マクシミリアンはミレーナから教わったのだ。
マクシミリアン・シルヴェニアの妻は非常に純粋な人だった。
第二王子の婚約者として相応しくなるべく、様々な教育は受けてきているのだろう。あのまっすぐすぎる性格で社交界で翻弄されずにやっていかれたのか? と思えば少々の疑問はあるが、それでも周囲に触れることさえできれば相手の思考を読む能力のある友人もいることだし、彼女なりになんとかしていったのだと思う。しかし、自分の妻となった以上、望まないのであれば人間の社交界に踏み込んでいく必要はない。エルフの社会において、自分の妻に敬意を払わないものはいない。彼女を害するものに対してマクシミリアンが容赦しないというのは、多分アレクサンダーの口から伝わっている。
それはそれとして、マクシミリアン自体は人間の国に対してさして興味はない。敵意もないが、好意もない。そんな立ち位置で人間界に接していた。今のこの状況が、想定外といって良い。
興味がないゆえにそれぞれの国の習慣などは知らない。そして、あの聖女は妙な事をたくさん知っているようだった。
隣国で育ったというのだから、ベアトリスが知らない文化を知っていることに不思議はない。しかし……それにしても、面白い習慣を教わったものだ。マクシミリアンはその日も、緩みそうにある口元を引き締めていた。
「おや、そろそろ登校の時間か」
ベアトリスが学院の制服を着て降りてきたのを見たマクシミリアンは、偶然を装って声を掛ける。彼女はすっかりあのスカートの短さにも慣れたのか、笑みを浮かべると「行ってまいります」と頭を下げた。
彼女の後ろには専属のメイドたちが控えている。同じようにこちらを見守っているコレウスにも、こちらを見るな、と手で合図を出す。
「……マクス様?」
マクシミリアンの仕草に疑問を感じたのだろう。ベアトリスは不思議そうな顔になる。
「これから出掛けるあなたに、無事で帰れるおまじないをしてあげよう」
「無事……学院に行くだけですよ?」
「それでも、だ。私からのおまじないは迷惑かい?」
そんなことはありません、という彼女の後ろにこちらに半分背を向けている使用人たちが見えた。
「では」
「はい」
じぃっと見上げてくる彼女は、なにをするのかと期待に満ちた表情を浮かべているようだ。マクシミリアンは、妻の頬を両手で包むと上を向かせる。純真な瞳で見てくる彼女に「目を閉じて」とお願いする。素直に目を閉じたベアトリスに、そっと顔を寄せる。
「いってらっしゃい。無事で帰ってくるんだよ」
「は――」
返事をしようと小さく開けられた唇に、己のそれを重ねる。驚いたように小さく呻いた彼女を気に掛けず、そのまま口付けを深くしていく。しばらく妻の甘美な唇を味わったマクシミリアンは、顔を離すと小さく唇を舐めた。
「気を付けて」
「……は、はい……っ」
彼女はあの真っ赤になっている顔が元に戻るまでは、登校出来ないかもしれない。遅刻しないと良いのだが。
「それでは、私も行ってこようかな」
マクシミリアンは、だらしなく緩んでいるだろう顔をみんなに見られないように、すぐに魔導師の同の自分の執務室へと転移した。
そんなことを数回繰り返したある日。
転移のために指を慣らそうとした瞬間、ベアトリスにその手を止められた。なにか用事が? と見返せば、彼女は少し爪先立ちになって、自ら唇を寄せてきた。
触れるだけの、音もない口付け。
ぶわっと一気に毛穴が開くような感覚に陥る。
「……え?」
「マクス様も、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ビー? いや、今……」
「私からでは、さしておまじないの効果などないと思いますけれど」
「っ……ん、うん。いや、ありがとう」
「では、行ってまいります」
玄関を出て行くベアトリスを見送ったマクシミリアンは「旦那様、今になって真っ赤ですね」というコレウスからの無粋な一言に「少し黙っていてくれ」と返すので精いっぱいだった。
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