第5章 海に押し寄せる不穏
第15話 志願兵の誓約書
アウシュリスはもともと軍隊育ちだ。王族なので軍学校を卒業してすぐ名誉将校になったが、少年時代は他の幹部候補生たちと寮で普通の軍人としての教育を受けていた。そこでは、兵士ができることはひととおりできるようにならねばならぬということで、料理や裁縫なども習った。だからアウシュリスは糸と針を持つことにはそんなに大きな抵抗はない。
ガラサの海に来て自分の服を縫うよう求められたが、そこまでひどい苦痛ではなかった。もちろんせいぜいがボタン付けだった少年時代の裁縫に比べれば大掛かりな仕事だったものの、マクイ族の集落の生活では基本的に時間が余る。最終的に、自分の服は三着に増えた。着飾ることには興味がないので、貝やガラスのビーズを縫いつけることもない。簡素な衣類はさほど難しくはなく、今後もなんとかやっていけそうだった。
ロフでの家での暮らしも、すでにもうすぐ半月になる。
基本的なことはロフが一人で何でもやってしまうので、アウシュリスはまったく苦労をしなかった。だが、ノトカからの視線が痛い。これはなかなか気まずい。若い夫婦の愛の巣に長居するのは双方にとってあまり良いことではなさそうだ。
かといって集落の他の人間の家には居候できない。鈍感なアウシュリスは最近ようやく気づいたのだが、村人たちはほぼ全員アウシュリスをバダルの恋人だと思っているようなのである。何度か泊めてもらえないかとほのめかしたところ、すべて「素直にバダルのところに帰りなさい」と言われて断られた。
道理でみんな親切なわけだ。アウシュリスは人質でも奴隷でもなく、族長の妻として受け入れられている。
逃げられない。
といっても、本気で逃げようとは考えていなかった。ただ、ほんの少しの覚悟が必要だった。欲しいと思っていた愛情はことごとく与えられず、他人をほとんど信用しないで生きてきたアウシュリスにとっては、ひとを受け入れることは恐ろしいことなのだ。
バダルは待ってくれている。それに甘えてだらだらと期限を引き延ばしている。
本気で逃げたいと思ってそうしても、バダルは怒らないだろう、という確信もあった。彼はどこまでもアウシュリスの気持ちが第一で、アウシュリスが断固として拒否すればそれで終わる気がする。それをわかっていてこういう態度の自分は卑怯だ。
俺はこういうやつだったのか、とがっかりしながらロフの家の床に転がってぼんやりする日々を過ごしている。そしてノトカに邪険にされる。彼女の怒りはごもっともなので仕方がない。
平和な日々はある日突然終わる。アウシュリスの人生は平和でない時期のほうが大半だったからこそ、それを忘れていた。人生で初めて享受していた平和を、永遠のものだと勘違いしてしまっていたのだ。
その日もガラサの民の若い戦士たちを集めてイステア語の勉強をしていた。
戦士たちはみんな優秀で、すでに新聞を読むくらいならば不自由しないようになっていた。ちらほらとバダルが読むような難しい本を読みたいと言い出す人間が出てきて、はてバダルは何を読んでいるのか、バダルの家に忍び込んで探せばなんらかの書物が出てくるのだろうか、と考えていたところだった。
ある部族の、戦士になりたての少年が、一通の書面を持って現れた。
「アウシュリス、これ、なんて書いてあるかなあ」
彼はひどく不安げな顔でその書面を差し出した。新聞以外の紙を見るのは久しぶりだ。片面印刷で、公文書に用いられる字体で何かが書かれている。
「僕、ところどころしかわからなくて……。全体を通して何を書いてあるのかは、理解できなくて……。でもきっとすごく大事なことが書かれているんだと思ったから、捨てずに持ってきたよ」
「見せてみろ」
少年からその書面を受け取った。
目を通して、血の気が引いた。
軍への入隊に関する誓約書だった。
イステア政府が兵士を募集している。といってもそれはほぼ強制徴用も同然だ。兵士にならなければ重税を課されるようだから、金銭での納税ができない先住民は志願せざるをえない。イステア政府は、そういうことを文章では理解できない先住民を捕まえて、口頭ではろくな説明をしないままに署名をさせている。
「お前、ひょっとして海の母の息子なのか」
少年が頷いた。
つまり彼はゆくゆくは彼が所属する部族の長になる立場で、彼の一声で彼の部族全体の今後が左右される。
「これは、部族の男をみんな軍隊に取るから、族長として許可をするように、という命令書だ。お前は悪いイステア人に騙されて、親戚の男をみんな軍隊に差し出すことを約束してしまったんだ」
少年の顔が真っ青になる。
「どうしよう、どうしたらいい? 僕、そんなつもりじゃなかったんだ」
「そうだろうな、俺にはわかる。でも、これはそういう内容なんだ」
彼の目から涙があふれ出した。
「同じものをもう一通書かされなかったか?」
「うん、二枚書いたよ」
「つまりここでこれを破り捨てても向こうには控えがあるということだ。向こうは自発的に契約書に署名したと嘘をつくだろうし、参ったな」
イステア軍のやり口はわかっている。なにせアウシュリスがそういう集団の上層部にいたのである。採用部門のあくどいやり方にはみんな驚いていたが、兵士の数を揃えたい幹部たちは目をつぶっていた。あの時もっと厳しく糾弾しみんな処罰していればこんなことにならなかった。しかしいまさら後悔しても遅い。
「妹が風邪をひいて、薬が必要だったんだ」
少年が泣きながら説明する。
「一人でブルヤに行ったんだ。そしたら、薬局で、署名をしたらただで薬を譲ってくれると言う人に会って……」
中途半端に知識を仕入れた結果だ。ガラサの海では医療が発達していない。体調を崩したら基本は隔離と加持祈祷である。しかし若い者たちはブルヤに行けばイステア医学の最先端の知識で調合された薬があることを知っている。年長の者が、どうすれば薬が手に入るのか把握して、いくらぐらいの費用がかかるのか、説明しなければならなかった。
アウシュリスは左手で誓約書を持ったまま右手で彼の二の腕をつかんだ。そして、できる限り怒りを抑えた声でこう告げた。
「今度からブルヤに行く時は俺かバダルに相談しろ。ブルヤのイステア人がどんな手口でガラサの民を搾取しているのか知っている人間に話すんだ」
少年が「次なんてないよ」と弱気な言葉を口にする。
「もうおしまいだ。僕のせいでみんな兵隊に取られる。僕もだ。この間成人の儀をしたから。いや、責任を取って行かなきゃ」
「思い詰めすぎだ。みんなお前を心配するぞ」
「でも、僕が馬鹿だったから」
そこで言葉を切って、彼はアウシュリスに抱きついてきた。アウシュリスは彼を抱き締めた。ちょっと前までなら考えられなかったことだ。まだ軍隊にいた頃のアウシュリスだったら、いくら少年でも下士官が失敗をしたら鉄拳制裁を加えていたことだろう。だが、人間関係を構築するのに必要なのは暴力ではない、とガラサの海で学んだ。
「どうする、アウシュリス」
遠巻きに見ていた大人の戦士たちが、気遣わしい声で訊ねてくる。
「私たちは彼らを救うために何をしたらいい?」
別の部族のことであっても、同じガラサの民には優しい。彼ら彼女らは同胞を救うためなら何でもするだろう。
「ひとまずバダルの意見を聞いてからにするが」
そう前置きしてから、アウシュリスは言った。
「俺がブルヤの総督府に行く。総督に直接会って苦情を申し立てる」
「可能なのか? 向こうはお前を捨てて海に投げ出した連中だぞ」
「絶対大丈夫だとは言い切れないが、今の総督にはちょっとした因縁がある」
もう一度、誓約書に目を通した。
文面の最後には、総督の名前が書かれていた。
そこにあった名前は、和平会談の時に一緒にいたブルヤ総督のものではなかった。
いつだったか新聞でガラサの民に譲歩した総督を罷免したという情報は入手していたが、その後任がどうなったのかまでは把握していなかった。
たった今知った。
そこには、ナンファスの名前が書かれていた。
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