第2話 イステア王家の三兄弟
北方の平原を発って四日目、ようやく王都エレファについた。しかしアウシュリスの努力もむなしく、すでにイステア国内全土にガラサの民が反乱したという情報が拡散されていた。ブルヤ総督府の権威は地に落ち、イステア軍中央の防衛機能まで不安視されている。挙げ句の果てには他の先住民もガラサの民に呼応して決起するという噂まで流れてきて、ブルヤどころか王国の政治体制が危機に陥っていた。
アウシュリスは立ち寄ったいろんな街で冷静な対応を説いてきたが、政治的不安は感染症のように伝播して止まらない。アウシュリスの言葉を聞いた各都市の守備隊は一応結束を固めた様子を見せてくれたものの、一般市民は全員が全員それで収まるわけがない。特に非イステア系の民の動揺はどれほどのものだろうか。
イステア人と非イステア人の関わり方は各地方によって違う。アウシュリスの主観では、南に行くほど政情は安定しているはずだった。けれど、最南端の海辺に住むガラサの民がふたたび蜂起したということは、主観は主観でしかないということなのだろう。自分の状況把握能力の低さにがっかりする。
ただ、どこかで誰かが情報を握り潰しているのではないか、という気もする。
政治的局面の最終判断は王が下すものだ。口うるさい弟のアウシュリスを地方の戦場にやって自分はアウシュリスに内緒で好き勝手する、というのも、できなくはない。ずっと目を光らせていたつもりだったが、こんな形で裏切られたか。
「兄上!」
アウシュリスは宮殿の廊下を蹴るように歩き、軍靴の底を鳴らしながら兄である国王ヴェルトゥースの執務室に入っていった。そこには豪華な革張りのソファが左右に一セットあって、兄のヴェルトゥースが出入り口から見て向かって右側、弟のナンファスが左側に座っていた。
長男のヴェルトゥースも三男のナンファスも、無言で固まっていた。一ヵ月ぶりに帰ってきた次男のアウシュリスをねぎらう言葉はない。
アウシュリスも、兄弟の間に漂う異様な空気を感じて、動きを止めた。話し掛けるのがためらわれた。自分が何か言っただけで部屋の中が崩壊するかのような感覚があった。
それにしても、蒼ざめた頬に引き結んだ唇でも、ヴェルトゥースとナンファスは美しい。二人とも、長いまっすぐの銀髪をしている。女性的な細面は亡き母にそっくりで、この二人が血縁関係にあるのは一目瞭然でわかる。
だが、中間子のアウシュリスだけは文字どおり毛色が違った。アウシュリスだけは父親譲りの少しふんわりとした赤毛をしているのだ。顔立ちもアウシュリスだけが父親似で、背も高く筋肉質であり、対面する者には少々力強い印象を与えるらしい。瞳の色は三人とも父から受け継いだ同じ碧色をしているが、あとは何も似ていない。おかげで、アウシュリスが王の子かどうかを疑われることは一切なかった。同時に、政略結婚で嫁いできて夫に対して愛どころか憎しみさえ抱いていた母には、愛されなかった。
兄も弟も、自分を頼りにしてくれている。
アウシュリスは、その信頼関係だけを頼りに生きてきた。
どんなことが起ころうとも、この二人が自分を必要としていると思えば耐えられた。
だからこの時も、二人の困りごとを解決してやりたいと思った。
しかし、この二人が緊張している原因は、どう考えてもブルヤ情勢だ。
やはり、自分はまた軍隊を率いて他人の土地を踏み荒らしに行くのか。
それでも、この二人が望むのであれば、敬称とも蔑称ともつかない『イステアの軍神』の二つ名を背負って、戦いに赴く。
「兄上……、ナンファス」
アウシュリスは極力静かな声で話し掛けた。
ヴェルトゥースが、深い溜息をつきながらアウシュリスの顔を見た。
「ブルヤは落ちた」
端的な言葉だったが、すべてが語られたも同然だった。
「それで、どうなさるおつもりか?」
「ガラサの民が南部州を出る前に妥協する。なんとか協議をして、最悪の場合ブルヤを割譲して、エレファに攻め入る前に食い止める」
頭の痛い話だった。それでは他の先住民たちも自分の土地を求めて独立運動を展開しかねない。ブルヤのイステア系住民がどう思うかも心配だ。
かといって反撃してガラサの民を殺してしまうのも得策ではない。ガラサの民はイステア人の統治下にある諸民族を味方につけている。各地方で爆発が起きて血で血を洗う争いが無限に続くだろう。
そもそもブルヤ総督府が燃えた時点でこの戦いはイステア政府の負けだ。なにせ彼らはブルヤ総督府を焼き討ちしたという情報を王国全土に行き渡らせたのだ。自分たちに有利な状況を、もっといえば民族独立の気風を高揚させる空気を作り上げた。誰かが裏で入れ知恵しているのではないかと思うほど、鮮やかな勝利だった。イステア政府が打てる次の手は、少なくともアウシュリスには思いつかない。
「それはもうガラサの民に伝えてあるのか?」
「ああ。一昨日にな」
ヴェルトゥースが自分のこめかみを揉む。
一言相談してほしかった、という言葉を飲み込む。アウシュリスが戻ってこようがくるまいが兄はきっとこういう決定を下していた。
「それで、ガラサの民側の反応は?」
「今のガラサの民の代表者はバダルという私と同世代の男らしいのだが、彼とその仲間たちはすぐに話し合ったらしく、今日伝書鳩で返事をよこしてきた」
「対応が早いな」
「向こうは最初から私たちが白旗を上げた時のために妥結の条件を決めていたそうなのだ。戦う前から要求の内容は決まっていた、と」
胸がざわつく。
「何か要求されたのか?」
「まずガラサの民の自治権を要求された」
それは予想のついたことだ。
「次に、五億ペルリの賠償金」
それもなんとなく予想ができた。というより、アウシュリスとしてはその程度の支払いで済むならそれで決着してほしいとさえ思った。金を払ってすべて解決できるのなら、それが一番だ。五億ペルリはイステア王国の国家予算の一割で、痛い支払いではあるけれど、国家が崩壊するほどでもない。ただ、これも他の先住民も欲しがらないのが大前提ではある。みんなくれくれと始まったらその時は国庫は破綻する。
「そして」
背筋がひやりとする。
「まだあるのか」
「誰か王族の人質をよこしてほしいと言われた」
頭が殴られたような衝撃を感じた。
ヴェルトゥースとナンファスが、顔を見合わせて大きく息を吐く。
「ありえない……!」
二人の間にあるテーブルに手をつく。
「それはさすがに過大要求ではないか?」
「私たちもそう思って拒否したのだが、最悪人質だけは早急によこせと」
「しかし――」
愕然とする。
「今の王族とは……俺たち三人しかいないではないか……」
ヴェルトゥースが落ち着いた声で言った。
「私が行くわけにはいくまい。私はこの国の王なのだから」
当然だ。彼はこの国で一番の地位を持つ人間なので、基本的には宮殿を出るべきではない。
突如ナンファスが泣き出した。
「嫌だよお。僕、行きたくないよお。ガラサの蛮族のところになんて、何をされるかわからないじゃないか」
アウシュリスは動揺した。この弟の涙には心底弱い。
末の三男坊として大事にされてきたナンファスは、結構簡単に泣く。けれどアウシュリスはそれを見るたび胸が締めつけられるような痛みを感じる。母にとっての最愛の息子、誰からも可愛がられて蝶よ花よと育てられたナンファスに、適当に育てられたアウシュリスは文句をつけられない。
泣きながら、ナンファスはちらちらと次兄の顔を見ていた。どうも反応を窺われている。
ヴェルトゥースの顔を見た。
彼も無言でアウシュリスの顔を見ていた。
ヴェルトゥースとアウシュリスは、しばし無言で見つめ合った。ナンファスの小さな泣き声だけが響いてくる。
「……そういうわけだ、アウシュリス」
思わずその場に膝をついてしまった。
「お待ちください」
祖父の代から仕えてくれている政務官が歩み出てきた。テーブルを叩くように手をつき、ヴェルトゥースをにらむ。
「アウシュリス殿下は『イステアの軍神』ですぞ。今までいくつの戦争に勝利してきたとお思いですか。アウシュリス殿下のないイステア王国軍などありえません」
「いなくてもなんとかなるだろう」
「根拠は」
「ないが、アウシュリスの代わりなど探せばいくらでもいるではないか。我が国の兵力は大陸最大だ。優秀な将校は他にもたくさんいる」
そこで、ヴェルトゥースはひとつ鼻で笑った。
「だいたいアウシュリスは私の政策に文句をつけてばかりではないか。きっと優秀でない私にイライラしているに違いない。距離を置いたほうがよかろう。宮殿から出ていったほうがいい。それが互いにとって最良の選択だ。兄弟といえど他人だからな」
「実の弟になんたる暴言!」
政務官が顔を真っ赤にしてヴェルトゥースにつかみかかろうとする。それを護衛官たちが三人がかりで止めた。
「アウシュリス殿下の代わりなどいない! ナンファス殿下でいいではないか!」
「ナンファスに苦労させるわけにはいかない。この子はまだ子供なのだから」
「まだ何の役職もない王子など宮殿の居候みたいなものだ!」
周りの秘書官たちが「落ち着かれなさいませ」「陛下を前にしてそのような言葉遣いはなりませんぞ」とたしなめる。政務官自身も途中で何を言っても王が翻意してくれる可能性は万にひとつもないことを悟ってがっくりとうな垂れた。
アウシュリスはその場で膝をついたまま呆然とその光景を眺めていた。
ああ、兄上は俺のことがいらなかったんだな、と、ぼんやり思った。自分の代わりはいくらでもいるのだ。
アウシュリスは今まで粉骨砕身兄に仕えてきたつもりだった。だが、兄のほうは、アウシュリスなしでもなんとかなると思っている。自分によく似た末弟だけが可愛くて、口うるさい上の弟は目障りだったのだ。
ナンファスがちらりとアウシュリスのほうを見た。その顔が一瞬笑っているように見えたが、気のせいだろう。ナンファスはすぐにまた涙を流し始めた。
「アウシュリス兄上、お可哀想に」
口先だけはそう言うが、かと言ってかわってやるとは言わない。
けれど兄の言うとおり、弟はまだ子供だ。この宮殿から出たことがない。苦労させたくない。可愛い弟なのである。
そして、兄が動くことは絶対にありえない。
「……わかった」
アウシュリスは足元ががらがらと崩れ落ちるような不安を感じながら頷いた。
「俺が、南部州に人質として行く……」
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