第20話 俺は帰らない
役所仕事は対応が遅いという偏見があったので、その日の夕方に謁見の機会を設けてもらえることになったのに驚いた。アウシュリスたちはしばらく総督府の貴賓室でもてなされていたが、そう遅くない時間に遣いの者が来て、王も総督もすぐお会いになると告げた。アウシュリスはあまりの対応の良さに驚いたが、バダルは冷静だった。
「お前に会いたいんだろうよ。でもそれは親愛の情からくるものじゃないから、絶対に騙されるな。ほだされるな」
アウシュリスは頷いた。毒にしかならない家族から守ってくれるバダルが頼もしかった。それに、向こう側はアウシュリスに会って情報を引き出したいのだろう、ということも重々承知の上だった。アウシュリスは今やガラサとイステアの命運を握る存在である。なんならアウシュリスをもっとうまく利用するために取り戻そうとするかもしれなかった。
イステア王国に住む先住民はガラサの民だけではない。バダルが情報収集をしたところによると、アウシュリスを獲得したガラサの民を妬んでいる民族もあるようである。ガラサの民から回収して他の民族に送り込む、ということも、まったくありえないではなさそうだった。
それでも、絶対に服従しない。
貴賓室で世話をしてくれていた人々はアウシュリスにイステア式の服の支度があると言ったが、アウシュリスは固辞した。アウシュリスの矜持の問題だ。いまさらイステア社会に戻ってこいと言われてももう遅い。
夕方、総督府の総督が来客に会うための広間に呼ばれた。来客、といっても、ブルヤ総督が客人としてもてなすのは王と外国の高官だけだ。多くの役人や軍人、一般市民たちはひざまずいて首を垂れて待たされる。
しかし、今回は先に総督のほうが広間に入ってバダルたちを待っている、と言われた。バダルが海の王として認められ、外国からの賓客と同じ扱いをしてくれる、ということだろうか。
これはひとつの罠だと、アウシュリスの胸の中で警鐘が鳴り響く。だがアウシュリスは武器を持っていない。最悪そばに控えている兵士から剣を奪って抵抗することもありえるか、などと考えて緊張した。
扉を守る兵士たちが、うやうやしく頭を下げる。バダルが堂々とした足取りで先頭を行く。アウシュリスは、人質らしく振る舞うためにバダルとガインに挟まれているように見せかけようと、あえて間にいた。
扉が、ゆっくり、開いていく。
百人を超える人間を一度に入れて舞踏会を催せるほど、広い部屋だった。正面から向かって左、南側にはバルコニーがあって、全面窓ガラスがはまっている。その窓の向こう側に、海に落ちようとしている残照が見えた。太陽はもう西のほうにあり、壁に遮られて直接は見えないが、赤から紫に染まりゆく空は南国のもので、美しかった。
正面奥には椅子がふたつ置かれていた。総督の椅子に座るのは王のヴェルトゥースで、その隣に急遽設置された椅子に座っているのがナンファスである。最後に別れた時となんら変わらない姿だ。
ナンファスは椅子についたまま隣の兄にしなだれるようにもたれかかっている。とても大人のすることには思えないような甘えっぷりだった。彼らは本当に変わっていないと、アウシュリスはしみじみした。自立できない、独立できない人々だ。そしてこういう公的な場でもわきまえられない。
こんな連中に構う価値はない。
殴るまでもない。すでに終わっている。
王が口を開いた。
「久しぶりだな、アウシュリス。小汚い恰好をしている。しかもみっともなく日焼けをした」
何を言われても動揺しなかった。昔の自分だったら兄の一言一言が針のように刺さって悲しみや怒りを感じていただろうが、今の自分は何とも思わなかった。ただ、この恰好をして日に焼けた肌を当たり前のものとしているガラサの民に対する差別心を丸出しにしているのが、兄のほうこそみっともないと思った。
「前に出ろ、アウシュリス」
王がそう言った。
バダルのほうをちらりと見た。
彼は少し間を置いてから、頷いた。
一歩、前に、踏み出した。
ところが、その時、予想外の事態が起こった。
「アウシュリス殿下、万歳!」
そう叫んで、左右の壁際に分かれて立っていた武官たちや文官たちが、一斉にひざまずいたのだ。
波を割るような光景で、一糸乱れぬ動きはまるであらかじめ打ち合わせて挙動を揃えたかのようだった。
何が起こったのかわからず、アウシュリスはその場で硬直した。
王が椅子から腰を上げ、蒼白な顔で怒鳴り散らす。
「貴様ら何をしている!? なぜアウシュリスに頭を下げる!」
武官の一人が立ち上がって大声を出した。
「あなたなど王ではない! 民を虐げ、アウシュリス殿下を捨てた! そんな人間が王冠をいただき続けるなど、我々はもう耐えられない!」
また別の一人が立ち上がった。
「とうとうアウシュリス殿下がお帰りになられた! 我々はそれを歓迎する! そして新たなブルヤの統治者としてお迎えするのだ!」
喝采が響いた。
何を言われているのか、まったくわからなかった。
かつてブルヤの総督だった、文官の一人に格下げされたあの男が、ヴェルトゥースとナンファスの前に歩み出る。
「王よ、王弟殿下よ。現地人にまったく耳を貸さぬあなたがたはご存じないだろうが、彼ら彼女らはアウシュリス殿下がガラサの民に慈悲と慈愛の心をもって接していることをたいへん高く評価している」
初耳だった。思わずバダルの顔を見てしまった。バダルは涼しげな顔をしていた。知っていたのだろうか。あるいは彼がそういう情報を流したのかもしれない。
「我々はアウシュリス殿下に寝返る。あなたがたをここで見切り、新たな総督としてアウシュリス殿下を支持する。あなたがたはエレファに逃げ帰るといい。そしてブルヤの街がどう変わるか指を咥えて見ていればいい」
どこからともなく、エレファの王宮で最初に人質になることを聞かされた時に反対してくれた政務官が飛び出してきた。
「我々は確かに陛下がブルヤを割譲してもいいとおっしゃっていたのを聞きましたぞ!」
ヴェルトゥースが舌打ちをした。ナンファスは真っ青な顔で成り行きを見ているだけだ。
「さあ、言ったとおりになさい! そして私たちはアウシュリス殿下を新たな総督に、いえ、ブルヤの王として推挙するのです!」
人々が歓声を上げた。
「アウシュリス殿下、万歳! アウシュリス殿下、万歳!」
「馬鹿な!」
ヴェルトゥースが美しい
「そのような勝手なことを!」
「では南部州の守備隊のすべてがあなたがたと
「なんという……っ、謀反とみなすぞ!」
「ええ、結構です。もとよりそのつもりです」
全員が、口々に言った。
「国のために戦い続けたのは、『イステアの軍神』たるアウシュリス殿下でした」
なつかしい呼び名だった。『イステアの軍神』というのは、褒め言葉だったのだ。それをいまさら知った。
「あなたたちではない!」
ふたたび喝采が響き渡った。
本当は、みんなが見ていてくれたのだ。
アウシュリスの苦労と努力を、大勢の人が評価してくれていたのだ。
こんなにも多くの人たちがイステア王国の未来を憂えて、それを解決してくれるのは長年戦ってきたアウシュリスだと、信じているのだ。
胸が熱くなる。
でも、アウシュリスは、もうたくさんだった。
ここは、アウシュリスの居場所ではなかった。
人々がこちらに押し寄せてきた。
それから守るように、バダルも一歩出てアウシュリスの前にかばうように手を伸ばした。
「さあ、アウシュリス殿下、こちらにお帰りください!」
人々の手が、こちらに伸ばされる。
でも、もう、心が動かなかった。
「みんな、聞いてくれるか」
アウシュリスがようやく口を開いた。
人々が動きをぴたりと止めた。
みんなアウシュリスを見ている。
アウシュリスは、どうでもいい人間ではない。
それでも、もう、遅い。
「俺は帰らない」
一音一音を確かめるように、はっきりとその言葉を口にした。
「皆の期待に応えられなくて、申し訳ない。……いや、申し訳ないと思うことも嘘だ。正直、どうでもいいと思っている」
アウシュリスは、断言した。
「俺のためを思うなら、放っておいてくれ。俺のことも、ガラサの海のことも。もう何も求めないでくれ」
広間が静まり返った。
ナンファスが大きな声を出した。
「アウシュリス兄上のくせに、そんなわがままを言うの!」
「そうだな」
肩から力が抜けた。今きっと、自分は自然と微笑んでいる。
「何もかもお前に譲る。勝手にしろ」
しかし、その譲り渡されたものは、もはや形骸化した権力であり、滅びなのだ。
「もう二度と俺の名を呼ぶな」
そう言い切ると、アウシュリスは踵を返した。
「強いて言えば。ブルヤを貰えるなら、その時王になるのはバダルだ。俺にはもう何も期待するな」
そして、ガラサの一同に「帰るぞ」と言った。
「馬鹿馬鹿しい。こんなところ、長居するべきではない」
アウシュリスのその一言を聞いて、ガラサ側の人間はみんな声を上げて笑いながらついてきた。
長かった王弟としての人生がここに終わりを告げた音を、アウシュリスは聞いた。
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