第16話 お前がガラサの王だとしたら、俺はガラサの王妃になるから

 集落の周りを囲む柵の門のそばで、老人たちがのんびりボードゲームをしている。アウシュリスは深呼吸をして、できるだけ平静を装ってバダルがここを出入りしたか訊ねた。彼らの平和な日常を壊さないように配慮したためだ。とはいえ、彼らも昔は歴戦の猛者であったとのことなので、もしかしたら何かを感じ取ったかもしれない。けれど彼らはアウシュリスの気持ちを汲んで何も質問しないでくれた。


「見てないね。寄り合い所にいるんでなかったら、家にいるんでないの」

「そうか。助かる」

「何があったのかしらんけど、あんまりカリカリせんようにな」


 そう言って、駒を進める。どっしりとした、大人の戦士たちの姿だった。バダルも数十年後はああなるのだろう。


 その時自分はどこにいるのか。


 今考えるべきことではない。今の自分が考えるべきことは、ナンファスをどうやって説き伏せるか、だ。あの子が自分の言うことを聞くとは思えない。罪のない少年を泣かせ先住民たちに不安を抱かせている現状を思うと、一発や二発殴ってもいいのではないかと思えてきた。


 バダルの家には久しぶりに帰ってきた。アウシュリスはためらうことなく階段を上がった。ぎしぎしと音が鳴るので、バダルも上にいれば来客に気づくはずだったが、反応は特になかった。


 留守なのかと思ったが、床上にたどりつくと、バダルは床に腹這いになって本を読んでいた。茶と揚げた芋も用意してある。実に優雅なものだ。彼の配下の者たちが動揺している今もこの態度とは、憎たらしいことこの上ない。


「おい」


 腹でも蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、バダルはアウシュリスが近づく前にこちらの顔を見ることなしに「おかえり」と言った。この家の自分以外の住民が帰ってきたことを察しているらしかった。


「よく俺だとわかったな」

「足音で区別がつくぞ、俺の子虎ちゃん」

「子虎?」

「子猫にしてはでかくて凶暴なんでな」


 バダルが「よっこらせ」と言いながら体を起こす。


「何かあったのか? 眉間にしわが寄っている」


 アウシュリスはバダルのすぐそばに膝をついた。バダルにずっと手に持っていた紙を渡す。例の志願兵の誓約書だ。バダルがそれを受け取って目を通し始めた。


 バダルが誓約書を読んでいる間に、アウシュリスは彼が読んでいた本に目を落とした。見覚えのある組版だ。

 手を伸ばし、しおり紐が挟まれていることを確認してから閉じて、表紙を見る。道理で見覚えがあると思ったら、アウシュリスも学生だった頃に軍学校で読まされた兵法書だった。こんな難しい本も読みこなしているとなると、悔しいが、尊敬に値する。総督府を焼き討ちしたと聞いた時は誰かイステア人の軍人が裏についているのかと勘繰ったが、今思えば、単純にバダルに知識と知恵があるのだろう。


「はあん。これはまた、やられたな」


 そう言いつつも、バダルの声色はいつもと変わらぬ平常心のものである。


「こいつは簡単に破棄したらイステア人だけでなくよそに住む非イステア系の連中も反発するやつだな。同じものを他の先住民も書かされている可能性が高い」


 アウシュリスは目の前の少年が所属する部族のことしか頭になかったが、バダルはひと回りもふた回りも大きな視座で物事を考えている。


 イステア王国には複数の民族が住んでいる。読み書きの知識を持つ人間がまったくいない民族もいる。そういう人たちが自分の名前を書けるかどうかは疑問だが、民族に固有の文字があればそれを使わせるだろうし、最悪拇印という手もある。


「もうすでに兵隊に取られている民族がいたら悲惨だ。イステア王は北方の戦場にこだわっているみたいだから、おそらくそこに人員を突っ込んでいる。決着をつける前に軍隊の士気に直接影響を及ぼすほど存在感のでかい司令官の一人を手離すというポカをやらかしたのは自分なのに、そのツケを先住民に払わせよう、と」

「俺のせいか」

「いや、どう考えてもイステア王の采配の失敗だろ。本気になれば海に何万人という兵士を投入してガラサの民を大虐殺することも可能だっただろうに、びびってたったの一週間でお前を俺にやるという結論を出してしまったわけだから」


 アウシュリスは溜息をついた。こんな本を読んでいるバダルのことだからアウシュリスが説明しなくてもわかっているだろうが、もし南部州に数万の兵力を投入した場合、エレファが北方の敵国や北部州の先住民に背後をつかれることになる。エレファは挟み撃ちだ。二正面作戦は馬鹿のすることだ。バダルの真の狙いはそこにあったのではないか。


「ひょっとしてお前は国じゅうの先住民とつながっているのか?」


 バダルが片目を閉じて笑った。


「その程度のこともできないやつがガラサの王を名乗るわけにはいかない」


 その言葉に頼もしさを感じて、アウシュリスはゆっくり息を吐いた。


「お、惚れ直したか?」

「馬鹿なことを言うな。まずはこの部族の話だ」

「まあまあ、落ち着けって」


 バダルが自分の飲みかけの茶碗を突き出した。アウシュリスはためらうことなく受け取って一気に飲み干した。


「招集期限が書かれている。さすがのイステア人もこの期限までは待つだろ、食費や交通費が兵士の持ち出しなのならこれ以上早めるのは現実的じゃない。向こうも一日二日じゃ駐屯地に集まれないのは承知の上のはずだ」

「そうだな。一応形は志願ということになっている以上不満を最小限に抑えるために家族との別れの時間なども設けることを許可するはずだ、俺がいた部隊ならそうしていた」

「そのぎりぎりまで様子を見る。その間俺が他の民族と連絡を取って状況を共有する。うちだけで動いたらだめだ。各民族の長同士で譲り合い協力し合うのが理想だ。俺にとってはガラサの民がイステア人と揉めている間目をつぶっていてもらうのが一番都合がいい」


 ブルサ総督府の焼き討ち事件の裏でも同じような工作をしていたに違いない。


「まずは落ち着くことだ。慌てて動いていいことはない、まったくなんにもない。この書類を持ってきたチビはちゃんと俺ら大人たちと情報を共有した。まあ最初からこんなの書かないでいてくれたほうがいいんだけど、最悪の事態は回避した。あとは俺がなんとかする」


 アウシュリスは大きく頷いた。


 予定がうまく組み上がると、完全に片づいたわけではなくても、なんとなく仕事が楽になった気がする。頭の中の空間が整理整頓されて状況が見通せるようになるのだ。それはアウシュリスが軍学校で幹部候補生として教官に教わったことだったが、この年になっても活かせている気がしない知識だった。自然と身に着けたのか、それともどこかで学んだのか、いずれにせよ実践できているバダルはたいしたものだ。


 この男は、信頼できる。


 バダルが、紙を床におろした。

 そして、手を伸ばしてきた。


「ありがとうな」


 大きな右手で、アウシュリスの左頬を包み込む。


「お前が真剣にガラサの民のことを考えてくれて嬉しい。あの子を、あの子の部族をなんとか救ってやらないとと思ってくれたんだよな。イステア人のお前が、本気で心配してくれている。下手をすればお前が兄弟喧嘩になるかもしれないのにな」


 アウシュリスは、左手を持ち上げた。その手で、自分の頬に触れるバダルの手をつかんだ。彼の手の平を自分の頬に押しつける。大きな、温かい手だった。


「お前がガラサの王だとしたら、俺はガラサの王妃になるのだろう。民のことを真剣に考えるのは当然のことだ」


 珍しく、バダルが驚いた顔をした。アウシュリスはゆっくり息を吐いて、慣れない笑顔を作ってみた。


「ここに、帰ってこようと思う」

「アウシュリス、お前……」

「お前を尊敬している。だからお前になら抱かれてもいい」


 バダルの顔がおもむろに近づいてきた。アウシュリスはそっと目を伏せた。案の定、唇と唇が重なる。あの夜以来の口づけだ。けれどアウシュリスは決して嫌ではなかった。むしろ、これから先もこういうことをしたいと思った。今はまだ慣れないが、そのうちうまくなるだろう。アウシュリスは勉強は得意なのだ。


 予想に反して、バダルはすぐ唇を離した。それに一抹のさみしさを感じたが、彼は次にこう言った。


「ロフの家に置いてある荷物をまとめて戻ってこい」


 こういう時、本当に大事にされている、と思う。


「この家とロフの家の間を往復して、それでもまだ気持ちが変わらないようだったら、その時こそしよう」


 アウシュリスは黙って頷いた。変わらない自信はあったが、時間を与えてくれるのが嬉しかった。




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