第5話

 城内は石で出来ているせいか底冷えがした。靴底に当たる感触は固くざらついている。


 客人が歩くスペースにだけ赤い敷物が続いているようで、花や絵画を飾るでもないこの城は、屈強な戦士というのがぴったりな雰囲気だった。


 アビーはアルノルドに手を引かれたまま、そろそろと周囲を見回した。前には迎え出た兵士から引き継がれた老爺が歩き、後ろでは兵士よりも洗礼された男がふたり、窮屈そうな詰襟をものともせず胸を張ってついてくる。


「アルノルド……様? あの、大丈夫そうならわたしはひとりで先を行きますが」

「今日は暖かくして寝ると言っただろう、アビー」


 それはそうだが、こんなにも物々しい雰囲気の場所で寝るなんて考えていなかった。有り体に言えば心細いのだ。有事にネーヴェを呼ぶ訳にもいかない。


 アビーは知らず、己のローブの襟元を握りしめた。


「宿屋を教えてください。そちらに行きます」

「私はあなたの厄介事に巻き込まれたのだから、あなたも私の厄介事に巻き込まれるべきではないか?」

「事故なので」

「故意の事故は事件と言うんだ」


 アルノルドは喉を震わせて笑った。


 それはそうかも知れないけれど!


 己の世間知らずが呪わしい。母の教えは生活の知恵でしかなかったからだ。


 一行は長い廊下を突っ切って、重厚な濃い茶の扉の前に立った。老爺が恭しくノックしてドアノブに手をかける。


「旦那様、お連れ致しました」

「ようこそお越しくださいました、アルノルド殿下」

「挨拶は良い。すまないな、こんな明け方に」

「なに、戦中に比べれば可愛いものです」


 応接間には既にひとりの男が待っていた。老爺の口振りからして、この男が辺境伯なのだろう。グレーの前髪を後ろに流し、早朝にもかかわらず黒い詰襟の服を身にまとっている。


 目尻には皺が寄り、口元は髭が取り囲んでいる。鋭利な目元は額の中央から右頬に掛けて大きな傷跡が走り、荘厳な様に拍車をかけた。


「して、ご用向きは」

「その前に、ライヴレック辺境伯はどこまで知っている」

「上が無能だと下は苦労する、とだけ」

「全くその通りだ」


 アルノルドに促されるまま、アビーはふかふかのソファーに腰を下ろしてふたりのやり取りをぼんやりと眺めている。


 当初の予定ではのんびりと南下して、要所要所の町の宿屋で休息を取り、母の故郷に向かう予定だった。決してこんな所で老爺から勧められるままに紅茶を飲んで菓子を食べている筈がなかったのだ。


 紅茶は渋みもなく果物のような香りがして、菓子はさくさくとした軽い食感で食べやすい。思えば集落を出てから口にしたものは寝起きの水だけだった。


 食べ始めたら手が止まらなかった。日々、干し肉と硬いパンと僅かな野菜とを食べてきたのだ。初めての菓子はアビーを虜にさせた。


「アビー、その菓子が気に入ったのか」

「美味しいのもありますが、お腹が空いていたのを思い出しました」


 ああ、とアルノルドは納得した。何も食べていないのはアルノルドとて同じだったが、空腹が過ぎて忘れていた。


「すまないが、彼女に軽食を用意してやってくれないか」

「殿下はどうされます」

「話が終わってから考えよう」


 ライヴレック辺境伯と呼ばれた男が手で合図をすると、背後に控えていた老爺と兵士のふたりは静かに部屋を立ち去った。


「王宮は今大騒ぎだそうですよ」

「風の噂か? 私が消えてどれ程経った」

「七日といった所でしょうか。国境を超えて来たという事はサンタバユスに居なかったのでしょう? 今までどちらにおられたのか」

「恐らくハッシアだろう」


 アビーは黙々と菓子を食み、紅茶を飲んだ。そうか、己のいた国はハッシアと言うのか、と詮無いことを考える。


 南にハドラがあり、西にサンタバユスがある。集落を更に北上すればラールの鉱山が聳え、その他に周辺諸国や半島が存在するのだ。


 ライヴレック辺境伯は驚いた様子で目を見開いた。


「飛ばされたという事ですか」

「そのようだ。それも咄嗟に相手へ反撃したから座標が狂ったお陰でハッシアで済んだ」

「まさか……!」

「相手は私をあの流刑地に飛ばしたかったのだろう」

「魔法で人を飛ばすなんて可能なのですか」


 怒りに震える辺境伯は、思わずテーブルに打ち付けそうだった拳を既で止めた。緊迫した空間に、場違いな少女の声が落ちたのだ。


 腹が膨れて眠くなったのか、紅茶で身体が温まって弛緩しているのか、アルノルドの隣に腰掛けたアビーの身体が徐々にアルノルドの方へと傾いていく。


「……風が強ければ人の身体は浮くだろうな」

「アルノルドは随分軽いんですねえ」

「やかましい、寝ていろ」


 アビーの軽口にアルノルドは嫌そうに顔を顰めた。





 魔法の他に、魔術というものが存在する。魔法を元に形式立ててより複雑に、より難解に術を編むのだ。


 火と水で煮え湯を作るように風と水で氷を作る。そんな些細な組み合わせから発展させる者を魔術師と呼んだ。


「転移魔法を使えるのは王家直属の魔術師団だけでしたか」

「犯人なんて瑣末事だ。問題は陛下が認識しているであろう現状だな」


 王族の首を狙うなど大胆な行動に出られるのは、結局王族が関わっているからに他ならない。


「折角の正妃腹でも無能だから地位を脅かされると分からないのさ。無能だから」


 アルノルドは無意識に己の膝の上で寝こけるアビーの頭を撫でた。ここサンタバユス帝国の第二王子として、十八年前に生を受けた。


 下級貴族の側妃の息子でありながら王族の誰よりも光り輝く金髪は、周囲の期待に答えるように光属性の魔力を有していた。属性というのは単純に本人が一番相性の良い属性というだけで、四大元素であれば訓練次第で誰でもある程度は使えるようになる。


 だが光と闇は別物だ。このふたつばかりは、属性に適さなければ使えない。


 アルノルドの誕生は殆どの国民に受け入れられた。幼い頃から優秀で、物覚えが良く剣筋も良かった。官吏たちは持て囃した。


 次代の王はアルノルド様に違いない。第一王子との年齢差は十もある。だと言うのに、周囲は浮かれた空気で騒々しい。


 正妃も兄も、その無能を棚に上げてアルノルドを目の敵にした。


「大人しく婚約者と結婚していれば磐石だっただろうに。あの公爵令嬢も憐れなことよ」

「今は修道院でしたか」

「あの父親が瑕疵のない娘を入れる訳がないだろう。公爵の伝手を辿って他国へ嫁いだそうだ」


 アルノルドは乾ききったサンドイッチをひとつ手にした。兄は婚約者に全てを押し付け、つまらない女に入れあげた。


 まだ皇帝どころか立太子すらしていなかったのに、誰の目に見ても爛れた関係を持っていたのだ。王妃とその実家は第一王子を使って国の実権を握りたがっている。


 だから配偶者もまた馬鹿が良かったのだ。


「……このまま出奔するか」


 王妃の実家は権力に目が眩み、兄は甘やかされる現状に慢心し、己が皇太子になるのだと信じきっている。


「殿下が居ない間に王妃と第一王子はやりたい放題でしょうなあ」

「国庫を湯水の如く使うだろうな。税収が上がるまでに馬鹿な真似をしてくれれば良いのだが」


 例えば国王殺しとか。


「陛下への贈り物だけでなく飲食物や部屋の飾りに至るまで、気をつけるよう言付けて構わないだろうか」


 このままライヴレック辺境伯の手を借りて王都まで戻る算段だったが、膝の重みが出奔を後押しした。


 もう七日も居ないのだ。一月も一年も変わらないだろう。


「随分とその娘を気に入っておられるのですね。どこで拾ってこられたんですか」

「当たり屋的な事故だ」

「大事件ではないですか」


 ハッハッハ! ライヴレック辺境伯の腹に響くような笑い声にアビーは猫のように飛び起きた。


 テーブルの上にはサンドイッチの皿と、新しいカップが並んでいる。きょろきょろと周りを見回し、すぐ横にアルノルドが座っているのを認めてホッと息を


「やめろ!」

「ウグッ」


 つけなかった。バチン! と音が鳴る勢いで口を塞がれ、切れ長の涼しげな目元がアビーを睨みつけている。


「学習したか?」


 アビーはおもちゃのように首を縦に振るばかりだった。

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