第13話 バダルの経歴と策謀

 ガラサ社会は小さな社会だ。アウシュリスがイステア語の授業を始めてからのたった三日間で、どうやらイステア語の文字を教えてもらえるそうだという話がガラサ全体に知れ渡ったらしい。いろんな部族の人間が教えてくれと言ってマクイ族の集落に押しかけてきた。


 アウシュリスは軍の上層部にいたが、教官としての経験はない。教師など言わずもがなだ。イステア語の教授法などさっぱりわからず、何もかも手探りでの授業である。したがってマクイ族の身内でのやり取りでもすでに困り果てていたところだったのに、大変なことになってしまった。


「これはアウシュリスが直接指導するよりアウシュリスが指導員を育てたほうがいいんじゃないのか」


 ある時様子を見に来たバダルがそう言った。それなら確かにもっと多くの人間に読み書きを教えられるかもしれない。バダルは頭のいい男だ。認めるのは悔しいが、アウシュリスはその助言に素直に従って教育方針を変えた。もっと勉強したいという子供たちには泣く泣く出ていってもらい、ある程度大人の戦士たちを中心に教育することにした。


 二十代から三十代の体格のいい男女が、間に合わせで取り急ぎ建てた小屋に集まった。八割近くが子育てを経験していて、自分が我が子に教えることを念頭に置いて教えを乞うてくる。


 教授する側の難易度は格段に上がったが、アウシュリスは充実していると感じていた。


 自分にしかできない仕事がある。




 脳味噌を振り絞って勉強をしているので、疲労感は大きい。普段は忍耐強い戦士の大人でも、集中力が切れる時はある。水を飲み、さとうきびをかじるための休憩を入れた。


 アウシュリスが床にあぐらをかいてさとうきびを割っていると、不意に大きな影が近づいてきた。デバダ族のガインだった。和平交渉のために公園にやって来た、顔に傷がある戦士の男だ。バダルの父親の兄の息子、つまり従兄弟同士だと聞いた。バダルは彼に格別の信頼を寄せているようである。


「ずいぶん溶け込んできたようだな」


 ガインのこわもてがどことなく優しい。会談の場では恐ろしい男であるように感じていたが、もう圧力は感じない。


「最初はどうなることかと思っていたが、これならば私が心配することはないな」

「心配させていたか」


 彼もアウシュリスのそばに腰をおろした。


「最初はどうなることかと思っていたのだ。バダルのやりたいようにやらせてやるのが親世代の弔い合戦なのだと考えていたが、まさかここまですべてがあいつの思いどおりになるとまでは思っていなかった」

「弔い合戦……亡くなったのか」

「三年前、オラナ鉱山で大勢の先住民が生き埋めになったのをおぼえているか」


 その事故のことを思い出すと、胸の奥がつきりと痛む。その鉄鉱山にはガラサの民以外にもいくつかの民族の人間が徴用されていた。ほとんどは泣き寝入りしたが、ガラサの戦士たちはそれをきっかけに反乱を起こした。その鎮圧のための軍事行動にあたったのはほかならぬアウシュリスだった。


「あの崩落事故で、私の両親、つまりバダルの伯父夫婦が死んだ。バダルとその父は仇を取ってやると言って蜂起したが、バダルの父はイステアの兵士に殺された。バダルは父親に特別なついていたからか、ずいぶんと混乱していた。族長にならねばならぬというプレッシャーもあったろう。我々は気を揉んでいたが、何もしてやれなかった」


 事件も事故も、犠牲者は数字ではない。一人一人にこういう物語がある。それを、イステア人である自分たちは、どこまでわかっていただろう。


「バダルは強い男だ。何をきっかけに自分を取り戻したのかまでは話してくれないが、あの後はすぐに立ち直って次の行動を取った」

「次の行動とは? すぐに族長になったのか?」

「いや、あいつは身分を隠してイステア人の学校に通ったのだ」


 アウシュリスは驚いて目を見開いた。そうは言っても、白い肌に明るい色の髪のイステア人と日に焼けた肌に黒髪のガラサの民は見た目ですぐに区別がついてしまう。


「どうやって潜り込んだ?」

「イステア人の教師の靴を舐めて、昼間は用務員として働いて夜間の授業を受けさせてもらったと言っていた」


 ブルヤ市民の身分がある親のもとに生まれたイステア人の子供なら、一定の年齢になればそんな屈辱を味わわずとも学校に通える。


「あいつは苦労話は好かぬ。一度だけ壮絶な差別があったことをほのめかしたが、本が読めるようになる喜びに比べたらたいしたことではないと笑っていた」


 言葉を失ったアウシュリスに対して、ガインは淡々としている。


「満足するまで二年間きっちり働きながら勉強をして、帰ってきてマクイ族の族長の座を継承する儀式を行って、ブルヤの総督府を焼き討ちする計画が持ち上がったのは一年ほど前だ。ガラサの民は、戦の経験もブルヤでの生活の経験もあり、ブルヤの地理や政治の状況を知り尽くしているバダルを、信頼している。作戦の説明も理路整然としていたので、不可能ではないと判断した」


 バダルが築き上げてきたものの重みを感じて、アウシュリスも真剣な気持ちになる。


「ただ、ひとつ不可解だったのは」


 そこで、ガインがふと、目を逸らした。その視線の先をたどると、休憩を終えたらしい戦士たちがアウシュリスとガインのやり取りに耳を傾けていた。


「あいつがお前にこだわったことだ、アウシュリス」

「俺?」


 予想外の言葉に、目をまたたかせる。


「どういうことだ」

「あいつはどうしても王族の人質を取りたいと言い張った。しかし王族には若い男ばかり三人のみ。ノトカのすすめで王族に準ずる貴族から若い女を取るべきだという話になったのだが、あいつはそこだけは譲らなかった」


 会談の時にノトカが恐ろしいことを言っていたのを思い出す。


「いろいろな憶測は飛んだが、最終的にお前が今バダルとうまくやっているようなので問題ない」


 ずっと話を聞いていた別の戦士の男が口を開いた。


「本当に『イステアの軍神』を引っこ抜いてこられるとは思っていなかったんだ。そりゃ、できるなら直接的に王国軍を骨抜きにできるような作戦を、というのも考えていなかったわけじゃないけど。お前が抜けるだけで王国軍は相当がたつくだろうというのはみんな察していた」


 それを聞いて、アウシュリスはまた胸のあたりが痛むのを感じた。


 みんなはそう言ってくれるが、王国軍元帥の国王はまったくそんなふうに考えていなかった。アウシュリスのかわりはいくらでもいる。アウシュリスがいなくなったことで困る人間はいない。ガラサ側はそれを何か勘違いしているようだ。


 加えて、バダルが王国軍を弱体化させるためにアウシュリスを求めた、というのも悲しかった。

 しかし、これはなぜ悲しいのか、よくわからない。冷静にバダルの立場を考えれば、当然のことだ。だが、彼はアウシュリスではなく『イステアの軍神』を求めたのだ、と思うと、たまらなく悲しい。そして、また、『イステアの軍神』を性的に辱める悦びがあったのだろうか、などと考えてしまう。


 あの男はそんな男ではないはずだと、わかっている。けれどどうしても割り切れないのは、なぜだろう。


 優しく撫でる手つき、触れ合った時のぬくもり、あれらを嘘だと思いたくない自分がいる。


「俺がいなくなっても、王国軍はどうにでもなる」

「そうでもないぞ」


 また別の女戦士が、にやにやしながら言う。


「お前がいなくなった王国軍は北方の連合国軍との戦争に負けている」


 頭を殴られたような衝撃を受けた。


「知らなかったのか?」

「まったく……」


 ガインが「やめろ」と溜息をつく。


「バダルにはアウシュリスの生活が落ち着くまでアウシュリスの耳には何の情報も入れるなと強く口止めされている」


 状況が読めなくて、混乱する。


「なぜ……」


 先ほどの戦士の女を、さらに別の戦士の男がたしなめた。バダルの意向に反することをするのはよろしくないらしい。けれどそこまで強く罰する気持ちもなさそうなので、ガラサの海ののどかな空気を、もっと言えばそういう空気を形成したバダルの人柄を感じる。


 ガラサの海での生活は平穏だ。何も起こらない。毎日アウシュリスは三度の食事と通気性の良い寝床を享受して暮らしている。だがその裏にはバダルの策略がある。


 バダルが何を考えているのか、わからない。


「その……、申し訳ないが、今日の授業はここで終わりだ」


 自分の精神状態の悪化を感じたアウシュリスは、そう言って腰を上げた。先ほどの女戦士が「すまなかった、機嫌を直してくれ」と言ってすがってきたが、アウシュリスは「大丈夫だから」と言って振り切った。




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