第2章 海での暮らしの始まり
第4話 宴の夜が始まった
和平会談のあと、アウシュリスはロバの引く荷馬車で海に連れていかれた。粗末な荷車に乗せられて、王族として四頭立ての馬車に乗るのが当たり前だったアウシュリスは衝撃を受けた。
だが、こんなのは序の口だ。これからどれほどぞんざいに扱われるかわからない。むしろ、炎天下を海まで歩かされないだけ多少ましだろう。
マクイ族の男が好きに使っていいと言って置いていった日傘を差し、中天に昇りゆく太陽の光からなんとか身を隠す。イステア人は夜が長い北の地から南下してきた民族なので、常夏の南部州の太陽は少しきつすぎる。白い肌が火照ってほんのり赤く染まっていた。
ロバを引く娘とも周りを囲む戦士たちとも一言も話さずに、日が沈むまで海に向かって移動する。荷馬車が揺れて、尻が痛い。
石畳の道は背の低い草が広がる原っぱの中を通っていて、進行方向のほうに海が見えた。紺碧の海には穏やかな波が打ち寄せている。寄せては返す波の音が耳に心地よく、奴隷労働を前に緊張しているアウシュリスは肩から少しだけ力を抜いた。こんな状況でなければ楽しめたかもしれない。
南国の海は平和の象徴だ。暗い北の空の下で常に争って生きてきたイステア人の血に刻まれている雪原とは、似ても似つかない。
優しい音がする。
アウシュリスは、その海の音に母親というものを連想した。アウシュリスを一度も抱き締めてくれなかった、美しいがそれだけの冷たい母の姿ではない。温かい液体の中でゆっくり命をはぐくむ、もっと大きくて茫洋とした概念上の母だ。アウシュリスはそういう何かに
「おい」
こめかみを小突かれて我に返った。
いつの間にか荷馬車は動きを止めていて、ロバとその飼い主の娘の姿がなくなっていた。景色は密林の中の少し開けた空間になっていた。
ガラサの濃い色の肌の男たちに囲まれている。
アウシュリスを小突いたのはバダルのようだ。彼はアウシュリスを見下ろして「大丈夫か」と問い掛けてきた。慌てて荷馬車からおり、虚勢を張って「大丈夫だ」と答える。
「じゃ、行くぞ」
大丈夫か、とは、何だろう。このまま小突き回されてもおかしくない状況だったのに、なぜか気遣われてしまったようだ。自分も反射的に大丈夫だと答えてしまったが、何か他のことを言うべきだったのではないか。
ガラサの男たちは何も言わない。無言で密林の中を歩いていく。アウシュリスはその後ろを必死に追い掛けた。とはいえ、先頭を行くガインが草を掻き分けてくれるので、それほど歩きにくいというわけでもない。そもそも、道なき道、というわけではなさそうだ。踏み固められて草が左右に広がっている。
人間ではないものの声が聞こえる。獣だろうか、鳥だろうか。聞き慣れぬ声はアウシュリスに未知の化け物を連想させた。それに、暑い。汗が全身にまとわりつく。分厚いコートが邪魔だ。ガラサの民が着ている袖のない麻の服は合理的だ。
やがて視界が開けてきた。密林の中に広い平らな空間が現れたのだ。竹の柵で区切られた広場に、高床式の建物が数え切れないほど建てられている。櫓のようなものも見られた。ガラサの民の集落だ。
初めて見る建築物に、立場を忘れて見入ってしまった。確かに地べたは暑すぎる。涼しそうで、魅力的に映った。
「こっちに来い」
腕をつかまれて引っ張られた。我に返って歩き出した。
最終的に、アウシュリスは集落の真ん中に連れていかれた。
驚いてしまった。
そこに、老若男女が集まって、食事を用意していたからだ。
中心にはこうこうと巨大な焚き火が燃えていて、その周りに宴会の準備がなされている。焚き火の周りに五匹の豚の丸焼きが鎮座していて、それを囲むように豆類と根野菜を混ぜた料理やなんらかの粉類で作られたパンのようなものが並んでいるのだ。
子供たちがバダルに絡みついてくる。
「おかえりなさい! 待ってたよ」
「おー」
バダルが人のよさそうな笑みを浮かべて子供たちの頭を順繰りに撫でた。
子供たちは、バダルの顔色を窺いながら、バダルに腕をつかまれたままのアウシュリスを眺め回した。
「その人がイステアの王子様?」
「肌が白いね」
「いいにおいがするー」
バダルが「こら、あんまりじろじろ見るな」と言って追い払おうとした。しかしさほど強い語調で言うわけでもないから、心底嫌というわけではなさそうである。むしろアウシュリスこそ見世物にされているわけだったが、バダルからも子供たちからも悪意を感じないので、そんなに強い不快感は抱かなかった。ただ、困惑する。思っていたのと違う。
「わたしも王子様に触りたい。バダルばっかりずるい。こっちに来て!」
「だめだ。王子様は俺のお嫁さんなんだから、お前らがおもちゃにしていい相手じゃないんだ」
アウシュリスは、今何かとても恐ろしいことを言われたような気がしたのだが、たぶん気のせいだと思って聞き流した。
広場の中央、焚き火のすぐそばに連れていかれた。ぱちぱちと爆ぜる音に少し緊張したが、夕空の下で見る炎は恐ろしいものではなかった。
周りを囲んでいる集落の人々が、みんな笑顔でバダルを
「おかえりなさいバダル」
「よくやったね」
「これでわたしたちの暮らしも良くなる」
「お前は民族の英雄だ」
バダルは少しにやけながら片手を挙げた。もう片方の手はアウシュリスの腕をつかんだままだった。
こうして並んでみると、バダルは非常に背が高い。しかも筋骨隆々としている。アウシュリスも三兄弟の中では一番大きかったのに、バダルのほうがひと回り大きいように感じる。彼が人一倍体格が良いのだと思うが、自分が急に小さくなった気がした。弱く儚くなったような気もした。見知らぬ密林の中で見慣れぬ容姿の人々の視線を集めている。また、緊張が高まっていく。
「紹介する」
そう言って、バダルがアウシュリスの腕を引っ張った。一歩分バダルの前に出させられる。
バダルがようやく手を離した。けれど、ここまで来たらもう逃げられない。おそらくマクイ族の全員がアウシュリスの一挙手一投足を見つめている。他の部族の戦士たちも見ている。
焚き火にくべられるのは豚ではなく自分かもしれない。
「イステア王国第二代国王ウルムスの第二王子にして第三代国王ヴェルトゥースの弟、アウシュリスだ」
一瞬、みんな黙った。
次の時、みんな拍手をした。
「ようこそマクイ族の村へ」
「これから一緒に楽しく暮らしましょう」
一斉に太鼓が鳴らされた。
「じゃ、乾杯の準備を」
バダルがそう言った。一同が楽しそうな顔でおしゃべりをしながら動き出した。
想像していたのとぜんぜん違うことになってしまった。
少女たちが歩み出て、近づいてきた。
まず、アウシュリスからコートを脱がせる。剥ぎ取るといった感じではなく、宮殿で着替えを手伝ってくれていた侍従たちのように丁寧な手つきだったので、抵抗する必要は感じなかった。
体が軽くなったところで、座るように促される。その場に腰をおろしてあぐらをかくと、土器の焼き物を持たされた。さかずきだ。
どこからともなく、華奢な青年が出てきた。まだ少年と青年のあわいにいるような、アウシュリスよりも年下の若い男だ。ガラサの男にしては細身なのも、彼の若さを強調しているように思う。大きな丸い瞳の、どことなく少女めいた可愛らしい男である。
彼はアウシュリスの近くに腰をおろして、「お疲れ様」と言いながらさかずきに白く濁った酒を注いだ。
「毒が入ってるわけじゃないから、安心して飲んでね。いや、イステアの人には少しきついお酒かもしれないな。無理して飲み干す必要はないよ」
「はあ……」
「あまり緊張しないで。僕らはあなたのことを歓迎してるんだ」
仲間たちにもみくちゃにされていたバダルが、こちらに戻ってくる。
「なんだ、お前がアウシュリスに酒を
「そうだよ、兄がお世話になっています、という挨拶だよ」
「まだなんもしてねえよ」
バダルが青年の肩を揉むように抱いた。
「こいつは俺の弟のロフだ。次の族長の父親になる。仲良くしておいて損はない」
「次の族長の父親? 何だ、それは」
普通は族長の子供が族長になるのだろうから、バダルの子供が次の族長の父親であるべきなのでは、と思ったのだが、ロフはこう言った。
「ガラサの各部族にはそれぞれ一人ずつ族長とは別に海の母と呼ばれる特別な巫女がいて、その巫女が産んだ最初の子供が次の族長になるって決まってるんだ」
「つまり、ロフはマクイ族の海の母の夫、ということなのか?」
「そうだよ、話が早くて助かるよ」
不思議な風習だ。
「海の母は絶対だから、彼女が選んだ人間でないと夫になれない。兄さんは選ばれなかったのさ、可哀想にね」
「そうだ、可哀想な俺。今のマクイ族の海の母はロフにべた惚れでな。年下の男が好みだったんだ。まあ、海の長い歴史の中ではそういうこともある」
「そうなのか……」
まるで友達に話すように重大な秘密を打ち明けるものだ。そんなことを言っていたらイステア人が海の母を拉致して子供を産ませればすべての話が終わってしまいそうなものである。
アウシュリスが考えつくことは、ガラサ側でも考えつく、ということなのかもしれない。あの時ノトカがイステア王家の娘に子供を産ませると言っていたのは、この風習に起因していたのかもしれなかった。
「おい」
声を掛けられて振り向くと、先ほどは戦士の男たち同様にかっちりとした麻のシャツを着ていたはずのノトカが、へそを出した妖艶な姿で立っていた。
「ロフにひざまずいて挨拶をしろ。ガラサではとても地位のある男だ」
「そこまでか」
「このわたしが選んだ男だからな。わたしが産んだロフの子供が次の族長になる。その話はロフやバダルから聞いたか? ロフに何かあればわたしがお前を呪い殺す」
なるほど、とアウシュリスは頷いた。そして、このへんの人間関係を押さえていればここでの暮らしが楽になるのだということも、なんとなく察した。
「早く乾杯の音頭を取れ、バダル。喉が渇いた」
「はいはい、巫女姫様がお酒をご所望だ。ロフ、用意してやりな」
「はいはーい」
宴が始まろうとしていた。
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