第3話 決定的な敗北、一方的な和平交渉

 翌日、アウシュリスは早々にブルヤに送られることになった。一刻も早くガラサ側との交渉をしたいためだと聞かされた。


 二日前までのアウシュリスの立場であったら、停戦交渉の主体はアウシュリスだっただろう。王族として、政府の代表者として、戦勝国の指揮官の一人として、アウシュリスは幾度となく敵国と話し合ってきた。三年前のガラサの動乱も対応したのはアウシュリスだ。ずっとそれが大陸の平和のためだと思っていた。自分はそれくらいの重責を担ってきたし、生きがいを感じてもいた。生きている、と思えた。イステア王国に貢献している、兄の名代として活躍している、と感じられた。


 だが兄はそんなアウシュリスが目障りだった。


 何を考えていても、ヴェルトゥースの、アウシュリスのかわりなどいくらでもいる、という言葉に帰結する。すべての話がそこに行きつき、アウシュリスの思考回路を処断する。


 今の精神状態ではガラサ側とまともに対話することはできないだろう。だからイステア国軍の将官や外交官がやり取りする、というのは仕方のないことだ。間違っても立場を奪われたなどと考えてはいけない。だいたい人質が人質解放のために交渉するというのも変な話だ。


 豪奢な馬車に乗せられて、石畳で舗装された道をゆく。


 この道はイステア王国がブルヤを征服した直後に作られた道だ。先住民の暮らしを楽にしてやるための公共工事の賜物だった。

 征服者である祖父からその話を聞いた時、幼き日のアウシュリスは、イステア王国の豊かさと先住民に対する寛大さに感動し、自分もそんな政府要人になりたいと思ったものだった。

 だが、ブルヤを占領された今となっては、ありがた迷惑だったのかも、と考えてしまう。

 ガラサの民の女子供が強制労働に従事させられた。どんな労働に、と思った時、南国の灼熱の空の下で汗をかきながら土の道に石畳を並べ続ける彼ら彼女らの姿が浮かんだ。




 ブルヤにたどりついたのは、エレファを出発してから一週間近く経ったある夜のことだった。馬車でちんたらと移動したので、馬で駆けるより時間がかかったのだ。


 しかし、この移動の間、ガラサの民は静かだった。バダルを中心とする各部族の族長たちは、焼け落ちた総督府の横、イステア守備隊の武器庫でおとなしく寝起きしていると聞く。


 武器庫を押さえられてしまった。守備隊にはもはや手出しできない。


 バダルという男はかなり頭が切れる。これまで、最小限の労力で最大限の成果を出し続けている。


 いずれにせよ、彼らはアウシュリスを含めた中央政府高官の一団が到着するまで何もしないという約束を守った。イステア系住民に身の回りの世話をさせつつも、乱暴狼藉を働くことまではしないのだそうだ。ブルヤの役人たちは彼らを毒殺することも可能だったらしいが、そんなことをしたらガラサの民に連帯している非イステア系住民が爆発することが目に見えている。


 その日の夜、アウシュリスはほとんど寝つけなかった。


 自分はもう軍の任を解かれた。明日からはガラサの民の下で暮らすことになる。


 どんな暮らしになるのだろう。

 もっと言えば、何をさせられるのだろう。


 灼熱の空の下で道に石畳を並べ続ける人々の姿が、脳裏に浮かんでいる。


 それは、奴隷とどう違うのか。


 明日からは奴隷として生きるのかもしれない。


 鞭で打たれたり、棒で殴られたりする場面を想像する。


 それでも耐えねば、と自分に言い聞かせた。いまさら怖がってはいけない。彼らもそういう歴史をたどってきたのだろうから、イステア人である自分が同じ苦汁を舐めさせられても仕方がない。


 殺しはしないだろう、という目算もあった。そうしたら人質の意味がないからだ。つまり見せしめのためにずっと何かに使われることになる。どちらがましだろうか。つらい生か、恐ろしい死か。


 意外と臆病な自分に気づいた。軍神などと呼ばれて崇められてきたので、自分はもっと勇敢な人間なのだと思い込んでいた。

 明日からの過酷な生活に恐怖している。

 そんな自分を、情けなく思う。




 ろくに眠れないまま朝を迎えた。


 何を思ったかイステア側の人間はアウシュリスに貴族風の衣装を着せた。軍服ではなく、王族の礼装だ。南部州は一年じゅう暑い地域だというのに、重いコートに袖を通す。何もしなくてもじっとり汗をかいた。

 これが最後の絹かもしれない。兄によるはなむけかもしれない。いざという時には売っていくばくかの金にできないだろうか。

 心がどんどん重くなっていく。


 バダルとの会談の場は青空の下に用意されていた。見晴らしのいい公園の真ん中だ。これもバダル側からの要求らしい。これなら敵も味方も潜ませづらい。また、ガラサ側は周りを囲む森に逃げ込めばあとは地の利でなんとかなる。イステア側には熱帯の密林で兵を展開する知識や経験はない。


 組み立て式の簡易なテーブルがひとつと椅子が六脚設置されている。こちら側三人、あちら側三人、を意味している。こちら側は、かろうじて生き残ったブルヤ総督、中央政府から派遣された植民政策大臣、そしてアウシュリスである。


 ガラサ側はイステア側が支度してだいぶ経ってからもったいぶって現れた。六人の集団で来て、うち三人が日傘を差して他三人のために日差しを遮っている。この日傘を差してもらっている三人が身分の高い人間なのだろう。六人のうち五人が男性で、彼らは全員筋肉質で背が高かった。いずれも袖のない麻の民族衣装を着ていて、黒髪を長く伸ばしている。


 身分が高いと思われた三人が、席に着いた。


 向かって右側は頬に傷のある男だった。六人の中で一番背が高く、袖のない服の肩が筋肉で盛り上がっている。きつい目つきでこちらをにらむように見つめている。年齢はまだ三十歳前後のようだったが、歴戦の猛者の風格だ。


 向かって左側は若い女性だった。滑らかな頬、大きな瞳に長い睫毛の、綺麗な女だ。他二人の男たちと比べると小柄に見えるが、女性のわりにはたくましい腕をしており、ぶれない体幹が美しい。彼女は涼しげな無表情で、心の動きを読ませない。


 そして、真ん中の男は、うっすら笑っていた。太い眉、くっきりとした二重まぶた、厚い唇の男だ。年は二十代後半程度か。胸を張っている様子は彼を非常に大きく見せた。思ったより甘い顔立ちの男だったが、その堂々とした態度には、海の民の王としての貫禄があった。


 三人とも、金の瞳と紫の瞳のオッドアイだった。典型的なガラサの民だ。


 ブルヤの総督と隣にいた大臣が立ち上がった。深く頭を下げ、無言の礼を取っている。それを見て、アウシュリスもなんとか腰を上げた。そして、同じように頭を下げ、目線を落とした。


 こちらが先に礼を取らなければならない、というところに、負けたのだ、というのを痛感させられる。


 ガラサ側も、中央の男が立ち上がった。


 彼は右手を差し出した。


 最初、それが意味するところが何かわからなかった。


 動揺したイステア側の三人に、男が言う。


「ほら、お前らは対等な話し合いをする前には挨拶として握手というものをするんだろう」


 向こうから挨拶と対等な話し合いを提案されている、というのは、決定的な、覆しようのない上下関係を意味していた。譲歩してもらっているのだ。向こうが、厚意で、イステア文化に合わせてくれている。それを突きつけられた。


 ブルヤ総督が彼の手を握った。総督の手は震えていた。恐怖か、屈辱かはわからない。いずれにせよ、唇を引き結んで、蒼い顔をしている。


「俺がバダルだ」


 男が言った。


「ガラサの民の長、マクイ族の族長バダルだ」


 この男が、今回の反乱を収めるための鍵を握っている、現在のイステア王国の最重要人物だ。


 バダルは、総督の手を離すと、左右の男女を紹介した。


「こっちは俺の従兄で、デバダ族の族長のガイン。ガラサの中では屈指の戦士で、今回の蜂起では大きな戦果を挙げた」


 こわもての男が軽く会釈する。


「こっちは巫女のノトカだ。俺が政治的なかしらだとしたら、ノトカは宗教的な頭でな。女性の権利を認めない陰険なイステア人どもには想像がつかないかもしれないが、ガラサでは巫女が時として族長より強い発言権を持つ。彼女にも状況を直接把握してもらって、場合によっては助言を乞いたい」


 女が「よろしく頼む」と言う。落ち着いた、少し冷たいくらいのやや低い声だった。


 バダルの声音も平常心を伺わせるもので、どちらかといえば状況を楽しんでいるかもしれないと思わせるほど明るい調子だった。それでいて、理知的な、明瞭な言葉遣いで話している。肌の色や瞳の色は違っても、イステア人とガラサの民の知性に差異はない。それをまざまざと見せつけられ、彼らを非文明人として侮ってきたイステア側は縮こまった。


「まあ、座れ」


 場を取り仕切っているバダルがそう言って初めて、六人全員が座り直した。イステア側は彼に従うしかなかった。


「俺たちの要求は先週言ったとおりだ」


 バダルが指を折りながら、自治権の話、賠償金の話をする。


「それで、最後に。王族を一人よこしてくれるんだったな」


 アウシュリスは頬の内側を嚙んでうつむいた。


「王家に姫君がいなくて残念だ」


 そう言ったのはノトカだ。彼女は至極冷徹な様子でしゃべった。


「妙齢の女性がいればこのバダルと結婚させたのだが、うまくいかないものだ。イステアの高貴な女に族長の子供を産ませるのが一番効果的にイステア王家を辱める行為だと思っていたのに」


 アウシュリスはぞっとした。自分に姉妹か従姉妹がいればもっと大変なことになっていたということだ。男の自分でよかったと思った。


 バダルがくつくつと笑いながら「そんな意地悪を言うなよ」とノトカをたしなめる。


「我々はイステア人たちが思っているより理性のある民族なので、王子様で妥協してやる。乱暴な扱いはしないから、安心するといい」


 ガラサの三人がアウシュリスを見つめた。


「なあ、アウシュリス殿下?」


 汗が流れるのは、暑いからだけではない。


「連れて帰るぞ」


 ガインが特別低い声で言う。


「今すぐにだ。お前は俺たちと海に来る。そういうさだめなのだ」


 無言のままでいるアウシュリスをよそに、植民政策大臣が口を開く。


「自治権と賠償金の話は即答できない。しかし国王陛下は前向きに検討するとおおせだ。決して悪いようにはしないであろう。一ヵ月以内に取りまとめてお返事をさしあげる」

「そうかい」

「アウシュリス殿下の件は……、では、まあ、このまま、よろしくお頼み申す」


 バダルが声を上げて笑った。ガインとノトカは不愉快そうに眉間にしわを寄せた。


「おいで、アウシュリス」


 そう言いながら、バダルがまたもや立ち上がった。そして二度と座らなかった。


 大きな手が、アウシュリスのほうに向けられる。


「俺たちと一緒に海で暮らそう」


 拒めなかった。


 アウシュリスはしぶしぶ立ち上がり、泣きそうになるのをこらえながら、一歩を踏み出した。その腰を、バダルがしっかり支えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る