第7章 何も起こらない、平穏な海の暮らし
第23話 静かで穏やかな、紺碧の楽園の未来(完)
その後、今まで放っておかれたのが嘘のように、連日マクイ族の集落にイステア政府の高官が訪れた。誰も彼も決まり文句のように「イステア王国はおしまいだ」「アウシュリス殿下にお戻りいただいてなんとかしていただきたい」と繰り返したが、アウシュリスの心は微塵も動かなかった。殿下という敬称をつけられるのすら不愉快だと思うようになっていた。
よほど困っているのか、せめてガラサの民への拘束的で場当たり的な政策を見直してほしい、と言ったら受け入れてくれた。だが、その後自分が戻るかどうかはまた別、と二枚舌なことをしても、文句を言われなかった。おそらく、彼らもガラサの民が手に余ることはわかってきていたに違いない。かえってアウシュリスが口を出してくれたことをありがたがっている節もある。
自分はもはや完全にガラサの海の住人だ。イステア王国軍が海に攻めてくるならば迎え撃つ覚悟はあるが、そうでもしない限り戦うことなくここで一生を終えるつもりだ。王都エレファには兄弟が死んでも行くことはないだろう。『イステアの軍神』は死んだのだ。
「まあ、いいんじゃないのか」
夜、睦み合った後に布団の中で、バダルとぼんやり今後の話をする。
「五億ペルリは先送りだが、ブルヤ総督府が機能していない今実質的に俺たちは独立状態だ。あとは納税の義務さえなくなれば自由だ」
「納税の義務か」
「いまだに海に帰ってこられないガラサの人間がいるのはそのせいだ。マクイ族は海産物の輸出でどうにか金を工面しているが、戦士たちをやって賦役にあてている部族もいる。戦士たちは大人だから、一応自由意志ということになっている。そう言われてしまうとさすがの俺もつべこべ言えない」
バダルは当初イステア人たちが考えていたような強権的で専制的な王ではない。ガラサの民の生活が基本的に各部族の合議制で成り立っている以上、バダルが口を出せるのはあくまである程度というところだ。バダル自身も歯痒いようだが、こればかりは将来的にどうにかするという保留状態で先送りにするしかなかった。
アウシュリスもどうにかしてやりたいとは思う。そのためには、本当は、イステア政府の要人になって植民地経営に携わるべきか、と考えることがまったくないわけではない。けれどそれ以上に、バダルから離れたくなかった。
エレファには何があっても行かないと固く誓っているが、ブルヤくらいは行くかもしれない。その時、自分はマクイ族の共同統治者として、つまりガラサの民の政治家として交渉事をするだろう。
ブルヤ総督府はどんどん形骸化していっている。ナンファスにはもはや何の権限もないらしい。誰からも無視されて、総督としての仕事は別の役人たちがしている。新聞記者は、紙面に、ヴェルトゥースは彼がだんだん力をつけていく先住民たちに何の対応をしていないとして罷免するのではないか、と書いている。そんな中でバダルやアウシュリスが負けるわけがない。いつでも追い落とせる。一刻も早く同胞たちを救いたいという気持ちと、そのためには急がば回れの精神でゆっくり準備をしたい気持ちとで、毎日じりじりしている。
革命を起こすのは大変だが、起こした後に新政府で統治を始めるのはもっと大変だ。ガラサの民が主体になってブルヤ総督府を倒した場合、ガラサの王であるバダルが政府の首長になるだろう。そうなった時、他の先住民たちはどう思うか。南部州に住んでいるのはイステア人とガラサの民だけではない。
まだまだ課題は山積している。
しかし、今はとにかく、徴兵の免除とアウシュリスの解放が行われた。
とりあえずは、ひと息だ。
ある時、マクイ族の主要輸出品目が海産物だというので、アウシュリスも海に向かった。アウシュリス自身が漁に携わる予定はなかったが、族長の妻として知っておかねばならないことではある。海岸線で活動する漁師たちや、沖に船を出してまぐろと戦う戦士たちの姿を見物して、まだまだ知らない世界がたくさんあることを学習した。
アウシュリスが海に来てもうすぐ一年になる。海に二度目の雨季が来る。波は少しだけ荒々しさを増した。もしかしたら近々嵐になるかもしれない、と漁師たちが言う。農作物は心配だが、すべて自然の営みだ。アウシュリスは覚悟を決めた。
しかし海を見ていると、平和だな、と思う。青い空には入道雲が浮かび、青い海には白波が立っていた。紺碧の世界はこの世の楽園だ。
アウシュリスはもはや忘れ去っていたイステアの神への信仰を思い出した。善良なイステア人は死後楽園に入るという。死ななくても楽園はここにある。自分は生きながらにして楽園に入った。この楽園を出る必要はない。必要な時にはここを守るために戦うだろうが、今はただバダルと日が暮れるまで空と海を見ていたい。
バダルと並んで、砂浜と森の境目くらいの草地に腰をおろす。木々が太陽の強すぎる光を遮ってくれる。精神的にはガラサの民と同化したが、アウシュリスのイステア人特有の白い肌の色が濃くなるわけではない。必要に応じて日傘を差し、それとなく日光を避ける生活は不便で、もっとガラサの人間に近づきたい、と思う日々だった。
「なんもねえ生活だな」
バダルが言った。
「お前がここに来た時は上から下まで大騒ぎだったんだが、ここのところ本当に静かだな」
アウシュリスは「ふふ」と笑った。
「俺は嬉しい」
ぎゅ、と膝を抱える。
「幸せ、というやつを噛み締めている」
バダルがアウシュリスの背中を撫でるように優しくたたいた。
不意に森のほうから声が聞こえてきた。
「兄さん、アウシュリス!」
ロフの声だ。
振り返ると、赤い頬をした真剣な表情のロフがこちらに駆け寄ってきているところだった。なんとなくつかみどころのない彼にしては珍しい。
「探した!」
アウシュリスは胸がざわつくのを感じて立ち上がった。だが、アウシュリスの勘などいつもあてにならない。アウシュリスの中だけに芽生える不安はだいたい現実のものにはならないので、バダルが察して笑い、「落ち着けよ」と言った。そして、バダルもゆっくり、のっそりと立ち上がった。
「何かあったのか」
「べつに事件事故というわけじゃないんだけど」
それを聞いて、アウシュリスは胸を撫でおろした。やはりアウシュリスの不安などあてにならない。
しかしロフは今もってなお真剣そのものだ。
「大事な話があるから、部族みんなを集めてほしいんだけど」
「全員をか?」
「そう! 全員をだよ。マクイ族のみんな、みんなで聞いてほしいんだよ!」
興奮したロフにも、バダルが「お前も落ち着け」と言った。
「何の話だ?」
「それは僕の口からは言えない。ノトカから話す」
それを聞いて、バダルとアウシュリスは顔を見合わせた。
今度こそ、アウシュリスはひとつの確かな予感をつかんだ。これは、きっと、現実のものだ。
「いいね? みんなでノトカの話を聞いてよ! マクイ族の未来に関わることなんだからね!」
「それは、俺も聞いていいのか?」
アウシュリスは少し意地悪な気持ちになって訊ねた。ロフが「はあ?」と眉間にしわを寄せる。
「みんなと言ってるでしょ、アウシュリス。アウシュリス抜きじゃみんなとは言えないよ」
そう言い残すと、ロフはまた森の中へ走っていった。
バダルが大きく伸びをした。
「これは、俺がお役御免になる日も近いぞ」
「いや、まだ二十年くらいはあるだろう。無事に育つまではお前が一族を率いなければならない」
「でもひとつ肩の荷はおりたな」
「それは、そうだ」
いまさらになって、ガラサの民の不思議な風習に救われていることに気づいた。アウシュリスが男で族長の子供を産めなくても、部族で一番優秀な女が自ら望んで次の族長を産み育ててくれる。海の仕組みは複雑ながら優しいもので、アウシュリスはほっと胸を撫でおろすのだった。
「じゃ、帰るか」
バダルが歩き出した。アウシュリスは「ああ」と頷いてバダルに駆け寄り、その腕に腕を絡めた。
海の音が、聞こえている。
<完>
紺碧の楽園 ~南国の海の王は北国の不遇な軍神王子を溺愛する~ 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid
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