第5話 カルチャーショック

 意識が浮上してくる。爽やかな風、明るい光を感じる。


 アウシュリスは、ゆっくり、まぶたを持ち上げた。


 何本もの太い柱に木の床を張って椰子の葉で屋根をいてある、壁のない開放的な建物の中で、アウシュリスは横になっていた。体の下には薄めの布団が敷かれていて、程よい硬さと綿の滑らかさが心地よかった。穏やかな風が外の木々を揺らして葉をこすれ合わせるささやかな音が聞こえる。


 昨夜のことは、途中から記憶がない。緊張で固形物がなかなか喉を通らない中で強い酒を飲んでしまい、早めに酔ってしまったのだけはおぼえている。といってもむりやり飲まされて潰されたわけではないので、アウシュリスの中にわだかまりはなかった。幸いなことにアルコールも残っていない。今はすっきりとした気持ちだった。


 ここはどこだろう。自分はいつどうやってここまで移動したのか。


 寝返りを打って、首を動かして自分の姿を確認した。


 ほぼ昨日の服装のままだったが、ブーツと靴下はなく裸足で、シャツのボタンはふたつほどはずしてあり、ベルトを締めていなかった。体を締めつけるもののない、かなり楽な恰好だ。誰かが処置したのだろうか。


 腹の上に綿の布が掛けられている。掛け布団かと思われる。夜でも温暖な南部州では毛布は必要なさそうなので、最低限腹さえ冷やさなければ十分だと思う。


 自分の体に掛け布団を掛け直して、大きく深呼吸をする。どこからともなくほんのり潮の香りがする。


 ふたたび目を閉じそうになったところで、不意に声を掛けられた。


「起きたか?」


 我に返って自分の右隣を見ると、そこに大柄な男が寝そべっていた。長い黒髪に濃い色の肌、金と紫のオッドアイの男だ。見間違えようもない、ガラサの長バダルである。


 彼はのっそりとした動きで上半身を動かし、寝返りを打つ要領でアウシュリスのほうを向いた。手を伸ばしてくる。アウシュリスは反射的に警戒して体を強張らせた。


 大きな手が、アウシュリスの腕をつかんで、彼のほうに引き寄せる。想像をはるかに超える強い力を感じる。つい先ほどまで無防備に寝ていたアウシュリスは戸惑い、うまく抵抗できない。


 しかし、バダルの目的はアウシュリスを傷つけることではなかった。


 彼は、アウシュリスの顔を自分の胸に押しつけるようにして、アウシュリスを抱き寄せた。


 揺るぎない力で、抱き締められる。


「おはよう」


 赤い髪に、彼が頬を寄せた。


 一瞬、何をされているのかわからなかった。


 自分より大きくて力の強い男に、抱き締められている。二人並んで布団の上に転がったまま、体を密着させている。


 こんなことは、物心がついてから初めてだ。気が抜けて、息を吐く。


 この状況が何なのか、アウシュリスにはわからなかった。


 戸惑いのあまり言葉が出ないアウシュリスに、バダルがささやくような声で話し掛ける。


「ここは俺の家だ。族長の屋敷。でかくて広いが今は俺しか住んでいない。お前も今日からここに住め」


 バダルの手が、アウシュリスの背中をあやすように叩いている。


「お前、ずいぶん疲れてたんだな。昨日はガキみたいにすとんと落ちて寝ちまった。俺が負ぶってここまで運んでやったんだぞ、おぼえていないか?」


 おそるおそる答える。


「おぼえて……いない……」


 バダルが声を上げて笑った。


「まあ、よく寝たみたいでよかった。寝られないっていうんじゃ可哀想だ」


 そういう言葉から連想するのは、アウシュリスの心身を気遣う感情である。イステア人から引っこ抜いてきた人質に対して、温情も過ぎる。


 何か裏があるのかもしれない。


 ガラサの民を抑圧してきた征服民のイステア人の王族に、優しくするはずなどない。


 次に叩き落とされるのを警戒して、アウシュリスはふたたび体を固くした。


「……可哀想だ」


 そう言って、バダルが腕を解いた。体が離れる。


 アウシュリスを離すと、彼はゆっくり起きて立ち上がった。その態度には食後の大型獣を連想させられた。満足した気分でくつろいでいるが、その気になればもうひと噛みできる、圧倒的な強者の態度である。


 バダルの動きを観察しつつ、アウシュリスもその場で体を起こした。裸の足の裏に平らで滑らかでひんやりとした床板を感じる。


 彼はアウシュリスに背を向けて歩き出した。


 彼の進行方向には欄干の切れ目がある。おそらくそこが出入り口なのだろう。壁がないのでわかりにくいが、高さを鑑みるにそこには階段がある。


 柱に手を掛けつつ、ちらりとアウシュリスのほうを見た。


「まずは朝食を運ばせる。それから採寸だ」

「採寸?」

「服を作る。お前のな。いつまでもそんな暑苦しい恰好をしてるわけにはいかないだろう。ガラサの民族衣装を着ろ」


 服を剥ぎ取られるのか、と思うと少し怖かった。ベルベットのトラウザーズに絹のシャツは、イステア人らしさの証だった。手っ取り早くガラサの民に同化させられる手段として十分効果的な行為だと思った。


 バダルがサンダルを履き始めた。かかとのないつっかけで、ストラップで足首に固定している。歩きやすそうだ。蒸れなさそうだとも思う。こういう熱帯雨林でブーツを履いて歩き回るのは、苦痛以外の何物でもなかった。


「便所はこの下の川の近くにある、好きに使え」


 そう言い残して、バダルは階段をおりていった。


「じゃ、俺はやることがあるんで、またあとでな」


 アウシュリスはバダルの広い背中を見送った。




 ややあって、階段の下から少年たちの話し声が聞こえてきた。笑い声を交えた能天気な会話に、マクイ族の平和さを感じざるを得ない。ついこの間までイステア人と戦闘状態にあったとは思えない。アウシュリスという人質の存在は彼らをここまで穏やかにさせるほど重要なものなのだろうか。


 彼らは階段を上がってきた。そして、日に焼けた朗らかな笑顔で「おはよう」と気安い挨拶をした。バダルは海の民の王なのでそんなものかと思っていたが、平民であるとおぼしき他の人々もアウシュリスに対等な口を利く。一応王族のアウシュリスは少し戸惑った。


 少年のうちの一人が、アウシュリスの目の前、床に食事を並べた。椰子の葉に包まれた芋にゆで卵、切り分けられた柑橘類、木製のお椀に入れられた透き通っている茶だ。戦場では考えられない豪華な朝食である。


「イステア人の王族ともなればすげえ豪華な飯を食ってたんだろうけど、うちはこれがせいぜいだからな」


 アウシュリスは首を大きく横に振った。イステア軍では捕虜にこんな食事を取らせるのなど考えられない。王族らしくがっつかないよう気をつけながら食べた。


 食べ終えたら、バダルが言っていたとおり採寸が始まった。少年たちは平たい紐を持っていて、アウシュリスの腕や足の長さを測って印をつけていった。縛られたりぶたれたりなどはしないらしい。


「思ってたより大きいな」

「イステア人って、細く見えるよな。なんでだろ?」

「バダルがでかいから、並ぶと小さく見えるんだなあ」


 小さいと言われると悔しくてむっとしてしまう。


「でも必要な布は確保できそうだね」


 そこまで言うと、彼らはアウシュリスの顔を見た。


「じゃ、がんばってね」

「え、何をだ」

「服を作るのを、だよ」


 予想外の言葉に、「何だと」と低い声を出してしまった。


「この俺に服を縫えということか」

「そうだよ。ガラサの海で暮らすなら、それくらいはしてもらわないと。いつまでも王子様気分でいられたら困るよ」


 少年たちが「これだからイステアの男はだめだな」と鼻を鳴らす。


「ガラサの男は手先が器用で家事ができないとだめなんだ。ガラサでは男より女のほうが偉いから。妻に妊娠出産をしてもらっている分、夫が妻の身の回りのことをしないといけない。だから男は自分の服くらい縫えなきゃな」


 あまりの文化の違いに、衝撃を受けた。


「まあ、戦士の男たちはそこまでしないけど。外仕事がある奴はある程度まで免除してもらえる。バダルは戦士の長として働いてるから、家のことはそんなにがっつりしないんじゃないかな。家事が嫌ならお前も狩りや漁に行けよ、食料を持って帰った分だけ誰かがやってやるからよ」

「そういうものなのか……」

「じゃ、布の裁断くらいはしておいてやる」


 驚きのあまりぼんやりしているアウシュリスに、少年のうち一人が投げ掛ける。


「あんた、もっと愛想よく笑ったほうがいいぜ。不愛想な奴はもてない。男は愛嬌ってよく言うだろ」


 聞いたこともない。イステア文化ではそれは女の務めだ。女は男に愛されるために可愛く振る舞わなければならない。女は小動物とほとんど同じ存在だった。しかしここでは男のほうが女に媚びを売る必要があるということなのだろうか。


 少年たちが階段をおりていく。一人残されたアウシュリスは、あぐらをかいて遠くに目をやり、ぼんやり考え事をした。


 海の母という最高位の巫女がロフを選んだ理由にも察しがついた。愛嬌のある顔立ちで細かな気配りができるロフは、イステア人の社会では軟弱な存在として蔑まれるだろうが、ガラサではきっと女性人気が高いのだ。





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