第14話 五億ペルリの使い道
今日のバダルは釣りに行ったとのことだ。たまたまそのへんで捕まえた老人に訊ねたところ、そう返ってきた。アウシュリスはだいたいどのあたりに行ったかを確認して、海に出掛けていった。
ガラサの海には磯もあって、そちらに行くことは浜とは違って海の生物との接触が主要目的になる。幼い子供が蟹や磯ぎんちゃくをつついて遊んでいて、少年少女は素潜りで貝を取っていて、大人たちは釣り糸を垂らしてだらだらおしゃべりをしている。のどかなガラサの暮らしの一幕だった。
岩の上に座り込んでいるバダルの姿を見つけて、アウシュリスは静かに歩み寄った。といっても、砂利になりかけた磯の岩は踏むとざりざりと音がする。バダルはすぐアウシュリスの接近に気づいたようだったが、少し振り返ってアウシュリスの顔を見た後、すぐに目を逸らして海のほうを向いた。
バダルのすぐそばに慎重に腰をおろす。気をつけないと潮水で尻が濡れそうだ。
「何かあったのか?」
アウシュリスは少しの間バダルの隣で無言で沖のほうを見つめていた。太陽はほんの少しずつ西へ傾いている。それを眺めるアウシュリスを、バダルは急かさなかった。引きがあれば竿を持ち上げ、釣り上がった魚が小さいのを見ては「しょうがねえな」と言って
言葉を選んだ。そうでないと自分が馬鹿みたいな気がしてくるからだ。感情的に聞きたいことだけを聞こうとしたら、醜態をさらすことになる。そんな自分を誰かに見せたくなかった。
強く賢い大人でありたかった。誰からも頼られる人間でありたかった。特に兄や弟には頼られたかった。そのためにはアウシュリスは感情的になってはいけなかった。それは弱く愚かな子供の自分を見せることになる。失望され、嫌悪され、場合によっては攻撃される。
この海に住まう人間の多くは気性が穏やかだ。良くも悪くも素直で、失敗をした人間を責めることはまずない。裏返せば大雑把で自分の失敗も笑って済ませようとする性質と通じるものがあるのでアウシュリスは時々いらいらさせられるが、誰もアウシュリスを困らせようとしてそうしているわけではないことはわかってきた。
そんな人々の頂点に立つバダルが、アウシュリスが弱みをさらしたくらいで脅してくるようなことはないだろう。
そうはわかっていても、生まれた時からずっとしみついてきた思考の癖が抜けない。
「――五億ペルリ」
本当は、金の話よりも先に、なぜ人質を取りたかったのか、聞きたい。でも、単刀直入に本題を切り出せない。遠回りして賠償金のことを訊ねた。
「貰ったのか?」
「まだだ」
バダルが釣り針を遠くに投げる。
「王は払わないかもな」
「貰わなくていいのか?」
「よくはないが、だめでもともとの気持ちもあったから、そこまで怒り心頭というわけでもない」
「だめでもともと、だったのか」
「連中がどこまで譲歩するのか見たかっただけだ」
釣り針が海面に沈む。
「額面も意味はない。新聞でたまたま今年度の予算について五十億ペルリの税収が見込まれるとあったのを読んだから、じゃあその一割、と思っただけだ。お前もここで暮らしていてわかっただろう、村の中で暮らしている限りは俺たちは貨幣経済の外だから、品のある贅沢とはどんなものか、それにはいくらぐらいかかるのか、は思いつかないんだよな」
確かに、村はほぼ自給自足で、足りないものは他の部族と物々交換をしている。この生活のどこに五億ペルリもの大金が必要なのか、見いだせない。
「もし本当に払われたら、は考えていなかったのか?」
「まったく考えていなかったわけではない」
「たとえば、具体的に?」
「港を作るとかな。貿易港だ。もっとでかい船が出たり入ったりするのにいいかと思って。イステアの役人が定めたのとは違う割安な関税をかけられると、貿易相手もお得だし俺たちにも現金収入が手に入って、めでたしめでたしだ」
やはりこの男は頭がいいのだと、しみじみ思った。
「で、余った分はすべての部族に均等に分ける。その先は俺は知らねえ、各部族で勝手にやってほしい」
「なるほど。それだとマクイ族の取り分もあるんだな。それは何に使うんだ?」
「学校を作るかなあ」
ブルヤのイステア社会で教師の靴を舐めて入学を果たした男が言うのだと思うと、重みが違う。
「子供に会計の知識をつけさせるための学校だ。金勘定ができないと都会で騙される。そのためにイステア人の教師を呼ぶ。イステア人は金にうるさいから給料を現金で出してやらないとならないだろう? ガラサの村に来てよかったと思えるだけの高給取りにしてやらないと」
アウシュリスは、溜息をついた。
「俺がイステア王だったら、戦争なんぞしなくても毎年の通常の予算会議でそのための予算を計上しただろうな」
バダルはガラサ全体の利益を見据えている。決して私利私欲ではない。民族全体の将来についての明確な見通しがある。もしかしたらガラサの民だけでなくイステア王国全体にとって利益になるかもしれない。
それは本来イステア王がイステア系も非イステア系もすべてを含めた王国民のためにやるべき政治のように思われた。
これがヴェルトゥースとバダルの格の違いだと思わざるをえなかった。
「なるか?」
不意にそう問われて、アウシュリスは「え?」と呟きながら顔を上げた。
バダルの金と紫の瞳が、アウシュリスを見ていた。
「なってみるか? イステア王」
思わず両目を見開いた。
それは長男にだけ許される特別な地位であり、生まれてこのかた一度も考えたことがなかった。
バダルは真剣だった。
「お前がそこを目指すというなら、俺がお前を王にしてやる」
呼吸が止まりそうになった。
波の音が、聞こえる。
兄に捨てられた絶望から自分を救ってくれたのは、この海と、この海に育てられたガラサの人々だった。
「……ここを」
ぎゅ、と、拳を握り締めた。
「海を離れたくない」
声は小さかったが、今のアウシュリスにとっては、全身全霊の、心の奥底から出た言葉だった。
バダルが釣り糸を巻き上げ始めた。どうやら釣りは終わりらしい。針と糸を絡まぬよう慎重にまとめて、岩の上に竿を置いた。
それから、腕を伸ばしてきた。アウシュリスは、触れられる、という予感があったが、抵抗しなかった。しようと、したいと思わなかった。自然な流れだった。
案の定、肩を抱かれた。不思議と不快感はない。
「一緒に暮らそう」
髪に頬を寄せられる。
「お前が欲しいなら本当は五億ペルリで御殿を建ててもいいんだ」
「なぜ?」
自分の弱い部分が、バダルの体温に温められて溶け出す。
「お前、どうして人質を取ろうと思ったんだ? 俺でよかったのか? ナンファスが来たらどうしていた?」
「クソ兄貴が出来のいいお前を邪険にしているのは知っていたから、ああいうことを言ったらお前が来ると確信していた。万が一弟のほうが来たら刃物を突きつけてでもアウシュリスと交換しろと言うつもりだった」
「なぜ……、お前はどうしてそんなに俺にこだわる……?」
「まだ気づかないのか?」
あまりにも甘美な言葉に、アウシュリスは目を細めた。
「愛している、アウシュリス。お前が欲しい。俺が欲しい人間はこの世で唯一お前だけだ」
もう何もかも忘れて永遠にこのままを望んでしまいそうだ。
でもまだ理性が引っ掛かって、素直に頷けずにいる。まだ理屈を求めてしまう。
「俺とお前が知り合ったのはあの公園での会談の時が初めてではないか?」
「お前は俺のことなんて知らなかったかもしれないが、俺は三年間ずっとお前だけを見ていた」
ガインが、三年前の内乱の時もバダルはその場にいたと言っていた。あの時なんらかのきっかけでバダルはアウシュリスの人となりを知ったのだ。
「お前はイステア人の暴政の犠牲になった先住民のために慰霊碑をたててまわっていた。俺の親にも墓を作って手を合わせていた。俺はそれが嬉しくて、でもいつしかその姿を見ているだけでは満足できなくなった。あの慈愛を独り占めしたいと思い始めた」
当たり前のことだった。アウシュリスはなすべきことをしていただけのことだ。それに、暴政、などと考えたことはなかった。今思えば思い上がりもはなはだしいが、当時のアウシュリスにとって王国の発展のいしずえになった人々に敬意を払うのは当然のことだったのだ。だから本来バダルの愛を得るにふさわしい人間ではないのにと、申し訳なくなってくる。
「あんなに兄貴にいじめられて、どうしてそこまで心根の清らかなことができるんだろうと思って、ずっと見ていた。ずっと動向を調べ続けて、毎日毎日一対一で話せたら何を話そうか妄想してた」
それでも素直になれないアウシュリスは、苦笑した。
「馬鹿ではないのか」
「恋する人間はだいたい馬鹿になる」
恋、という言葉に、頭がじんと痺れる。
「俺の粘り勝ちだ。お前は今ここにいて、玉座より海での自堕落な暮らしのほうがいいと言っている」
アウシュリスはこくりと頷いた。
太陽が、沈んでいく。今日も一日が終わる。平和な一日だった。
「――今日は、帰ってくるか?」
しかし、そう耳元でささやかれると、はっと我に返った。
帰ってくる、とはつまり、バダルの住む族長の家に、ということだろうか。
どうしてもあの淫蕩な夜のことを思い出してしまう。
夜に二人きりになったら、今度こそ最後まで抱かれる。
アウシュリスはそう確信して、顔を真っ赤にしてバダルから離れた。
「今日もロフの家に帰る」
「なんだよ、今すごくいい雰囲気だと思っていたのに」
「も、もうちょっと、覚悟が」
耳まで熱い。
「か……勘違いするな。べつにお前のことが嫌なわけではなくて……、でももう少し気持ちの準備が……」
「あーはいはい、なんかすけべなことを妄想してるのね、大丈夫俺は焦ってないから」
バダルが釣り具の片づけを始める。
「もう少し時間をくれ、乙女みたいなものだ」
そう言い残して、アウシュリスは急ぎ足でその場を去った。
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