第19話 イステア人の服、ガラサの民の服

 アウシュリスは海に来た時に着ていた服を引っ張り出してきた。絹のブラウスにベルベットのコートとズボンの貴族的な服だ。脱いだ時は不快なくらいに汗を吸っていたが、真水で軽く揉み洗いをして干したので、においやしみは残っていない。


 王宮にいた時、また軍隊にいた時は、アウシュリスが自分で洗濯をすることはなかった。洗濯は洗濯女と蔑まれる低賃金で雇用された専門の係がいて、王侯貴族がするには下等な労働として忌避されていた。


 その労働を強いられたというガラサの女たちがマクイ族にもいて、彼女らは総督府で働いていた時に身につけた知識をアウシュリスに教えてくれた。


 ガラサの海に絹や起毛の衣類はない。麻と綿で作られる通気性が良い民族衣装は洗濯も簡単だ。だから本来絹の洗い方など必要のない知識であるので、それを強制的に身につけさせた総督府の人間を嫌悪する。


 イステア貴族の衣装を引っ張り出してきたのは、そういうイステア社会でまっとうな人間であると思われるにはいでたちで判断されることを思い出したからだった。綿の服を着た人間は社会的に下に見られ、絹の服を着た人間は格上に見られる。そういう社会に戻って同じ舞台に立つことを、アウシュリスは考えた。


 ブルヤの街の中心地には、ガラサの人々が建てた高床式の建物を壊して作った、整然としたイステア式の漆喰の建物が並んでいることを思い出す。


 彼らと同じ高さの舞台に立つのか。


 シャツの袖に腕を通そうとした瞬間、アウシュリスは考えを改めた。そして、普段着のガラサの民族衣装を着直した。


 自分はもうガラサの人間なのだ。わざわざイステア人の習慣に合わせる必要などない。ガラサの人々はこの恰好の上に貝やガラスでできた装飾品を身につけることを儀礼の正装としている。アウシュリスもそれに従い、バダルから贈られた真珠の首飾りをつけた。


 ガラサの民が理性的な人々であること、また交渉の場に出す人質の人数は多ければ多いほどいいと考えたことから、バダルは例の兵士二人もブルヤに連れていくことにした。命拾いしたことに感謝してほしいものだが、厚顔無恥な兵士たちは帰れることを手放しで喜び、当然のような顔をしてついてきた。


 最初に会談の場に出てきたバダル、ガイン、ノトカの三人と、兵士たちを拘束するための人手として選ばれた数人の戦士たち、そしてアウシュリスが、徒歩でブルヤに移動する。石畳で舗装された道は血と汗の結晶だ。それを踏み締めながら、アウシュリスは歩いた。ガラサの海に馬はいない。


 ブルヤには申し訳程度の城壁のようなものがある。城壁と言っても、高さはバダルの身長ほどしかない。ただここから内側がブルヤの街であるという境界を示すだけのものだ。人間が住まうところを囲って境界線を明確にする文化は、イステアもガラサも同じだった。


 城壁の門にたどりつくと、イステア人の門番たちに囲まれた。


 すわ一触即発か、と思われたが、彼らはアウシュリスの顔を見るなりひざまずいた。


「おかえりなさいませ、アウシュリス殿下」


 彼らの丁寧な挨拶に、アウシュリスは戸惑った。こんなふうに出迎えられるとは思っていなかった。自分はすっかりガラサ側の人間になり、イステア人とは敵対したものだと思っていたのである。殿下、という敬称をつけて呼ばれるのも、数ヵ月ぶりだった。ガラサの人々は気安く呼び捨てにする。アウシュリスはそれがむしろ心地よい。


「エレファにお戻りになられるのですか」


 言葉に悩んだ。もう一生そんな機会など来ない。しかしそれを彼らにどう説明したらいいのだろう。自分は人質として海に行ったことをいまさら思い出す。


 門番たちに槍の穂先を突きつけられ、同じく槍の穂先を交わそうとしていたガラサの戦士たちを、バダルが片手を挙げて制した。


「ガラサの民からの徴兵について話がある。先触れを出したのにここで追い返されたそうなので、総督はご存じないかもしれないが」


 心当たりがあるらしい門番たちが、言葉を詰まらせる。


「考え直すならこちらで捕まえた兵士二人を返してもいい。加えて――」


 バダルがアウシュリスをちらりと見る。


「お互いの民族の今後について、交渉次第によってはアウシュリス殿下を解放してもいい。それが人質だからな」


 しかし、アウシュリスは不安を感じなかった。あらかじめ、バダルは本気でアウシュリスを手放すつもりはない、ということを聞かされていたからだ。アウシュリスは一時的にブルヤにとどめ置かれることになるかもしれないが、今度はアウシュリスの意志でブルヤを脱走する。そのための逃走経路は確保してある。ブルヤにはまだ大勢のガラサの民が住んでいて、協力者は手配済みだ。


「耳を揃えて払ってもらうぞ、五億ペルリ」


 門番たちが、顔を見合わせる。


「俺も今の総督と話をさせてくれないか」


 アウシュリスは嘘をついた。


「ガラサの海での過酷な生活は耐えがたい。今の総督に俺を返還してもらうことを考えていただきたい」


 髪の毛の一本分も思っていないことではあるので、胸は少し痛む。けれどこれもバダルと打ち合わせ済みであるため、ガラサの人々がいぶかしんでいる様子はない。


 今思えば、彼らはすべて演技していたのだな、ということがわかる。彼らは押しつけられた『昔ながらの素朴な生活』という皮をかぶりながらイステア社会の最先端の情報を追っている。非文明的な民族として侮る人々を騙すことは簡単だ。


「今の総督……」


 門番たちが溜息をついた。


「三ヵ月前、ナンファス殿下が新しい総督としてブルヤにお越しになられたことはご存じですか」

「そうなのか。伝統的なガラサの遅れた社会では情報が入ってこない」

「ちょうど今、そのナンファス殿下のご様子を見に、国王陛下もブルヤにお見えになっています」


 バダルとアウシュリスが視線を交わし合った。

 これは想定外の事態だ。

 兄のヴェルトゥースにはまだ子供がいない。万が一彼に何かあった時の後継者は王弟のアウシュリスとナンファスしかいない。アウシュリスがイステア人としての市民権を捨てて離脱しようとしている今、ナンファスだけが王位継承権を持っていることになる。

 王と王位継承者が同時に、敵意を持った先住民に囲まれている危険な地域に入った、というのか。まとめて暗殺されたらどうするのか。ブルヤ総督府が炎上してからまだ一年も経っていないのだ。

 あまりにも愚かすぎる。


「アウシュリス殿下が国王陛下にお会いになるというのであれば、すぐに総督府の職員に掛け合います」

「あ……ああ、そうしてくれ」


 しかし王が馬鹿なおかげでこちらは手段が増えた。いくらでもやりようがある。

 アウシュリスは前向きに捉えることにした。

 もうあんな奴を兄と仰ぐこともない。

 イステア王家は滅びたければ滅べばいい。

 アウシュリスは偉大な征服者であった祖父を尊敬していた。だが、彼が南下してこなかったら、先住民たちは自分たちの価値観で引いた伝統的な国境を大事に暮らしていただろう。直線的な境界はイステア人の驕りの象徴だ。その線を引いた祖父を、今は、憎悪している。もう彼の血筋を守りたいという気持ちはない。


「兄上に、お会いする。早急に頼む」



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