ep1-4

 三度目の来院は、久しぶりの試合観戦から二週間後のことだった。

 要の所属する東京スワンズが加盟しているラ・リーグは、全国各地に本拠機を置く六チームが参加しており、シーズン中に開催される試合の半分はホームゲーム、もう半分は各本拠地に出向いてのビジターゲームとなっている。遠征で家を空けていたから来られなかったのだと、予約の際に要本人から聞かされた。


「美澄ぃ……バス移動で腰バキバキだから、重点的にお願いしてもいい?」

「分かりました。マッサージ終わったら、電気治療もしましょうか」

「ん。ありがと」

「あ、そうだ。先輩、試合観ましたよ」

「マジで? どうだった? 俺、活躍した試合だった?」


 隠しきれていなかった疲労の色が一気に吹き飛んだような、明るく弾んだ声だった。


「一回裏に、スリーラン打った時の試合でした」

「すげぇいい時じゃん! やっぱ俺、持ってんなぁ」

「そうですね。やっぱり、本当にカッコよかったです」


 アンダーウェア越しに触れ、全身の状態を確認していく。本人の申告どおり、腰の筋肉がカチカチになっていた。遠征なんて日本各地へ行けて楽しそうだと思うが、長時間の移動やそれにともなう疲労の蓄積など、いいことばかりではないらしい。


「いいとこ見せられてよかった」

「でも、次の試合では三打席連続三振……」

「うわ、そっちも観ちゃった?」

「はい。肩に力入りまくってるなぁ、って思いました」


 アウトを告げられた時の悔しそうな表情は、初めて見る顔だった。


「あの時は負けてたから、どうしても点数とってやりたかったんだよ。頑張って投げてるピッチャーの為にも」

「その結果、最後の打席で逆転タイムリーって……漫画に出てくるヒーローかって思わずツッコミいれましたよ」

「一人で?」

「一人で。ビール飲みながら」

「はは、その美澄見たかった」

「昔からそうでしたよね。要先輩は、責任とか期待とか、全部一人で背負えてしまう人だった」


 要は何も言わなかったけれど、指先に伝わってくる肩の張りが答えだった。先日よりも時間をかけて解していこう。片付けと戸締りは下っ端である美澄の役目だ。多少時間がオーバーしても、何も言われはしないだろう。

 マッサージに電気治療。全ての施術を終える頃には、多々良も吉村も帰宅した後だった。二人きりの室内は静かで、互いの呼吸さえよく聞こえる。好都合だ。心置きなく懸念をぶつけられる。


「要先輩、少し気になったことがあるんですけど」

「んー?」

「前回来院した時より、痩せましたよね……?」


 わずかな変化だったが、それはたしかな違和感だった。壁に貼られた人体模型をイラスト化したポスターを眺めていた要が、ぴくりと肩を跳ねさせる。

 要先輩、ともう一度名前を呼べば、先輩捕手は恐る恐るといった様子で振り返った。バチッとぶつかった目は、すぐにフラフラと泳いで逸らされる。自覚ありか、この人。


「飯、ちゃんと食ってるんですか」

「まあ、それなりに」

 怪しい。それなりって何だ。

「ホントですか」

「……うん」

「今日の夕食は?」

「食べた」

「何を」

「…………素うどんを、少し」

「はい?」


 この身長と筋肉量で小麦粉オンリーはダメだろう。そもそも、キャッチャーは消費量の多いポジションだ。しかも今は夏。たくさん食べても、どうしても夏は痩せてしまうんだと、同級生のキャッチャーが言っていた。要だって例外ではないはずだ。


「タンパク質は? 脂質は? ビタミンやミネラルは? というか、少しってどれくらいですか」

「このくらいの器の、半分」


 両手の手のひらで受け皿を作って、要は唇を尖らせた。


「いやいやいや、計算しなくてもカロリー不足でしょう!」

「……ス、スミマセン」

「まさか、毎年じゃないですよね」

「夏は、どうしても苦手で」

「でも、シーズン打率は低くないですよね」


 調べてみたら、三割前後だった。要は「気合い」と言って苦笑した。その状態で今までどうにかなっていたのは、才能と努力と意地っ張り故か。

 心配を通り越した感情が、何故か怒りに変換された。ふつふつと湧き上がって、色素の薄い目が据わる。


「要先輩」

「っ、ハイ」


 ガッと要の右手を掴んで、甘ったるい目をじっと見つめて、美澄は言った。


「うちに来てください。俺はこれから夕飯なので、一緒に食べましょう」




 キッチンカウンター越しに見える憧れの人は、居心地が悪そうに小さくなっていた。ソファに浅く腰かけ、テレビを眺めている。時折こちらをチラチラ気にしているのが面白い。

 明日も試合なので、あまりのんびりはしていられない。身体を休めるのも、プロ選手の立派な仕事だ。

 ご飯はタイマーで既に炊き上がっていて、あとは食材を刻んでいくだけ。刻んだオクラに一口大にカットしたアボカド、納豆にとろろ。それらをどんぶりによそったご飯にのせていく。同時進行で作った豆腐とワカメの味噌汁も、いいタイミングで完成した。


「先輩、お待たせしました」

「ありがと。おお、すげー」

「刻んでのせただけなので。簡単ですよ」

「でもごめんな、わざわざ」

「今日は元々ネバネバ丼にする予定だったので。一人分も二人分も変わらないです。さ、食べましょうか」


 最近、暑さがより厳しくなってきたから、今日は元々食べやすさ重視のメニューにする予定だった。美澄が手を合わせると、要もそれに続く。いただきます、と二つの声が重なった。

 要は納豆ととろろの境い目をスプーンで慎重にすくって大きな口で頬張ると、ふにゃりと相好を崩した。美味しいですか? と聞くと、何度も首肯する。口に合ったようで何よりだ。


「うめぇ」

「それはよかったです。ちなみにキムチも刻んだので、味変の時はご自由にどうぞ」

「俺、辛いの苦手……」

「あー、甘党でしたっけ」

「そ。辛いのもだけど苦いのも無理」

「このあと、コーヒーいれようと思ってたんですけどお茶にしますね」

「牛乳入ってれば大丈夫」

「何対何です?」

「九対一」

「牛乳が九?」

「うん。あと甘くしてほしい」

「お茶いれるの、全然手間じゃないですよ?」

「コーヒー牛乳は好きなんだよ、俺」


 それはもはやコーヒー牛乳ではなく牛乳コーヒーでは、と思ったが、口には出さなかった。「好き」を語る要は、いい顔をしている。


「もしかして、今もスタベの新作飲みに行ってるんですか?」

「いや、身体の為にもあまり行ってない。甘いもの食べていい日は決めてて、三ヶ月に一回くらいにしてる」

「俺、要先輩が寮の食堂ではちみつ飲んだの、いまだに覚えてますよ」

「あの時の美澄のドン引き顔、俺も覚えてるわ……」


 要が極度の甘いもの好きだと知ったのは、美澄が高校に入学し、バッテリーを組んで間もない頃だった。スタベの新作フラッペが発売されるたび付き合わされるのだと、当時の最上級生が教えてくれたのだ。

 何だか不思議な気分だ。嫌われてしまって、もう二度と会えないと思っていた要が、美澄の家で、美澄の作った料理を食べながら、想い出話に花を咲かせている。夢かもしれない。逃げた野球に再び目を向けて、センチメンタルになった心が見せた幸せな夢。でも、それでもいいや。



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