クララは意外と読書家である②
クララは、数少ない自分の衣服を何枚かと、母親が作ってくれた刺繍のハンカチ、唯一残っている両親の絵姿、それから、そっと母の書斎に忍び込んで、あのエルフの王と人間の少女の物語、それから母がお気に入りだっただろう本を数冊、小さな鞄に詰めた。この本は、人間の文字が読めないのだろう高潔なエルフの家にあっても読んでもらえない。母の形見として持って行っても、多分罰は当たらない。祖父に渡された少し窮屈な誰のものともわからない清楚なワンピースを身に着け、本のせいでずしりと重い鞄を手に玄関に降りていくと、そこにはさっきの男、それからその背後にもうひとりの見知らぬ男が立っていた。
「これでございましょうか」
「ああ、そうだ、その子だ」
「本当によろしいのですか? 他にもうちには器量のいい才能もある娘が」
「だから何度も言ってるだろう。嫁が欲しいわけでも愛妾が欲しいわけでもない。むしろそんな目で私を見る娘は迷惑なんだよ。まだそんな気は一切ないわけだしなぁ」
うるさい、とでも言うように、マクシミリアンは手を払う仕草で祖父を黙らせる。
「ではせめて、我々の準備した贈り物を受け取っては――」
「それも要らん。何度言わせるんだ? なにも気遣うなとあれだけ言っただろうに余計なものを用意して。そういうものでこの家の評価は上がりも下がりもしない。私が見るのは個人だけだ。歴代の王がどう振舞っていたかなどに興味はない。歴代の王と、お前たちの家の関係にも興味はない。私は、私のやりたいようにやるだけだ」
それが気に入らないと歯向かいたいなら好きにしろ、と軽く笑った男に、祖父の媚びるような笑みが引き攣る。
「それでもどうしても貢物をしたいというから、私が欲しいものをひとつ選ばせてもらうと言ったんじゃないか。それを了承したのはそっちだろう? だったら、文句を言わず欲しいと言ったものを差し出せばいい。この家にとってその子の価値があるとかないとか、そんなのは私にとってはどうでもいい話だ」
「マクシミリアン様、お言葉が過ぎています」
「……コレウス、お前主人に恥をかかせるんじゃないよ」
人前で小言はやめてくれ、と言ったマクシミリアンはクララの荷物を持ってあげるようコレウスに命じた。状況が掴めず困惑しているクララの手から、荷物が奪われる。
「ではな。返せと言っても返さないからな。この子はもう、うちの子だ」
複雑そうな顔で深く頭を下げた母の実家の面々が再び顔を上げるより早く、クララはマクシミリアンの魔法で天空城へと連れ去られた。
ふかふかの絨毯の部屋に連れていかれ、柔らかいソファーに座るように言われたクララは、そこで目の前の若い男が族長本人、つまりはエルフの王であり、魔導師の塔のマスターをも兼任していて、今日をもって自分の雇い主となったひとであることを知らされたのだった。混乱しているクララを見て笑ったマクシミリアンは、彼女に立派な部屋を与え、温かな料理を食べさせ、休ませてくれた。
一切魔法の使えなかったクララに、その基礎を叩きこんでくれたのはコレウスだった。誰も教えてくれなかったから使えなかっただけで、充分な魔法の才能を持っていたクララはあっという間に基本的なものを習得した。これ一定以上の上級魔法を学ぶには、魔導師の塔に通う、またはマクシミリアン自ら教えてもらう必要があった。
しかし、マクシミリアンは忙しいようであまり城にいなかった。あちこち動き回って仕事をして疲れて帰ってきた彼に教えを請うことはできない。ここでの生活をするのに必要以上の魔法は身につけた。
魔法で制御されているこの城で生活するのに問題はない。メイドとしても十分に働ける。そのことに満足していたクララは、魔導師の塔に通い、更に自分の才能を磨く必要性を感じなかった。
「それよりも、もっとここでお役に立ちたいです!」
と、アクルエストリアに来た時の胡乱な表情からは想像もつかないほど明るくなったクララは、全力でコレウスの誘いを拒絶した。
「だって、落ちこぼれハーフエルフの私では頑張っても大した魔法は使えるようにならないでしょうし、ここの皆さんは私よりもずっとずっとたくさんの有力な魔法が使えるわけですし、ここを離れて学んだところで、城での生活に有益になるようなものを取得できないのなら意味はないです。だったら1日も早く、メイドとしてしっかり働かせてください!」
「クララ、そんなことは――」
「わかってるんです、自分のことは」
笑顔で快活だが、聞く耳を持たない。コレウスから才能がないわけではないと言われても「才能があるわけでもないですからねぇ」と言葉を曲解してしまう。彼女の生い立ちを考えれば、自分に自信がないのは十分に想像できることだった。
本人の意識が変わらなければ、本来ならば簡単に身に付くはずの魔法も覚えられないだろう。才能を考えればもったいないが、彼女が上を目指すのは今ではないようだ。本人がやる気になったらいつでも受け入れてやればいい、というマクシミリアンの言葉で、クララはそれ以上の魔法教育を施されることはなくなった。それでも、彼女は魔法が使えることになったことに十分満足していた。
アクルエストリアにすっかり馴染み、毎日を楽しく暮らしていたある日、クララにとって恩人であり主人であり、そして憧れのひとでもあったマクシミリアンが、突然人間の娘を「妻だ」といって連れて帰ってきた。
妻、という言葉に、クララの脳裏にすぐ浮かんだのは例の物語。しかし「数年の契約結婚らしい。丁重にお相手するように」とコレウスから言われ、主人が幸せな結婚をしてくれることを心待ちにしていた使用人たちは、なんだ訳アリの形だけの結婚なのか、と少々残念に思うことになった。
のもつかの間、どうやら、主人とその妻の間に流れる空気は、ただの契約上の夫婦関係とは言えないようなものになっていった。
「これは、アレだね」
「来ましたね、旦那様に、春」
「まだ自覚はないみたいだけど……愛らしい奥様とずっといっしょに添い遂げれば良いと思うんだけどねえ」
「契約なんて無視しちゃえば良いんだよ。旦那様が奥様を愛しているのはモロバレなんだしさあ」
使用人たちはこそこそとそんな話をしていた。主人の契約上の妻となったベアトリスは年若く、見た目から受ける冷たい印象とは違ってとても温かで、心配になるほど純粋な人だった。そして、彼女のまとう空気も香りも、エルフや精霊たちの好むようなものだったのだ。ペガサスの長であるクイーンからも懐かれている。清らかな人であることは確かだった。彼女の専属メイドとなったクララも、ベアトリスを好ましく思っていた。
クララも、ふたりを応援したい気持ちはあった。 しかし、彼女は人間で、マクシミリアンはエルフなのだ。あのエルフと人間の恋物語は、ふたりは幸せに暮らしました、で終わっていたけど、寿命の違う種族が番った時の悲劇は、クララ自身がよく知っている。綺麗なだけでは終われない関係なのを知っている。
ベアトリスはマクシミリアンたちよりもずっと早く老いていき、しかしマクシミリアンはその姿を変えることはない。いつまでも若いままだ。生じる見た目の年齢差は、女性側が人間であれば更に本人たちを苦しめるだろう。年老いて、体が動かなくなっていくのが、歯痒くて仕方なくなるだろう。自分が死んだ後、残された愛する人が自分のことを永遠に愛してくれるのか、それとも別の相手を見つけてまた愛して生きていくのか、どちらの選択も嫌だと感じるかもしれない。
でも。
――旦那様なら、どうにかしてしまうかもしれない。
マクシミリアンはそう思わせてくれるひとだった。
だからクララは、当初は言葉だけだった「結婚してくださってありがとうございます」という感情を、本気のものとしてみることにした。この先もずっとふたりは一緒にいられるかもしれないと、本気で期待してみることにした。
今のクララは、マクシミリアンとベアトリスが永遠に添い遂げてくれることを、そしてそれを近くで見守れることを心から望んでいるのだった。
「相変わらず本が好きなんだな」
休憩時間にほくほくと物語を読んでいたクララに、通りかかったマクシミリアンが話しかけてくる。
「面白いですよ、このお話も」
「また人間の書いた恋愛小説か?」
どんな内容だ? と尋ねてくる主人は、最近クララの持っている本の内容を少し気にしている様子でもある。
「イケメンおじ様貴族に、実家から虐げられていた若いご令嬢がお嫁入りして愛されるお話です」
「面白いのか? それ」
「面白いですよぉ! 年齢差! 年上男性の落ち着きや色気と、それとは真逆の可愛らしいと思えてしまう部分のギャップとか!! 今流行ってるんですよ、イケおじもの」
よくわからない、という顔をしたマクシミリアンだが、すぐに「ならば私もそのイケおじとかいうのに入るんじゃないか? 人間からしたらかなり年上じゃないか」などと言い出す。
「旦那様は違いますね」
ズバッと言い切れば、彼は不服そうな顔になる。
「どうしてだ。十分長生きしてるぞ」
「旦那様のご年齢ですと、人間からしたらおじいちゃんというか、もう骨というか」
「おじいちゃん……? 骨……?」
「イケおじっていうのは、渋いおじさまの愛らしい部分にきゅんきゅんするものなんですって。旦那様、わかっていらっしゃいませんね」
「わからん」
「旦那様、渋くないじゃないですか」
「……………………」
どこからどう見ても、麗しの美男子だ。おじさまなどという呼び方は到底似合わない。
「渋いって言うのなら、まだコレウスさんの方が……」
「アレがイケおじか?」
「どちらかと言えば」
「……ああいうのが、好まれるのか?」
この主人は、自分の妻の好みについてメイドに聞いているのだろうか。そんなもの、本人に直接確かめればいいのものを。クララは呆れるやらもどかしいやらで口元がむにむにと動いてしまう。
確かにベアトリスはアクルエストリア出身の若い女性ではあるが、流行りを追って好みを変えるタイプには見えない。それに、彼女を見ていれば、誰を好ましく思っているのかなんてバレバレだ。
――奥様から恋されているのに、まだ気付いていないのかしら。
気付いていないといえば、多分ベアトリス本人も自分の感情に気付いていないだろう。本当に、なんて遠回りで面倒な夫婦なのたろう。これは、応援のし甲斐もあるというものだ。
クララは笑い出しそうになるのを堪えて、真面目な顔を作る。
「そうですね、アクルエストリアの人間の若い女性の中では、多分」
「私よりもか……?」
「いえ、旦那様はまた別格なので大丈夫ですよ」
「それは、ビ……いや、なんでもない」
「参考になるかどうかわかりませんけど、若い女の子がきゃーきゃー言っちゃうような台詞や行動、たくさん書いてあるんで読んでみますか?」
興味はない、と言い切られるかと思いきや、主人は手を差し出してくる。意外に思いながら、もう読み終えた中からいくつか、ベアトリスが弱そうな言動をヒロインの相手役がとるものを選んで主人に渡す。
「それは、でも物語の中の出来事ですから、実際にはちょっと、というものもいっぱいありますよ」
「わかっている」
「それに、奥様の好みかどうかはまた別問題ですからね」
「わかっている」
「多分、旦那様はそのままが一番いいんだと思いますけど」
「……ん? どういう意味だ?」
主人の質問に答えずにこっと笑ったクララは、次の仕事のために厨房へ向かう。そこで料理人から「そういえばクララはハーフエルフだったねぇ」と話しかけられた。
「はぁい、そうですよぉ」
「ということは、旦那様と奥様の間の子供もハーフエルフになるんだから、クララはいろいろと教えてあげられるねぇ」
「……え?」
きょとんとしたクララに、料理人の女エルフは笑う。
「エルフの私たちじゃあわからないことも、同じハーフエルフだからわかってあげられることもあるだろうねぇ。クララ、責任重大だねぇ」
多分、クララがベアトリスの専属メイドになったのは偶然だ。指名したマクシミリアンも、子供のことまで考えてのことではなかっただろう。あの頃は、本気で契約のつもりだったようだから。
でもこの先、ハーフエルフという立場だからこそ出来ること、大好きな旦那様と奥様から期待されることがあるのだとしたら。
――全力で、お応えしなくては。
クララの表情が変わる。誰からも期待されない、落ちこぼれハーフエルフだから鍛錬しても無駄、なんて、昔に誰かから言われたことをずっと気にしていた自分こそ愚かだったのだと気付く。
――私、変わらなきゃ。
クララがそう考え出したのは、ベアトリスが精霊と契約する直前のことだった。
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