第14話

 あそこがアビゲイルのお墓だよ、と言った。


 学院に出立する一週間前の事だった。美しく手入れされた中庭の、ガゼボの向こう。池に掛かる橋を渡った先にある。


 木々に囲まれ崖を隔てる柵を背に、その墓石はひっそりと佇んでいた。


 もうこの頃にはコンラートととの気心も知れて、砕けた話し方をするようになっていた。


「すごく元気な赤ちゃんで、僕は初めて聞いた赤ちゃんの泣き声に驚いたんだ」


 真夜中も真夜中の、月がてっぺんをすぎる頃にアビゲイルは産まれたと言う。母である王妃が産気づいたのが夕食を食べ終えてからだというのだから、長丁場だっただろう。


 赤子の泣き声は王宮に響き渡り、子供のコンラートですら飛び起きた程だった。眠気まなこに王妃の私室に飛び込んで目に入ったのは、産湯で洗われる産まれたての妹。


「真っ赤でくしゃくしゃの顔で目いっぱい泣いてた」


 白い石碑にはアビゲイルの名が彫られている。


 ざざん、ざざん、と押しては返す波音が物悲しがった。


「きっと今頃この庭を走り回ってるはずだった」

「………………」

「僕は一度も抱き締めてはあげられなかった」


 コンラートはほとほと泣き続けた。庭師に貰った花束を墓前に捧げ、茫洋と俯いている。王族である前に仲の良い家族だった。


 安息日以降も何度か国王も交えて夕食を取ったのだ。国王は何かとアルノルドを気にかけ、時にはコンラートにアルノルドの面倒を見るように窘めていた。


 己の父は父である前に王だから、その気持ちはあまり想像が出来なかった。


「アビー、僕、来週から学院に行くんだ。しばらく来れなくてごめんね」


 コンラートは泣いた。散々泣いて、そしてアルノルドを見て微笑んだ。


「ここにはあまり人が来ないんだ」

「……前から気になっていたんだが、王妃陛下は?」


 国王とは何度か顔を合わせているのに、王妃の姿を一度もこの王宮で見ていないのだ。


 あの安息日の日ですら、夕食は国王とコンラート、そしてアルノルドの三人だけであった。


「母上は心を病んでしまって、部屋から殆ど出てこないから……」

「そうか……すまない」

「会いたい?」

「挨拶はしなければとは考えていた」


 礼儀として、王妃にも面会は必要だと思っていたのだが。病を患っているならば無理はしない方が良いだろう。


「気にしてくれてありがとう」


 海風が潮の匂いを運んでくる。悲劇の王女アビゲイルは未だ民から想われている筈なのに、この場所はどこか殺風景だった。





 それからアルノルドたちは学院での寮生活は瞬く間に過ぎ去った。貴族の子息子女はアルノルドが知る人間よりも穏やかな人柄が多く、特に問題もなく日々は過ぎていった。


 言語や算術、歴史に薬草学。そして剣術に魔法の授業が主たるもので、その他に自主的な活動を推進している。


 教会や孤児院への奉仕活動や、後々平民となる子供は平民の暮らしを学び、学校の裏庭では畑を耕す。出来上がった作物を授業で使い、学生や教員の食事に回すのだ。


 コンラートに取り入ろうとする者もなく、アルノルドに必要以上に探りを入れる者もいない。学院は規律正しく運営されて、皆よく学び、よく働いた。


「安穏としすぎている気さえしてくるな」


 食堂で配膳される食事は貴族の順位に限らず平等だ。出来すぎなくらいに不満の出ない生活が恐ろしかった。


「僕は将来この国を治められるのか不安になるよ」

「サンタバユスよりはましだろう?」

「アルノルドの話を聞いて、この平和が脅かされる時を考えてしまうんだ」


 ハドラでの生活も三年目になると、水で煮た平麦の味にも慣れてくる。人々の穏やかさも、作物の育つ豊かさにも。山奥での共同生活ですらも。


 きっとハドラはこれからも神の祝福と糧を得て平穏な治世が続くのだろうと、アルノルドですら漠然と考えてしまうのに。


「だがハドラは飢饉とも疫病とも無縁だろう」

「怖いんだよ、アルノルド」


 ここ最近のコンラートは、ずっと何かに怯えているのだ。もうすぐアルノルドはこの国を発って自国へと帰らなければならない。


 遊学期間は三年以上は伸ばせない。自国の学院を卒業しなければ、サンタバユスの王侯貴族は特権階級の人間として認められないのだ。


 ああ、コンラートが羨ましい。こんなにも安穏とした生活は、アルノルドには二度と味わえないだろう。


「アルノルド……」

「もうすぐ私が帰ってしまうから不安なのか?」

「……そうだね」


 可愛いやつだと思って、嘘つきなやつだと思った。


 十五歳になって急激に伸びた背は、コンラートの方が僅かばかり高い。銀糸の髪は肩を過ぎる程度まで伸びて、項でひとつに縛っていた。


 剣術を続けているから身体付きも逞しくなり、幼い頃の面影もなくなってしまったというのに。


 コンラートは迷子の子供のように視線をうろつかせ、俯いた。


「父上が変なんだ」


 国王に最後に会ったのは冬の休みの安息日だ。三年前と変わらぬ鋭利な目元をたゆませて、コンラートとアルノルドの学院生活の話を聞いていた。


「いつの間に会ったんだ?」


 寮生活は基本的に外出が出来ない。山奥にある学院では近い街でも馬車で一日は掛かる距離だからだ。王都までとなると一週間の旅路になるだろう。


 基本的に学生は冬と夏の休みに帰宅する。それも学院に帰宅届をら出さなければならなかった。


 アルノルドが知る限り、コンラートが二週間以上休んだ記憶はない。はて、と首を傾げるアルノルドに、コンラートは躊躇いがちに口を開いた。


「先日父上から手紙が届いたんだ」

「えっ」

「学院に来てから初めての手紙だった。僕は母上に何かあったのかと思った」


 食堂は次第に人が増えてきて、話し声の雑音が入り交じる。アルノルドはさっと周囲を見回すと、コンラートを促して立ち上がった。


「部屋に戻ろう」


 アルノルドがカルロに目配せすると、彼はすかさずアルノルドの食事を手に持った。コンラートの侍従も同じように後ろをついてくる。


「カルロ、後で午後の授業を休むよう伝えておいてくれ」

「承知致しました」

「アルノルド! やっぱりいいよ、僕が気にしすぎなんだ」

「いいから。私があなたの話を聞く機会はこれが最後かも知れない」


 アルノルドはあと数ヶ月もすれば帰国するのだ。コンラートがはっと息を飲んで、唇を噛んだ。





「父上は僕にアルノルドを国に返すなって言ったんだ」


 優しく朗らかな王だ。家族仲が良く、誰よりもコンラートを気遣っていた。


「理由は?」

「わからない」


 コンラートは頭を力なく振って投げやりに笑っている。コンラートの部屋は物が少なく整っている。


 学習用の机の他に丸いテーブルがあり、壁際にベッドが設置されていた。入口から右手にはクローゼットが置いてある。そこに教材も仕舞っているのだろう。


 テーブルの上に持ち込んだ食事を置いて、けれども手をつける気にはならなかった。侍従ふたりは部屋の外で待機させ、室内はふたりきりだ。


「私を国に返してはならないと言ったんだな?」


 国王の加護は未来を見通すのだ。だとすれば国に帰れば国王にとって、もしくはアルノルドにとって不都合な事があるのだろう。


 しかしアルノルドはハドラの内情を自国で流布するつもりもないのだ。それは国王もわかっている筈だ。


 ならばなぜ、アルノルドは帰国してはならないのか。


「それは星読みが関係しているのか?」

「恐らく……父上の星読みは絶対だ。占いの域を出るから加護なんだろう」

「そうか……」

「アルノルド……この国にいてくれないか」


 そうしたいし、そうしてやりたい。


 だがアルノルドはサンタバユスの王族だ。


 サンタバユスの王妃に憎まれようと、兄の第一王子に疎まれようと、誰に睨まれようがサンタバユスで生まれ、サンタバユスの為に死ぬ運命なのだ。


「出来ない」

「そうだよね」

「私は死ぬのか?」


 わからない、とコンラートは力なく答えた。

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