ベアトリスは眠れない。

「今日は遅くなるから先に休んでくれ」


 朝、マクシミリアンからそう告げられたベアトリスは「わかりました」とお行儀よく答えた。

 どうしても夜でないと交渉のできない種族との話し合いがどうこう……マクシミリアンにとってはやりたくない仕事だったのだろう。説明も面倒だったようで、どこのどのような種族と、彼のどの立場での話し合いを行うのだか、ベアトリスは一切把握していない。

 気にならないわけではないが、なにかしら嫌なことが――例えば、相手方からマクシミリアンが言い寄られて心が揺れるとか、そういうことはないと思っているから、不安があるわけでもない。それに、どんなものが相手だとしてもあのマクシミリアンに危険が及ぶだなんてことは想像もしていなかった。


 なのに、だ。


 ベアトリスは今、ベッドに横になってからかなり長い間寝られずにいた。

 ――どうしたのかしら。

 眠いはず。なのに寝られない。

 ――あまりにも寝られないから、少しお酒もいただいたのに。

 いつまでも来ない眠気に、お酒でも飲んだら良いのでは? といつもマクシミリアンが飲んでいるワインを少しだけ持ってきてもらった。ふわふわとほろ酔いになったベアトリスは、これですぐに眠りにつくことが出来る、そう思ったのに。

 ――寝られない……

 何度ベッドの上で寝返りを打ったことだろう。10や20ではきかない気がする。


「……はぁ」


 もしかしたら、エミリオに妙な薬を盛られてマクシミリアンと会えなかった期間を思い出すのかもしれない、と考えが至れば、このまままた会えなくなるのでは? と不安になるのも当然な気がする。


「マクス様……」


 名前を口に出せば、その分切なくなってくる。


「私、こんなに弱くなかったはずなのだけれど」


 夫が隣にいないと眠れないだなんて、情けなくて誰にも言えない。

 思い返せば、最初にマクシミリアンと同じベッドで朝を迎えた日だって、ベアトリスは緊張で眠れなくなっていたのだ。気にした彼がここに来てくれて、抱き枕になってほしいというあまりにも不躾なベアトリスのお願いをきいてくれた。優しく抱き締めて、額に口付けをして。

 あの日の彼の反応を思い出すと、もしかしたらあの頃にはベアトリスをある程度は意識してくれていたのかもしれない。単純に、男女間の話などなにも知らない無自覚な娘が無防備にしていることに対して困惑していた可能性もあるが。

 ――きっと、困惑の方ね。

 やたら動揺していたマクシミリアンを思い出すと、口元が綻ぶ。

 あの頃は、こんなにもあのひとを愛しく思うようになるだなんて思っていなかった。恋をするということもわかっていなかったし、愛も言葉でしか知らなかった。

 ――マクス様は、私に色々なことを教えてくださったのよね。


「好きだわ」


 思わず零れた言葉に、誰に聞かれているわけでもないのに焦って口を押さえる。唇に手の平が触れる感触に、彼の唇を思い出して余計に切なくなる。


「……なんてこと……」


 もう彼の妻となってから2年以上が経つというのに、好き、愛している、という気持ちは日々強くなるばかりのようだ。

 唸ったベアトリスは、ごろりと大きく転がって普段マクシミリアンが使っている方へと身体を移動させる。ぽす、と顔を枕に埋めれば、そこには彼の香りが残っている。何度も深く息を吸ってマクシミリアンの香りを胸いっぱいに吸い込んで、いない本人の代わりにそれを強く抱きしめる。胸がいっぱいになって、その奥底がじわじわと疼きだす。

 

「――マクス様……」

「ビー? まだ起きていたのか」

「?!」


 思いがけない本人からの返事に飛び起きたベアトリスの目に、優しく微笑んでいるマクシミリアンの姿が映る。これは、夢? 都合のいい幻? と自分の頬をつねってみれば、確かに痛い。


「本当に、マクス様?」

「ああ、なにをやっているんだ。赤くなってしまっているじゃないか」


 ただいま、と赤くなっている頬に口付けてきたマクシミリアンに堪らず縋りつくとしっかりと抱き返される。


「おかえりなさいませ……っ」

「どうしたんだ。なにか、あなたをわずらわせるような問題でも起きたか?」


 ベッドに腰掛けてきた彼は、まだ外出着のまま。仕事が終わってすぐ、寝室に直接戻ってきてくれたのだろう。


「……寝られなくて」

「うん? おや、珍しいな。飲んでいたのか」


 顔を寄せてきたマクシミリアンは、ベアトリスの呼気に含まれているわずかなアルコールの香りに気付いて、ちゅっ、と軽く口付けながら笑う。


「マクス様のせいです」


 少し拗ねるベアトリスに目を丸くしてみせたマクシミリアンは「私、なにかやったか?」身に覚えはないようで真剣な様子で首を捻る。怒らせたのならこんな風に抱き着いては来ないだろうし、口付けも許されないはず。だとしたら、なにを? と悩んでいる顔を見ているうちに、ベアトリスの顔は自然と笑みを作っていく。


「全部全部、マクス様のせいですからね」

「えぇ……私、本当に覚えがないのだが……?」


 なにをやってしまったのか教えてくれ、と言ってくるマクシミリアンの頬に、ベアトリスはそっと口付ける。大きく目を開いて瞬きした彼の耳元に「マクス様が隣にいらっしゃらないと眠れない身体になってしまったようで……もう、なんてことをしてくださったんですか」などと囁けば、勢いよく肩を掴まれた。


「? マクス様?」

「すぐ着替えてくる。ああ、風呂もあるから少し時間がかかるかもしれないが、待っていてくれ」

「ええと……はい」


 足早に部屋を出ていこうとしたマクシミリアンは、扉の前で立ち止まると振り返った。


「すまない、今日は私が隣にいても眠らせてあげることは出来ないかもしれない」


 その表情はあまりにも真面目なもので、一瞬意味を飲み込みかねたベアトリスは首を傾げそうになる。しかし、すぐにその言葉の意味に気付いた彼女は熱くなる両頬を手で押さえた。


「――お待ちしております」

「ああ。なるべく早く戻る」


 扉を開けながらコレウスとクララを呼ぶ声を聞きながら、全身真っ赤に染めたベアトリスは再びマクシミリアンの枕に顔を埋めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る