第3章 海の王の花嫁
第9話 ガラサの音楽、ガラサの歌、ガラサの言語
マクイ族は今夜も宴会をしている。
ガラサの民にとっての宴会は、部族の結束の固さを確認する儀式だ。美しく化粧をした巫女たちの舞を見た後、みんなで酒を飲みながら踊り狂う。
式次第だけ見ると、吟遊詩人の歌を聞いた後ワインを飲んでダンスをするイステア貴族の舞踏会と似ている。だが、あちらの舞踏会は駆け引きが難しくて精神的に大変だった。一方ガラサの民の宴会はみんなあけっぴろげだったし、踊ることに腰が引けているアウシュリスをむりやり立たせようとしないでくれる。一応王族であるアウシュリスに色目を使ってくる令嬢もいない。
ガラサの民は音楽が好きだ。主に使うのは打楽器で、大小さまざまな太鼓や
ロフが弦楽器を弾いている。三弦の楽器で、リュートに似ている。彼がこの楽器を掻き鳴らしながら歌うと、少女たちがきゃあきゃあと騒いだ。楽器ができる男はもてるようだ。先ほどまで中央の焚き火の前で舞っていたノトカが、怖い顔でロフの様子を見ている。
不意にロフと目が合った。彼は愛想よく微笑んで立ち上がり、こちらに近づいてきた。
「興味ある? 貸すよ」
アウシュリスは慌てて首を横に振った。
「俺には音楽の素養がない。子供の頃にバイオリンを習わされたが、十二歳で軍隊に入った時に辞めてしまった」
「音楽は魂だよ。技術じゃない。ちょっと音を鳴らして歌うだけでいいんだよ」
軽い気持ちでべらべらとしゃべる陽気なロフに、イステア軍隊の寡黙な男たちの縦社会で育ったアウシュリスはちょっとたじろいでしまう。手を振って「いいから、いいから」と遠慮するアウシュリスに、「いいって、いいって」と言いながら楽器を持たせようとするロフの押し問答になった。
「おい、やめろ、ロフ」
一人手酌で酒を飲んでいたバダルが、止めに入る。
「嫌がっているところを強要するな。お前のそういう強引なところ、アウシュリスに嫌われるぞ」
バダルはガラサの王だが、特別な高座に座るわけではない。みんなと同じように地べたに敷いたござに座り、自分で自分のさかずきに酒を注いで静かに飲んでいることが多かった。
「ええ、そんな怖いこと言わないでよ。僕はアウシュリスが大好きで、アウシュリスと仲良くなりたいのに」
「そういうの、イステアでは嫌われるんだぞ。イステアでは男は黙ってどっしり構えているのがいいんだ」
「兄さんみたいに? 可愛げがないね」
ロフが楽器の首を適当に持ったままバダルに近づく。
「じゃあ、兄さんがかわりに何か弾いて。盛り上げてよ」
楽器がロフからバダルに明け渡された。バダルは顔色ひとつ変えずに冷静に受け取った。バダルが積極的に音楽に関わるところを見るのは初めてだ。アウシュリスは興味深く思って、見張るようにバダルの様子を見つめた。
バダルが楽器を構える。あぐらをかいて楽器の尻を腿の上に乗せ、左手で弦を押さえ、右手を構える。
ぽろん、ぽろん、と、音階の存在を感じる音が鳴る。
そこにいた全員が黙った。視線が一ヵ所に、バダルの手元に集中する。
しばらく前奏と思われる部分を弾いてから、バダルは口を開いて静かに歌い始めた。低い声が鍛えた腹から響いてくる。それはロフが求めているような激しい踊りのための音楽ではなかったが、
一音一音が明瞭に発音されているのに、歌詞が聞き取れない。おそらく、数十年前の同化政策で絶滅したと思われているガラサの民の言語なのだろう。母音の多い、開放的な音の連なりは、優しい音楽によく似合った。
イステアの最先端の技術やそれを使いこなすための言葉を学ぶことは、良いことだとされていた。アウシュリスもイステア語しか学んでこなかったし、この言語を周囲に広めることは文明開化のために必要なことだと思い込んでいた頃がある。だが、こういう場面に居合わせると、なんと傲慢なことだったか、と思う。世の中にはいろんな声があり、いろんな音がある。言語は学問のためだけに存在するわけではなく、学問が言語の数だけ存在すればいい。
ガラサの音楽、ガラサの歌、ガラサの言語。
バダルの低く優しい声が、心に染み渡る。
アウシュリスがまぶたを伏せて聞き入りながら片膝を抱えた時、歌は終わってしまったようだ。ここはイステア音楽と共通しているのか、最後に半音上がって半音戻って止めの音が掻き鳴らされた。周囲の人々が指笛を鳴らしたり拍手をしたりして感動を表現した。
「おら、お前ら。今日はこのへんで終わりにするぞ」
バダルがそう言いながら立ち上がった。すぐ近くにいたロフに楽器を戻す。バダルの号令を聞いて、老若男女が片づけのために動き出した。ロフも楽器をしまうために一度どこかへ下がっていった。
アウシュリスがまぶたを上げ、膝から上半身を起こすと、バダルがすぐそこまで歩いてきていた。
「今日は悪酔いしていないか?」
問い掛けられて、アウシュリスは頷いた。今夜はまだ一杯しか飲んでいない。しかもその一杯も周りがイステア人のアウシュリスにはガラサの酒が強すぎることに気づいて水割りにしてくれたものだ。
「気持ちよくほろ酔いだ」
「そりゃいいことだ」
バダルが手を伸ばしてくる。何かと思って表情を消す。もう彼に傷つけられることはないと信じているが、それでも生まれてこのかたずっと他人と物理的に距離を保ち続けていたアウシュリスは、ガラサの人々の距離感に慣れない。
バダルの大きな手が、アウシュリスの赤い髪を撫でる。包み込むように、頭蓋骨の丸さを確かめるように、ゆっくり優しく撫でていく。
アウシュリスは目を細めた。
同じことを他の人間にされたら、侮辱だとして斬り殺そうと思っただろう。しかしバダルにこうされるのは嫌ではなかった。まるで宝物になったかのような気分だ。あるいは猫や犬といった可愛い生き物になった気分である。
愛でられている。
その感覚は、悪くなかった。
「ちょっと片づけを手伝ったら、すぐに家に帰ろう」
バダルが手を離し、立ち上がった。アウシュリスは一抹の名残惜しさを感じたが、周りがみんなせわしなく働いているのにいつまでも座り込んでいるのは悪いので、急いでバダルの後を追い掛けた。
夜が、更けようとしている。
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