第7話 森の中の泉で、赤いハイビスカスを摘む

 アウシュリスは自分用のガラサの民族衣装が完成するまでイステアの服でいなければならなかった。

 最初は民族衣装に着替えさせられるのは苦痛だと思っていたアウシュリスだったが、暑くて湿気が多いので、そのうち早く麻の服に着替えたいと思うようになっていた。

 イステアの服には替えがないのもきつかった。ガラサの海の風と太陽は洗濯物をあっという間に乾かすが、そのあっという間というわずかな時間でも、裸で待っていないといけない。


 イステア人の同胞たちは、アウシュリスの服のことまで考えてくれなかった。アウシュリスは完全に身ひとつでマクイ族の集落に連れてこられたのだ。来る時に着ていた服の他に荷物はない。人質はすなわち奴隷であり、衣服の自由などないと思っていた。それがここに来てこういう結果をもたらした。


 アウシュリスが広場の神木と呼ばれる大樹の下で裁縫仕事に悪戦苦闘していると、妊娠中で労働を免除されているお腹の大きな女たちが集まってきて、アウシュリスの作業にああでもないこうでもないと口を出し始めた。最初は煙たがっていたアウシュリスだったが、途中から素直に彼女たちの指導を受け入れ始めた。


「本当はこういう仕事は男がすればいいと思うんだけどね」


 女たちが言う。


「こういうご時世だからね。またイステア人たちと戦わないといけなくなった時のために、働き盛りの男たちはみんな訓練に精を出してる。バダルも他の部族との交渉事で忙しい。代わりにわたしたちが働かないとならない時もある。嫌な時代になったよ」


 のどかに見えるマクイ族の集落にも、紛争が影を落としている。そう聞くとガラサの民を抑圧したおぼえのないアウシュリスまで申し訳なくなってくる。

 むしろ、アウシュリスだからこそ申し訳なくなっているのかもしれない。人質として海に送り込まれたアウシュリスにはもはや何の権限もなかったが、もともとは軍隊の指揮官だったのだ。何かが間違っていれば、自分はこの豊かな集落に火をつけていたかもしれない。


 火をつけていたのだろうか。兄の顔色を窺って、ガラサの集落の家々を焼いたのだろうか。




 ある日のこと、洗濯物を乾かしている間に風呂代わりの水浴びを済ませようと思ったアウシュリスは、森の奥に入った。裸で腰に布を巻いただけの姿で外を歩くのは今でもまだ恥ずかしいが、密林の中ではよほどの至近距離でないと人間の姿を識別できない。緊張はするものの、身の危険を感じるほどではなくなった。


 バダルに教わった泉まで足を延ばす。


 森の中には数え切れないほどの泉や川がある。いずれも北西のほうにある火山の溶岩の中を伝ってきたとかで、清らかな真水だった。熱帯のガラサの地では冷たい川に入るのも悪くはなかったが、中には温泉が湧いているところもある。


 いつもの場所に来て、白い爪先を岩に囲まれた泉の水につける。川の水が混ざったぬるい温泉の水面に、さざなみが立った。


 ゆっくり、足を踏み出す。


 体を包む液体のぬくもりが、言葉にできぬほど心地よい。


 足、腰、腹、胸、と順繰りに湯に浸かっていき、そのうち首から下をすべて沈めた。ふんわりとした浮遊感、わずかにかかる水の圧、何もかもが気持ちいい。


 この世の憂いのすべてを忘れられる。


 ぱしゃぱしゃと音を立てて顔を洗ってから、背後の岩にもたれかかった。


 呼吸ができる。


 背後から、がさ、がさ、と大きな何かがこちらに向かってくる音がした。この音は人間だ。それも大人で体の大きな人間である。


 振り向くと、頭上から垂れ下がる蔓状の植物を掻き分けて、バダルがこちらを覗き込んでいた。


「よお、風呂か?」

「ああ」


 湯に浸かって気持ちが良くなっているアウシュリスは、軽い気持ちで返事をした。


「生き返る」


 バダルが声を上げて笑った。


 彼が静かな足取りで近づいてくる。アウシュリスはもう警戒することも忘れてしまって、彼から目を離して、ゆっくり真正面を向いた。落差の小さい湯の滝が目に入ってくる。周りに小鳥が飛んでいる。小鳥の鳴き声はたいへん可愛らしく、気持ちのなごむものだった。


 不意に頭を撫でられた。濡れた髪をこめかみや頬に撫でつけるような手つきだ。それがやがて頬を揉むように押し始める。緊張で歯を食いしばっていることの多かったアウシュリスは、その手の動きに顔の筋肉がほぐされていく感覚を味わって目を細めた。


 バダルの大きな手が、温かい。


 そのうち、彼はアウシュリスの首に手を這わせた。ここが温泉以外の場所だったら、首を絞められると思って抵抗していたかもしれない。けれど、湯に浸かっているアウシュリスは、首の大きな筋を揉みほぐすその動きをたいへん心地よく感じた。


 流れで、肩を揉まれる。体から力が抜けていく。湯の中に指が入っていき、鎖骨をなぞられる。


「……ん……」

「色っぽいな」


 バダルが耳元でそうささやいた。その途端我に返って、上半身をひねって彼の顔を見た。彼は少し意地悪そうに目を細めて笑っていた。


「ずいぶんリラックスしているらしい」

「……それは……」

「まあ、いいことだ。お前はこれからもずっとここで暮らすんだからな」


 その言葉に、アウシュリスは漠然とした不安感を抱いた。ここでくつろぐことをおぼえ始めたとはいえ、アウシュリスはあくまでイステア王国の王族で、王の弟で、少し前まで軍の指揮官だった。『イステアの軍神』とまで呼ばれた自分が、こんなところでこんなことをしていていいのか。


「俺は、帰れないんだろうか」


 アウシュリスの呟きに、バダルは回答しなかった。彼は何も言わずに立ち上がって、そのへんの茂みに手を伸ばした。そこには大きな赤い花が咲いていた。南国の花だ。それを、彼は丁寧に手折った。


 何をする気かと思って眺めていたところ、彼はその花をこちらのほうへと持ってきた。


 そして、アウシュリスの濡れた赤い髪に差した。


「可愛い」


 花弁に触れていた手の指の背で、アウシュリスの薄い唇を撫でる。


「お前は帰りたいのか?」


 即答できなかった。


 触れられた唇が、熱い。


 その、滑らかな感触を。

 心地よい、と、思ってしまった。


「まあ、ゆっくり考えな?」


 そこまで言うと、バダルは踵を返して森の中に引っ込んでいった。アウシュリスはその背中が見えなくなるまで呆然と見送ってしまった。


「……何だ、今の」


 ひねっていた体を元に戻して、水面のほうを見る。


 透明な水面は定期的にさざなみで揺れていたが、波と波の間に鏡のように人の顔が映っていた。


 白い肌に濡れた赤い髪、碧の瞳をした青年は、見慣れた渋い顔はしていなかった。いつも寄っていた眉間のしわが取れ、いぶかしみながらもどこか穏やかな顔をしていた。


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