第4話
「それでは名も知らぬ方、お元気で」
外は夕暮れの色をしている。丸一日寝た上に男と無意味な語らいをしたのだから当然だ。枯れ木に変化はなく、降り積もった雪に足跡は見当たらない。
アビーは安堵して、そろそろと崖の裂け目から身を乗り出した。後から着いてきた男も一通り外の様子を伺って、その身を外気に晒している。やはり風があるだけで身体が冷える。アビーは毛皮のコートをかき抱き、ぶるりと身震いをした。
「待て、こんな山奥をひとりで行く気か?」
「あなたがいなければ連れが来ますのでご心配なく」
「連れというのはあの獣の声の主だろう。……その、大丈夫なのか?」
それは使役出来ているのかという事か、それとも強さの事だろうか。
確かに男はネーヴェの存在を知っているが全く知らないのだ。光属性を持っているのだから、そこまで悪人ではないだろう。なにより男の元まで連れてきたのはネーヴェ本人なのだから。
聖獣はそもそも光属性の魔力が好きなのだから、男に懐いても不思議はない。アビーは心配そうにこちらを伺う男を見やり、周囲に視線を流し、ううん、と思い悩んだ。
人を簡単に信用してはならないが、初対面の名も知らぬ男にそこそこの情報を話してしまった。それに男はどうやらこの力を知っているようなのだ。
豊穣の加護、と言った。アビーは初めて聞く言葉だ。勿論豊穣の意味も加護の意味も知ってはいるけれど、そんな魔法があるとは母も教えてはくれなかった。
ううん、ともう一度アビーは唸った。
「あなたはどこへ向かうのですか」
「サンタバユスだ。そう言うあなたはどこへ?」
サンタバユス帝国。集落を中心に見て、西側に位置する大国だ。随分と現在地から離れているが、こんな所まで逃げてきたのか。
一体どれだけ追いかけられたのか。やはり面倒事だろうか、とアビーの悩みは更に増えてしまった。
サンタバユスはアビーの目的地と近い方ではあるだろう。アビーはこれから南にある唯一の中立国ハドラへ向かうのだから。サンタバユスを経由するのも悪くはない。
なにせアビーは世事に疎いのだ。ラール国以外であれば世界を見て回るのも悪くない。
「口は固いですか」
「軽くはないと思うが……」
「人を売り飛ばす事をどう思いますか」
「そういう事を聞く人間は世間知らずだとは思う」
ぐうの音も出ない。世間知らずは事実だ。
「わたしには判断しかねます。ネーヴェに決めてもらいましょう」
「待て! ひとりで大丈夫と言うなら無理に引き止めたりしない!」
男が慌てる間に突風が吹いて、アビーの背後に降り立った。男は顔色を悪くして愕然とアビーの背後を見つめ、流れるように頭を抱えてしゃがみこむ。
「厄介事だと思ったんだ!」
「ここで会ったのも何かの縁でしょう。わたしはハドラへ向かいます」
「こういうのは当たり屋って言うんだ……!」
なるほど、とアビーは頷いた。
「ネーヴェは幼体の頃に拾いまして」
「いい。詳しく知りたくない」
「聖獣なのに本当にいたずらっ子なんですよ。春から夏にかけて狩りをするのですが、獲物を追いかけ回して突っつき回すのです」
「知りたくない……!」
男は項垂れながらアルノルドだと名乗ったので、アビーもアビーと名乗ったのだった。そして項垂れたままのアルノルドをネーヴェの背に無理やり乗せて、自分はアルノルドの前に跨って、アルノルドが止める間もなくネーヴェは山の中を駆け出した。
正に山から山へひとっ飛びである。
「アビー、聖獣は人に見せてはいけない」
「アルノルドは我儘ですね。ネーヴェが良いと言うのです。ネーヴェが嫌な時は呼んでも来ません」
もうすぐ人里に降りるから、暫くはネーヴェともお別れだ。中心地に行けば行くほどネーヴェが身を隠す場所が無くなってしまうのだから仕方がない。
ネーヴェはざかざかと枯葉を踏みしめて速度を落とすと、村の近くで足を止めた。みっつの山を飛び越えて、ひとつの運河を飛び越えて、約半日で辿り着いたのはサンタバユスの最北端、国境に広がる農村地帯だった。
夕方に動き始めたから夜明けが近い。平原の地平線はうっすらと白んで朝の気配を感じた。
運河を挟み、何も無い平地に伸びる一本の舗装されない街道をネーヴェはとことこ歩いている。地平線に建物の影が見え始めた頃、ふたりはネーヴェから降りて自分の足で歩き始めた。
ネーヴェは溶けるように消え、辺りはびゅうびゅうと吹き荒ぶ冬の風で土埃が舞っている。
「あと半時も歩けば辺境伯の城に着く」
「失礼ですが信用出来るのですか?」
「恐らく大丈夫だろう」
政敵と言うからには貴族間での問題だろうに、アルノルドは平然と歩を進めている。車輪で踏み固められた舗道は霜が降りていたが、年の半分以上を雪に囲まれて暮らしてきたアビーには些か暑い。
吐き出される呼気は体温が上がっているせいか今まで見た中で一番白かった。
アビーはそっと前を行くアルノルドを伺った。
薄汚れて尚輝く金髪は、アビーと同じように緩やかなウェーブをえがく。左目にかかる前髪を鬱陶しいと言わんばかりに掻き上げると現れるまつ毛も同じ色をしていた。
その瞼の下にある瞳は麦穂に隠れる冬の湖面のようだと思った。
「随分と詩的な表現をするのだな」
「まあ、口に出ていましたか」
「あなたの教養は母君から?」
思った事が口から飛び出していたようだ。たわんだ目元がアビーを愉快だと物語っている。
「母が教えてくれた生きる術です」
初めて教えられた文字はアビーの名だ。母が流れるように扱う羽根ペンは、思うよりずっと書きにくいのだと知った。粗悪な紙がペン先の割れ目に引っかかってはインクを飛ばす。渋々木炭に持ち替えて木の板に名前を書いた。
アビーの名前、母の名前、ネーヴェの名前。集落の人々の名前。アビーは賢いな、と住民に褒められる度アビーは誇らしかった。アビーが賢いのではない、母の教えが良かったのだと。
「文字の読み方、手紙の書き方。狩りの仕方、野宿の仕方。火の起こし方、獲物の捌き方」
刺繍の刺し方、ドレスの着せ方、家中の掃除の仕方。
「作物の育て方。全部母が教えてくれました」
指折り数えても両手の指を全て使ってしまう程、母の教えは多岐に渡った。けれども料理だけはいっかな上達しなかった。母は料理だけは下手だったのだ。
水っぽくって塩っ辛い。だからアビーが安心して火を使えるようになる頃には、料理はアビーの担当だった。その頃には母は随分とやせ細ってしまったけれど。
「そうか」
「ええ」
「今日は暖かくして寝た方がいい。身体が冷えると気持ちも冷えるものだ」
「ええ」
アルノルドはアビーの腕を引いた。ザクザクと霜の降りた土面を踏みしめ、近付く城壁に向かって手を挙げる。隙間窓から人影が覗き、城門から兵士が馬に乗って掛けてくる。
「止まれ!」
兵士が叫んだ。大きく逞しい馬は前足を上げて嘶いた。腰に剣を携帯し、胸当てだけの簡素な鎧を着込んでいる。
「通行証を出せ」
居丈高に手を出す兵士に、アルノルドは懐から何かを取り出すとぞんざいに放り投げた。
アビーの手のひらよりも小さく見えたそれを兵士が胡乱げに検め、見る見るうちに血の気が引いて、転がるように馬から滑り落ちて膝をつく。
「辺境伯はいるか」
「はっ! すぐお呼びしますので応接間でお待ちください。ご案内致します」
ぽかんとアビーが惚けている間にも話は進み、アルノルドは兵士が乗ってきた馬にアビーを横座りに乗せた。
「…………もしかして王子様でしたか」
「もしかしなくても王子だ」
なるほど、とアビーは頷くしかなかった。
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