ミレーナは入れ知恵する③
「壁ドン」
「はい、壁ドンです」
なんですか、それは、という顔のベアトリスに、ミレーナは声を潜める。
「意中の相手を、壁際に追い込むことですよ。こうやって」
とん、と手を壁についてベアトリスを囲い込めば、彼女はきょとんと見返してくる。
――お姉様、可愛い。
元よりゲーム内のベアトリスも比較的好きなキャラではあったのだが、実際に対面して話をできるようになった彼女は非常に愛らしかった。それはもう、あのマクシミリアン・シルヴェニアが骨抜きになるのも理解できるほどに。
「それに、どんな意味が?」
「意味? そんなのないですよ」
「え?」
「相手をドキっとさせるだけです」
もしかしたら別の意味合いがあるのかもしれないけれど、少なくとも、ミレーナにとってはそうだ。あくまでお手本としてやってみせただけのミレーナは腕を突っ張ってなるべく距離を取っているのだが、こんな場面をマクシミリアンに見られたら、同性とはいえただでは済まないだろう。
「これ、もっと親密な関係ならば、壁に肘から手首までをつけた壁ドンもあるんですけど」
「……はあ」
「多分、男性からやる方が多いんじゃないかとは思うんですけどね?」
「……はあ」
「シルヴェニア卿からやられたら、ドキっとしません?」
反応の鈍いベアトリスに尋ねれば、視線を上に彷徨わせて想像してみたらしい彼女は、ほんわりと頬を赤らめる。
――あ、そこはちゃんとときめくのね?
ミレーナの前世の知識を仕込めばそれなりに活用してくれているマクシミリアンだが、たまには妻側に知識を仕込んで手料理以外の方法で彼にサービスしてみるのも、夫婦間の程よいスパイスになるのではないだろうか。
なにせ、ベアトリスが今現在こんなに愛らしくなっているのも、彼女が安心して生活できているのも、全部はマクシミリアン・シルヴェニアが彼女を庇護下に入れて溺愛しているからだ。恋を知らなかった彼女に、恋心を抱かせた彼のことは賞賛すべきだと思うし、下手に王家が手を出せない場所に避難させた彼の行動はGJとしか言えない。
自分があのタイミングで聖女として覚醒せず、かつ話を聞きつけた大司祭が確認のために現場に駆けつけなければ、ベアトリスとマクシミリアンは結婚していない。彼女はエミリオと結婚していたはずだった。そうなった時の彼女の苦労を思えば、エミリオとの婚姻が成立していなくて本当に良かった。
ヴェヌスタは、ベアトリスの相手を誰でも良いとしていたようではあるが、なんだかんだマクシミリアンが最有力候補だったのだろう。能力的にも、外見も、社会的な立場も、全攻略対象の中では断トツに上だ。彼女が安心して生活できるという意味では、誰の介入も許さないような権力の行使が可能なポジションのキャラではある。
さらに、彼には過去に因縁のある女性キャラはいない。この先にもいないはずだ。ベアトリスのことを煩わせるような設定の女性が存在しないというのは、それだけでもプラスポイントになる。
メタい話をすれば、展開によってはヤンデレ化する可能性だってあるし、純粋にメロメロ溺愛モードにもなれる、基本的にスパダリに近い気質のキャラクターだ。これは恋愛モノのヒロインの相手役としてなかなかに美味しいではないか。
今のところ、この物語では傲慢というよりは若干子供っぽく我儘に近い性格のようだが、そんな部分もベアトリスの性格をを丸くしていると考えれば可愛いものだ。
――結果、お姉様の相手役はマクシミリアンで大正解だったということよね。
ミレーナはにこりと笑う。
「ということで、今度やってみてください。シルヴェニア卿をドキっとさせちゃいましょう!」
「これ、男性からするものなのでは?」
「女性からしちゃいけないなんて決まりはないですよ?」
「喜ばれそうには思いませんが」
「そうでしょうか?」
それにマクス様は私よりも背が高いし、と言いながらも、この反応を見るに彼女はきっと実行してくれるはずだ。マクシミリアンがどんな反応を返したのか聞いてみたいが、彼女はきっと教えてはくれないだろう。
そんな風に思いながら、ミレーナは城に帰っていくベアトリスを見送った。
+++
――これは、なんだ。
マクシミリアンは、動揺を顔に出さないようにしながら顎を上げた。
部屋の扉に押し付けられている。部屋に入った瞬間「マクス様」と呼びかけてきた妻に、そこに追い込まれた。
「ビー?」
「はい」
「これは、なにを……?」
ドンッ、と肘から手首までを扉について、マクシミリアンを自分の腕の中に閉じ込めるような体勢で妻が身体を寄せてくる。口付けでもされるのか、と警戒、もとい期待したのだが、そういうわけでもなさそうだ。このままでは彼女の唇を無断で奪ってしまいそうだ、と自分を信じられないマクシミリアンはなるべく上を向いてその顔を見ないように衝動に抗っていた。
「壁ドン、と言うそうです」
「ああ、ミレーナ嬢か」
「はい」
あの子は妻になにを教えているのだ、と額を押さえそうになる。
迫ってくるような体勢になっているのに、ベアトリスはそれ以上なにをしようというわけでも、なにかを言ってくるわけでもない。これでは、いわゆる生殺しというものだ。
「あー、それで、私はどうすればいいのかな」
「……ドキドキ、しませんか?」
ちらりと彼女を見れば、あくまでも真顔で聞き返してくる。そこにマクシミリアンを焦らそうという意図は見えない。つまり、そういうことなのだ。
「ドキドキ……しない、わけではないが」
「ならば、それで終わりです」
そう言うなり、ベアトリスは身体を引いていこうとした。
やっぱり、と思いながらマクシミリアンは立ち位置を入れ替えて、彼女にされたことを真似してベアトリスを扉に押し付けた。
「っ?!」
「それで?」
身長差があるから、マクシミリアンがコレをしようとすれば彼女の顔を覗き込むような体勢になる。
「本当にこれで終わりで良いのかな?」
「マ、マクス様……っ」
「うん?」
「は、離してください」
「触ってはいないぞ」
にんまり微笑んで見せれば、カァッと彼女の頬が赤くなる。
頭を扉に押し当てれば、自然と垂れた髪が彼女の顔を覆う。それが彼女にとってどんな意味を持っているかわかっているくせに、マクシミリアンはそのような空気は一切出さずに妻を見る。
明らかな緊張と僅かな期待、興奮の見える彼女に黙って顔を寄せる。当然のように瞼を閉じる彼女に、口角が上がっていくのを感じた。
「おや。ビー? これはただ壁に押し当てて、相手をドキドキさせるだけの行動ではなかったのか?」
「………………」
薄く目を開けた彼女は、少し非難めいた目をしている。
「――してほしい?」
問えば視線を逸らすベアトリスの顎に指を掛けて上を向かせる。更に顔を寄せていけば、彼女は今度は目を閉じることもなく、じっと見返してきた。
――これは、なにもされないと思っている顔だな?
そんな表情を浮かべられると、期待を外したくなるではないか。にんまり微笑んだマクシミリアンは、噛みつくように少々荒々しい口付けをする。
「んっ!?」
驚いたベアトリスは、目を閉じるのも忘れたように見返してくる。同じように瞼を伏せることなく唇を合わせたマクシミリアンは、そのまま口付けを深くしていく。
「ちょ……マクス様、んっ」
「どうした?」
非難めいた彼女の声にそう聞き返しながらも、マクシミリアンはそれをやめようとはしない。ずるずると背中を扉につけたまま崩れ落ちていくベアトリスを見下ろして、彼は離した唇を拭う。
「それで? この後はどうすればいい?」
わざと問えば、ベアトリスに軽く肩を小突かれた。続きを期待しているような表情。しかし、それを口にするのは躊躇われている。そんな雰囲気の彼女に、僅かな加虐心をくすぐられる。
当然、マクシミリアンは彼女をどこまでも甘く愛したいだけで、いじめたいわけではない。彼女を無駄に泣かせるつもりはない。長させるのなら嬉しい意味での涙か、もしくは――いや、これ以上考えていると、本当にこのままベッドに運びたくなってしまう。
柔らかく笑ってベアトリスに手を差し伸べたマクシミリアンは、彼女の手を取って立ち上がらせる。
「ミレーナ嬢からどんな話を聞いたのか、教えてもらってもいいかい?」
「はい。と言っても、先ほどの説明がすべてだったのですが」
ベアトリスはスカートを整えながら、ソファーに導いたマクシミリアンの膝の上に座った。そこを定位置と思ってくれている彼女が愛しくてならない。
「ミレーナ嬢はなにを期待していたんだろうな?」
「わかりません」
「それで、ビーはどうしてそんなに不服そうなんだ?」
「……わかりません」
本当はわかっているくせに、とその耳元に囁いて軽く唇を押し当てれば、ベアトリスは「本当に知りません!」と怒ったような声をあげて、頭を大きく左右に振ったのだった。
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