのに)渡されているし、そのおかげで食卓にのぼる料理の材料が豪華になったので、ウィンウィンの関係だと美澄は考えている。

 リビングのテーブルには、美澄がついさっきまで読んでいた新聞がそのままになっていた。紙面の自分を目で捉えた要が、うわぁ、と眉を寄せる。


「それ、買ったんだ」

「はい。要先輩が載ってるので。ほら、こんなに大きく」

「いや、見せなくていい。恥ずかしいから」

「俺すげー、ってならないんですか?」

「スタメン定着してすぐの頃はなったけどさ、よく考えてみ? アドレナリン全開でテンションぶち上がってガッツポーズしてる自分を後から冷静になって見返すなんて、結構恥ずかしいぜ?」


 俺すげーとなっていた当時を思い出したのか、照れくさそうに両手で顔を覆った要を横目に夕食の準備を進める。形まで作っておいたハンバーグを焼きつつ、ケチャップライスを卵で包んでいく。生ものは美澄自身が苦手なのとアスリートには不向きなので、トロトロバージョンではなくよく焼きバージョンだ。


「要先輩、スプーンの用意をお願いします」


 何だかんだ気になるのだろう。恐る恐るといった様子で新聞に目を通していた要に声をかける。待ってましたとばかりに動いてくれるので、美澄としても頼みやすい。


「おっけー。うわ、やべぇな。超美味そう。しかもデミグラスソースじゃん」

「缶のやつを温めただけですけどね」

「ケチャップも美味いけどさ、デミグラスもいいよな」


 最近知ったのは、要が甘い物以外ではオムライスやハンバーグ、エビフライにから揚げなど、お子様ランチとして出てきそうな料理が好きだということだ。高校の頃はとても大人に見えた一学年の差が、今では懐かしい感情だった。

 食事を終え、ひと休みしたらストレッチとマッサージを施し、夜中に放送されるリアクションが大げさな通販番組を眺めながら、日本代表正捕手の野球談議を子守唄に眠りにつく。そして翌朝、美澄の出勤に合わせて二人で家を出る。いつかファンから刺されるんじゃないかと心配になるくらい贅沢な日々を、数ヶ月前の自分は想像もしていなかった。

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