第4章 アウシュリスが必要とされた理由《わけ》
第12話 新しい生きがいと存在価値
夕方、集落の中央の寄り合い所に、総勢十五名の子供が集まった。五歳から十五歳までの少年少女である。彼ら彼女らは最初こそ少々落ち着きがなかったが、アウシュリスがロフに渡された石板と炭を配ると真剣な顔をした。
ノトカには大人への読み書きの指導も依頼されている。大人の戦士たちは一応読み書きができることになっているが、イステア人から直接教授されたわけではないので、非効率的な独学で勉強しているらしい。こちらは明日の朝戦闘訓練が始まる前にお願いしたいと言われた。アウシュリスからしたら、自分も戦闘訓練に参加させてほしいので、そこで合流できるのならばかえってありがたい話だ。
「アウシュリス、これはどう書くの」
「これは、こうだ」
「うまく書けないよお」
「時間はかかるが練習すればうまくなる。これは練習だ。運動の訓練と一緒だ。お前たちも海に潜るのには何度も練習したろう?」
充実した時間になった。
イステア社会では身近に小さな子供がいなかったアウシュリスは、最初は自分が子供の相手ができるか不安だった。だが、みんな素直に勉強している。それが嬉しい。どんな内容にせよ教わっていることに興味を持ってくれるのはいいことだ。こちらもやりがいを感じる。すべてが順調とまではいかないが、やっと自分にしかできない仕事を見つけた気がした。
必要とされている気がした。
「おー、やってるやってる」
日が傾いてきた頃、闖入者が現れた。鷹揚な態度でイステア語教室と化した寄り合い所に入ってきたのは、族長のバダルである。
子供たちはみんなバダルが大好きだ。特に年少の子たちは石板と炭を放り出してバダルに駆け寄っていった。きゃっきゃ、きゃっきゃと楽しそうな声を上げながら、バダルの腕や腹にまとわりつく。バダルが「なんだなんだ」と笑って子供たちとたわむれ、床に転がす遊びを始めた。
無邪気でのどかな様子に、アウシュリスはわずかにうらやましさを感じた。自分もあんな子供時代を送れていたら多少違う人生だったかもしれない。
そうして見つめてくるアウシュリスの視線を、バダルはいったいどう解釈したのか。彼はアウシュリスと目が合うと、こんな軽口を叩いた。
「お前もこっちに来るか? 抱っこしてやるぞ」
アウシュリスは顔が真っ赤になるのを感じた。
抱っこという言葉で、昨夜の、後ろから抱きかかえられての行為を、まざまざと思い出した。
「貴様、子供の前で……っ」
「何考えたんだよ、やらしいやつ。俺は子供の前で話せないようなことは何も言っていないぞ」
怒りと羞恥が沸き起こってくる。子供たちに文字を教えている間は忘れていたのに、脳内の時間が今朝に引き戻されてしまった。
あんなやり取りをしても平然としていられるバダルが信じられない。アウシュリスは殴って逃げるくらいの羞恥を感じたのである。ちなみにあの時は裸足で家を出てしまったが、今はロフからの施しで別のサンダルを履いている。
子供たちがアウシュリスとバダルを見上げて様子を窺っている。アウシュリスが一方的に興奮しているだけだったが、二人の間に何かただならぬことがあったのは感じ取っているらしい。
ある少女が「けんかはだめだよ」と呟いた。
「ガラサのことわざでは、ふうふげんかはいぬもくわない、っていうんだよ」
「誰と誰が夫婦だ!」
アウシュリスが怒鳴ると、子供たちが委縮した。アウシュリスは慌てて「すまん」と謝罪した。
「ちびちゃんたちは自習していなさい。アウシュリスは俺とお話があるから。適当に復習をしたら家に帰りなさい、そろそろ夕飯作りの手伝いに行きなさい」
バダルのそんな言葉に、子供たちは「はあい」と素直な返事をした。
「貴様との話などない」
そう言うアウシュリスの肩を、バダルがしっかりと抱く。そして、外へ歩いていこうとする。引きずられるようにして連れていかれる。バダルは力が強い。彼に歯向かうためにはアウシュリスも全力を出す必要がある。
屋根の外の空は金色に染まっていた。バダルの言うとおり、そろそろ夕飯作りの時間だ。勉強に夢中になっていて気づかなかった。子供も案外集中力がもつものだ。
寄り合い所の近くに生えている椰子の木のそばに来た。木陰に隠れて、二人で向き合う。アウシュリスは苛立ちが収まらなかったが、子供たちも、周りで家事を始めた大人たちもこちらに注目している。さすがのアウシュリスもこんなに人目のあるところで族長と口論や殴り合いはしないだけの分別はある。
それにしても、恥ずかしい。
今は肩を抱く彼の大きな手が、昨夜はアウシュリスの弱点を握り締めていた。あの感触を、思い出しそうになってしまう。
気持ちがよかった。
そんなことは考えたくない。
「俺には貴様と話すことなどない。今夜はロフの家に帰る。しばらく泊めてもらうことにしたぞ」
バダルの腕を振り払い、みだらな思考も振り切ってそう宣言すると、バダルが「つれねえなあ」と言った。
「そんなに嫌がるとは思っていなかった。悪かった」
案外素直に謝罪されて、アウシュリスも拍子抜けした。
「しらふの時にすべきだったな」
「そういう話ではない」
「じゃあどういう話だよ」
さて、そう問われると言葉に詰まってしまう。アウシュリスは、自分は何に怒っているのだろうと考え始めた。なにせあの時はもっとされたいとまで思ってしまっていたのである。みだらな欲望をもった自分を心の中で全否定したいが、バダルがそういう欲望を発散させてくれたのだとしたら、こちらのほうが悪い気もしてくる。
「……悪かったって」
その無言をいったいどう解釈したのか、バダルは少し間を置いてから再度そんなふうに謝ってきた。
「話を変えよう」
「あ、ああ」
つい流されてしまう。この話題が気まずくなってきたのもあり、むしろ助かった気さえする。
「文字を教えてくれてありがとうな。助かる」
この男は謝罪も感謝も適切な時に適切なタイミングでできる。乱発はしないが、今こそ、という時は結構簡単にこういう言葉を口にできた。アウシュリスは、かえって、こういうところが本当に育ちがいいということなのだ、と思うことがある。バダルは親に正直であるようしつけられたのだ。得がたい素質であった。そういえばロフにもこういうところがある。先代の海の母は人間ができた女だったのだろう。
「ノトカに聞いたぞ、明日は戦士たちにも教えてくれるんだってな」
すっかり毒気を抜かれてしまって、アウシュリスも素直に「ああ」と頷いた。
「俺にできることがあれば。せっかくここにいるのだから、俺も俺の仕事を持ちたい」
「真面目な奴。俺は救われているけど、悪い奴には騙される」
何を言いたいのかわからないが、騙されると言われるのはあまり気分のいいことではない。また、ちょっとむっとしてしまった。
「べつに働いてもらうためにお前を貰ってきたわけじゃないが、お前にとって新しい生きがいになるって言うんならガラサ側としてもありがたい話だ」
「そうか」
では何のために貰ってきたのか、と訊こうとしてためらった。今でもまだバダルがアウシュリスを性奴隷として扱おうとしているとまで思っているわけではなかったが、自分の立場は本当はナンファスでも代替できる。少しでも何かが違っていれば、ここにいるのはナンファスだった。ナンファスでも同じように必要としただろうか。そして、バダルはナンファスでも昨夜したようなことをするのか。
バダルが腕を伸ばしてきて、アウシュリスの頬を揉むようにつかんだ。
「あんまり難しいことを考えすぎないようにな。気になることがあるなら何でも言え」
硬くなっていた頬の肉をほぐされる。
「本当に、何でも?」
「それに俺が全部返答するとは限らないけど」
アウシュリスはバダルの手を叩き落とした。
「まあ、とにかく、明日からはよろしく頼むぜ。ロフには椰子の実を贈っておくわ」
それがバダルなりのロフへの謝礼なのだろうか。とにかく、アウシュリスはロフの家に滞在することが決まったようだ。もやもやするものの、そもそもアウシュリス自身が望んだことだったので、何も言わずに去っていくバダルの背中を見送った。
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