第11話 置いておかれる『そんなこと』

 鳥の鳴き声が聞こえる。大型の海鳥の声だ。外の青い空をくるくると回っている様子がまぶたの裏に浮かぶ。朝が来た。


 アウシュリスはゆっくりまぶたを持ち上げた。


 案の定、屋根の向こう側、海と集落の間にある密林の上を、複数羽の鳥が飛んでいた。滑空する時、鳥はあまり羽ばたかない。浮力と遠心力で大きな円を描いて、空をのんびり舞っていた。


 アウシュリスはしばらくその様子を見つめていたが、そのうち意識がはっきりしてきたので、上半身を起こそうとした。

 そうしてようやく、自分の上に何かが乗っかっているのに気づいた。

 人間の腕だ。たくましい筋肉がついていて太く重い。


 腕をたどるようにして腕の主を確認した。


 そこで、バダルが寝ていた。


 バダルは、アウシュリスを後ろから抱き締めるようにして、横向きに寝ていたアウシュリスの腹に腕を回して寝ていたのだ。


 彼の胸とアウシュリスの背中が、触れるかどうかの至近距離にある。


 少し近すぎるのではないか。これではまるで、恋人同士だ。


 それに思い至った瞬間、アウシュリスの脳内に昨夜のことがよみがえってきた。


 弦楽器の弾き方を教えてもらおうとしたら、後ろから抱きかかえられた。キスをされて、それから、下腹部に触れられた。濃厚な口づけだけでもアウシュリスには刺激が強すぎたというのに、彼は興奮したアウシュリスの陽根を手で包み、慰めた。


 すべて思い出して、アウシュリスは真っ赤になった。


「んー、起きたのか」


 アウシュリスが起き上がったことで腕が動いた。バダルが二度三度とまばたきをしてから目を完全に開けた。ゆっくり上半身を起こすそののっそりとした動きは、虎やライオンのような大型の肉食獣を思わせた。


 食われる。


 尻で床の上を後ずさりして、バダルから距離を取った。バダルがきょとんとした顔で「なんだよ」と言う。


「昨日あんなにいちゃついたのに薄情じゃねえか」


 夢ではなかったということか。アウシュリスの記憶にあるとおり、自分は彼に触れられて達したというのか。


 アウシュリスは軍隊育ちだ。

 男しかいない軍隊、特に独身者を掻き集めた宿舎では、性欲を持て余した若者たちの間で男色行為が横行していた。

 軍隊におけるその行為の大半はいじめだ。上官や先輩が自分の欲望を満たすために、嗜虐心を満たしてくれそうな下っ端をはけ口に使うことが多い。若いながらに男としてのプライドがある少年たちは、辱めを受けたことをなかったことにしたりわざと茶化したりしてごまかしていた。

 アウシュリスも上官に呼び出されて慰み者にされそうになったことがある。しかし、王族であるアウシュリスは訴えるところに訴えることができたので、完遂する前にその男は粛清された。

 あの不快感は今でもはっきり思い出せる。


 ただ、昨夜のあれは、その不快感とはまったく違うものだった。


 はっきり言って、快感だった。絶頂感であり、開放感であり、それから、最後に得られたのは安らぎだった。


 自分は本当に、完全にバダルに身をゆだねてしまっていた。

 そんなに油断していたのか。


 恥ずかしい。


「貴様」


 喉から出る声が震えないといい。それをおびえだと解釈されたくない。


 気持ちが良かったことを認めてしまったら、自分の弱さを肯定することになる。


 そんな自分とは向き合いたくない。


「俺は人質に来る時にどんな目に遭わされるのかとずっと考えていたが、ひょっとして貴様が欲しかったのは性奴隷だったのか?」

「はあ?」


 バダルがすっとんきょうな声を出す。


 体が縮こまりそうになる。一生懸命胸を張る。


「あ……、あんなことを、して。俺を辱めて楽しかったか」

「え、そんなふうに思っているのか」


 彼は一瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐに意地の悪い笑顔を浮かべた。


「気持ちよさそうだったのに。すごく可愛い顔をしていたぞ」


 アウシュリスは立ち上がった。

 バダルはなおも楽しそうにしゃべり続けている。


「すっきりしたのかすぐ寝ちゃって。溜まっていたんだろう。気が利かなくて悪かったな、もっとまめに出すように――」


 左手でバダルの胸倉をつかんだ。驚いた顔のバダルを引きずってむりやり立たせる。

 拳を振り上げる。


「えっ」


 アウシュリスの拳が、バダルの頬を殴りつけた。


 バダルの体が床に転がり落ちた。


「いった、えっ、なに、お前そんなに強いの」


 アウシュリスはバダルのほうを振り向くことなく階段を駆けおりた。顔を見たくなかった。正確には、見られたくなかった。耳まで赤くなって少女のように恥じらっている自分を見せたくなかった。目を合わせたくない。


 このままでは自分のすべてがあばかれてしまう。


 怖い。


 族長の家は村のはずれにある。村の門からもっとも遠くに位置しており、中央の寄り合い所からは少し距離がある。その距離を小走りで移動しながら、アウシュリスは頭の中をぐるぐるとめぐる情報を整理しようと必死で考えた。


 本当は、何もかもバダルの言うとおりなのだ。


 自分は確かに快楽を感じていた。少年時代に上官に手籠めにされそうになった時のあの不快感とはまったく違う感覚だった。バダルを信用して、甘いささやきに聞き惚れ、さほど強い羞恥を感じることなく、されるがままに射精した。


 キスを受け入れ、舌を絡め合った。


 可愛い顔をしていたと言われた。どんな顔だったのだろう。自分自身が気持ち悪い。恥ずかしくて、情けない。


 もう成人して久しく、兄や弟のような女性的な美しさのない自分が、男の性の対象になるとはまったく考えていなかった。

 バダルは何を考えていたのだろう。アウシュリスを性的にもてあそんで、何を楽しんでいたのか。照れたり恥ずかしがったりするアウシュリスを見ておもしろがっているのか。


 アウシュリスがこんなに混乱しているのは、全部バダルが悪いせいだ。


 気がつくと、アウシュリスは集落の真ん中にある寄り合い所のすぐそば、海の母の家に設置された階段の下にいた。この上にはノトカとロフが住んでいる。ロフはアウシュリスにとってこの集落に来て最初に名前を教えてくれた相手だ。彼にも完全に気を許しているわけではなかったが、他の人間よりはあてになる気がした。


 無言で階段を上がっていくと、階段を踏み締める足音に気づいたらしく、ロフが顔を出した。上半身は裸だ。ロフはガラサの民にしては髪を短くしているので、寝癖がかなり強く出る。


「あれ、おはよう。どうしたの? 鬼気迫る表情で」

「ちょっと入れてくれないか」

「いいけど、なんで? 兄さんは?」

「ぶん殴ってきた。たぶんまだ床に転がっている」

「あら、そう。まあ、いいよ。上がって」


 床の上にたどりつくと、広い部屋の真ん中で裸のノトカが寝ていた。掛け布団の布が巻きついているので肝心なところは一応隠れているが、無防備な女だ。


「そのへんに座って」


 言われるがままに適当に腰をおろすと、ロフがひょうたんから茶碗に水を注いで持ってきてくれた。口をつけてから渇きを思い出した。一気に飲み干す。からからだった。喉から胃へ水が落ちていくのを感じて、ようやく生きた心地がした。


「で、何があったって?」


 ロフが向かいに座る。


「喧嘩した?」


 子供みたいな顔をした年下の青年に真剣に問われて、アウシュリスの胸のうちにまた別の恥ずかしさが込み上げてきた。


「喧嘩、なのだろうか。ちょっと、頭に来てしまい……」

「兄さん、何したの? 浮気とかはするようなタイプじゃないと思ってたのにな」

「浮気」


 それは本命の相手がいる人間が余所見をした結果起こる現象ではないのか。バダルの場合は何がどうなれば浮気に該当するのだろう。誰か本命の人間がいるのだろうか。そしてそれをロフは把握しているのだろうか。


「浮気……とは……?」


 族長なのだから婚約者ぐらいいるのではないか。それに思い至って、アウシュリスは思いのほかがっかりしてしまった。その想像が正しければ、バダルには他に本命がいて、アウシュリスに求めていたのはやはり痴態をさらして性的な充実感を満たす性奴隷ではないのか。


 アウシュリス以外にいい人がいるのか。


 自分で考えたことなのに傷ついてしまった。しかし、どうしてここまで傷つくのか。バダルが誰と結婚して誰と性行為をしても関係がないではないか。


 バダルがアウシュリスを大事にしてくれていると思うのは、思い上がりではないか。


 悲しい。


「俺が……浮気相手のほうなのでは……」


 今、きっと、自分は情けない顔をしている。それをロフに見せるのはあまりにも恥ずかしすぎて、ついついうつむいた。


 しかし、そんなアウシュリスの気持ちを嘲笑うかのように、ロフが「ははあ」と言った。


「とうとうヤったんだ」


 弾かれたように顔を上げた。ロフは機嫌がよさそうに笑っていた。


「おめでとう」

「何がだ!」


 反射的に殴りそうになってしまったが、相手は頑丈そうな年上のバダルではなく華奢で年下のロフである。ぐっとこらえる。


「この俺のケツが掘られたというのか」

「王子様なのに汚い言葉を使うなあ。まあ、でも、そういうことじゃないの?」

「断じて違う。断じて」

「でも何かされたんだね」

「それは……」


 言い淀んだアウシュリスに、ロフのほうから近づいてくる。ロフが顔を覗き込んでくる。


「いや……、あれは、その……」

「嘘がつけない性格なんだね。わかりやすい」

「だが、その……、あいつは、俺を辱めようとして……」

「でも最後までヤられたわけではない、と」


 尋問されている気分だ。


「兄さんの腕力なら、本気になればむりやり押さえつけて挿入できると思うけどね」


 そう言われると、そんな気もしてくる。『イステアの軍神』と呼ばれたアウシュリスが腕力で負けるかどうかはわからないが、そういう雰囲気になった時にどこまで抵抗できるかは未知数だ。人間は心身に予想外の恐怖が迫ると固まってしまうことがある。軍隊で嫌というほど学んだ。


 あれは決してむりやりされてのことではなかった。酒や音楽に酔ってはいたが、あの時は確かに、自然と受け入れていた。


 バダルは挿入を求めなかった。なぜだろう。女性の代わりにするなら肉の穴をもてあそぶはずだ。でも、彼はそうしなかった。自分にもあるものを丁寧にしごいて、終わった。なんなら気持ちがよかったのはアウシュリスだけだ。


 黙り込んだアウシュリスに、また別の声が投げ掛けられた。


「そんなことより、アウシュリス」


 気がつくと、すぐそばに布で胸と下腹部を覆ったノトカが立っていた。


「お前、新しい仕事を請け負わないか?」


 仕事、と言われて気持ちを改めた。アウシュリスにとってこれはまったく脇に置いておける『そんなこと』ではないのだが、気が紛れることをしたいという気持ちはある。居住まいを正す。


「何だ」

「王族で軍の高官であったお前に訊くのは愚問だとは思うが、お前、読み書きは得意か?」

「愚問だな。人並み以上にできねば話にならん」


 ノトカが柱のほうに向かって手を伸ばした。そこに紙の束の山ができていた。彼女はそのうちの一束を手に取った。アウシュリスの膝のあたりに落とすように投げる。


 アウシュリスは目を見開いた。


 イステア語の新聞だった。


「マクイ族の全員がそれを読めるようにしたい」


 ノトカは、真剣だった。


「お前、指導できるか?」


 ガラサの海での怠惰な生活に、変化が訪れようとしている。




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