第6話 紺碧の海を見に来る運命

 アウシュリスは監禁どころか軟禁すらされている感じではなかった。なんとなく人質だから行動を制限されると思い込んでいたが、家には鍵どころか扉もなく、用を足すために自由に階段をのぼりおりすることができた。途中集落の住民と出くわしたが、彼らは愛想よく微笑んで「こんにちは」と言った。あまりの穏やかさに裏があるのではないかと勘繰ってしまった。


 午前の間ずっと、屋根の下でぼんやり過ごした。


 遠くに、紺碧の海が見える。遠くに、と言っても歩いてもたいした道のりではなさそうだが、海と集落の間にある森が防砂林になっていて、家で塩分を感じることはなさそうな距離だ。


 海に白波が立ち、寄せては返している。しばらく見つめていても、飽きなかった。


 そのうち、階下から声を掛けられた。見ると、呼び掛けていたのはロフとその取り巻きで、家からおりてこいと言う。いよいよ何かさせられるのかと思ったら、昼食は中央の寄り合い所で一族揃って食べるものだと言われた。一族の人間に数えられていることに驚いて、呆気に取られてしまった。


 昼食は、魚の塩焼き、芋のパン、玉ねぎとにんじんが入った香辛料のスープ、木の実と葉野菜のサラダだった。


 普通のガラサ料理が、普通に分け与えられる。


 飢えることを覚悟していたアウシュリスは、こんなにちゃんとしたものを食べていいのか、ひょっとして何か入っているのではないか、と警戒した。だが、どこからともなく帰ってきたバダルが食えと言うので、逆らえない。彼とその家族の目の前で臓腑に納める。特に痺れやかゆみなどなく、おいしいだけだった。


 ここで油断していてはいけない。午後は何か恐ろしいことが始まるかもしれない。敵に食事を振る舞って油断させてから討つのは古今東西で行われている謀殺だ。ここで隙を見せたら殺されるかもしれない。


 殺されるよりもっとひどいことになるかもしれない。たとえば生きたまま皮を剥がれるような、というのを連想する。皮膚の一枚や二枚なくても、人間は死なない。死なない程度に痛めつける方法は、いくらでもある。


 人質は生きていてこそ意味が、価値がある。兄がいまさらアウシュリスに帰ってきてほしいと言うとは思えなかったが、アウシュリスはまだイステア王国軍などに顔が効くはずだ。アウシュリスが死ねば、内乱になる。


 だから、死なない程度に、何かひどいことが起こる。


 死んだほうがいくらかいいかもしれない。


 そんなことを考えて肩に力を込めながら押し黙っていたアウシュリスに、バダルが「ちょっと出掛けるぞ」と言った。


「どこへ?」

「海まで散歩」


 拒否権はない。バダルに来いと言われたら海でも森でも行かなければならない。バダルはガラサの王で、ロフたちは戦士の長であるバダルより海の母であるノトカのほうが偉いとは言っているが、ヴェルトゥースを神の化身だと刷り込まれてきたアウシュリスはそうは思わない。ここで彼がすることに異を唱えると、反抗的だと思われてしまうだろう。


「いってらっしゃい」


 ロフとノトカが見送る中、二人は海に向かって歩き出した。


 森の中には草を踏み固めて作った道がある。それでもすぐに両脇の草が伸びてしまうらしくアーチのようになっているが、アウシュリスの前を、鎌を持ったバダルが先行する。バダルの後ろは歩きやすかった。

 ガラサのサンダルを履いたためもあるだろう。ロフがアウシュリスの足に合うサイズのサンダルを持ってきてくれたのだ。ブーツが捨てられたり隠されたりしていたわけではなかったが、高温多湿の気候に合わない革のブーツは不快だったので、すぐに履き替えた。


 太陽は天頂にある。けれど、森の中は意外と薄暗くて、アウシュリスの白い肌が痛みを感じることはなかった。


 突然、ぎゃあ、ぎゃあという鳴き声が聞こえてきた。背中を見せて歩いているというのに、びくりと肩をすくませたアウシュリスが見えていたかのように、バダルが笑う。


「森に住む猿だ。気にするな。連中は木の実と果物しか食わないから襲ってこない」

「はあ……」

「森にはいろんな生き物がいる。落ち着いたら虫除けの香の焚き方を教えてやる」


 そういえばロフが洗濯した衣類に何か焚きしめていた気がする。おしゃれ以上の意味があったらしい。


「ほら、目的地についたぞ」


 木々の存在感が薄くなってきて、バダルの肩の向こうに、太陽が輝く青い空、白波が寄せる青い海が見えた。


 アウシュリスは目を細めて、視界一面の青を眺めた。


 手前の白い浜から奥の水平線まで、紺碧の海が続いている。世界は海と空のふたつに切り分けられるのではないかと思うほど、水平線を境にくっきりと二種類の青が存在している。


 波の音がする。


 森の端で立ち止まったアウシュリスに、バダルが「もう二、三歩前に出ろ」と言った。言われるがまま足を進めた。


 木陰から出ないぎりぎりのところで、バダルが腰をおろした。


「お前も座れ」


 命令されて、おずおずと座り込む。


 尻の下は白い砂だった。アウシュリスはうっかり地面に手をついてしまい、慌てて離してもう片方の手で砂を払った。


「ここの浜の砂は貝や珊瑚の死骸の白い破片でこういう色になる」

「ふうん……」


 そういえば、砂浜に座るのなど初めてかもしれない。砂の成分について考えたのも、生まれて初めてだ。


 木陰で、黙って、紺碧の海を眺める。


 波打ち際の白い貝殻や流木を、水が洗っていく。


「……で、俺たちは、何をしに来たのだったか」


 思わずそう呟いたアウシュリスを、バダルが声を上げて笑った。


「お前、俺がお前のことをいじめると思っているだろう」


 ずっと考えていたことを言語化されて、教師にいたずらが見つかった子供のような居心地の悪さを感じた。


「人質に来たから、ひどい目に遭わされると思っている。違うか?」

「まあ……、ああ……」

「クソ真面目な奴だな。ガラサの海でのんびり暮らして堕落しろ」


 そして、「よっこいせ」と言いながらその場で寝そべる。藁製のサンダルを装着した赤っぽい肌の足を伸ばして、気持ちよさそうだ。


「俺が欲しいのは奴隷じゃない」


 胸の奥を貫かれるような、何かを突きつけられるような言葉だった。


「イステア人のお前を虐待したら、俺たちもイステア人と一緒になっちまう。俺たちはそうじゃない」


 アウシュリスは膝を抱えた。


「そんなにおびえるな。何も怖がらなくていい」

「俺は、おびえているように見えるか?」

「ああ。それでいて必死に自分の境遇を受け入れようとしてる。お前の脳内にしか存在しない、つらい境遇をな」


 それではまるでアウシュリスに妄想癖があるかのようではないか。被害妄想だと言われている気がして、むっとしてしまう。そうではなく、アウシュリスにとっては、イステア人社会から引き離される、衝撃的な事件だったのだ。


「おびえてなんかいない」


 膝を抱く腕に力がこもる。


「受け入れようとしている。だがつらいとは思っていない。俺の運命なんだ。覚悟が定まっていないだけで、定まればなんとも思わないはずだ。いずれにせよ逃げ隠れなどしない」

「素晴らしい運命じゃねえか、浜辺でだらだら海を眺めてぐだぐだ何か言ってる。今の状況に必要な覚悟なんかあるかよ」


 指摘されて、恥ずかしくなってきた。


「べつに、働かされてもいい。それがイステア人がガラサの民にしてきたことへの償いになるのであれば、俺はそれでもいい」

「本当に? じゃあ俺のために毎日スープを煮込んでもらおうかな」

「そうではなくて、なんというか、その……何か重労働とか」

「よっぽど働きたいんだな」

「だって……」

「だから、俺はお前を奴隷として扱うために連れてきたんじゃないって言ってるだろ」


 バダルの大きな手が、アウシュリスの丸めた背中を撫でるように叩いた。


「俺は頑丈だぞ。兄上や弟とは違ってな。軍隊育ちだし、剣術が得意だ」

「そういう売り込み方はしなくていい」


 背中には、大きな手の存在を感じる。

 目の前には、豊かな海と明るい空のおおいなる何かを感じる。


「いいんだ、アウシュリス」


 涙がこぼれそうになる。


「もう解放されちまえよ。この海で俺とだらだら暮らそうぜ」


 それに頷いてしまうと、負けた気分になるだろう。アウシュリスは心を奮い立たせて、ほだされてはいけない、と自分に言い聞かせた。それでも自分はイステア人で、彼はガラサの民だ。傷つけられた人間が傷つけてきた人間でも傷つけたいと思わないなどと甘いことは考えていない。信用するといつか絶対ひどい目に遭う。


 裏切られたくなかった。それで傷つきたくなかった。


 でも、海の音は今も続いていて、アウシュリスに鎧を脱げと言っているように聞こえた。



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